デフォルト

殺したくないから、食べたくないから…
それは人を殺したくないこと、食べたくないことと変わらない…
コーラ・ダイアモンドに同意する(動物を食べることと人を食べること)…
これ以上の理由があるだろうか…
他に食べるものがあって、それで体調が十分なら、わざわざ殺して食べる必要はない…
もし動物を見て食べたい感情が湧くのなら、それは経験によって操作されたものだ…
それは一種の鈍化であり、欲望はそうやって作られる…
見えなくなるから、もっと見ようとする…
聞こえなくなるから、もっと聞こうとする…

食べないことこそデフォルト…
ソローやカフカもそう言いたいのだと思う(MEAT IS MURDER)…
デフォルトに理由はない…
食べることにこそ理由が必要ではないだろうか…

それは栄養だろうか…
舌を満たすことだろうか…
普通だからだろうか…
本来の食性なのだろうか…
野菜より肉が安いからだろうか…
狩猟採集生活をしているからだろうか…
高冷地で植物が育たず流通も不便だからだろうか…
震災でチキンラーメンしか手元になかったからだろうか…
それとも今まで考えたことなかったとか…

いろいろ理由は考えた…
でもすべて自分を納得させることはできなかった…
自分の生きる環境に於いて、相応な理由はひとつもなかった…
すべて言い訳でしかないと感じた…

理由がないなら食べない…
その方が無理がなく気持ちいい…
それがデフォルトということ…

少なくとも今日の巨大な食肉産業を担保する理由はどこにもない…
現代社会はSF映画を見なくてもSFを実現している…
天文学的数字の犠牲が毎日実行され、
しかもみんな楽しそうに食べている…

身体は知性及び知的活動によって修正を受ける…
分からなくなる…鈍化…欲望の生成…
道徳や倫理は損得が聖域を装ったものにすぎない…
理由をつける…偽装する…

まず認めることから始めたい…
そこからしか始められない…

肉食による脳の肥大化があったとして、
それは「正解」なのだろうか…
別に小さくてもよかったのではないだろうか…

2千年前、2万年前の人たちが、今より不幸だったとは思えない…
進歩や成長は、切り取られた成果にすぎない…
意識は常に見落としている…

https://tashkie.com/2024/11/24/irreplaceable-3/

ゴリラは草ばかり食べている

より便利に…
より優位に…
より刺激を…

埋められないものを求め続け、
切り取られた成果が正解として評価される…
状況を整理する(正当化する)ために、
幸福、平和、安全、健康、環境、権利が利用される…
それは道徳、倫理と呼ばれている…
自分に、他者に、要求するもの、課すもの…
無償ではないもの…

人は自分に騙されている…

人らしさなのかもしれない…
ただどうしても馴染めない…
受け入れられない…
解放されたい…

恩恵…
マラソンの世界記録が更新されたり…
寿命が伸びたり、背が伸びたり…
感染症に強くなったり…
薬のおかげで助かったり…
宇宙に行けたり…
日本でバナナやアボカドが食べれたり…
蛇口を捻ったら水が出たり…
電話で話せたり…

反面…
海や大気や土は汚れ、
分解できない物質が生まれ,
お金がないと生きていけず、
体内で必要な栄養を合成できなくなり、
タバコなしではドーパミンが分泌できなくなり、
グローバル化で自給できなくなり、
毎日天文学的数字の動物が犠牲になり、
生涯の殆どを労働に費やし、
そして戦争がやめられない…

恩恵と引き換えに歪みが生じている…
無理をしている…
迷惑をかけている…
奪っている…
退化している…

人社会で成果をあげるとはそういうこと…
進歩や成長はいつも何かを犠牲にしている…
私たちの生活が向上しているということは、
地球や人や動物が相応の犠牲を強いられているということ…
衛星が飛び交う宇宙空間まで汚れてしまった…

仕方ないことだろうか…
「本来」はどこに行ったのだろうか…

私たちは地球上の癌細胞になってしまった…
ミミズやシロアリがいなくなれば地球は困るのだろうけど…

ゴリラは草ばかり食べている…
なのに筋骨隆々だ…

距離をおくこと…
緩めること…
それが本当の成果…
それは最高に難しい…

萌の朱雀

萌の朱雀(1997)
監督 河瀨直美

圧倒的映像美と既視感に涙した…
壮大なスケールの中の等身大の物語…

人はこの地で、何も分からぬまま、
それぞれのワンシーンを演じている…

伝統とは何だろうか…
慣習とは、常識とは何か…
謙虚さ、慎み深さとは…

人は生き方を忘れてしまったのだろう…
生きているのか、生かされているのか…

それぞれのワンシーンへの賛歌…

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EBINO/KIRISHIMA

第14回 霧島・えびの高原エクストリームトレイル – 62km(DNF)

大会に参加している限りゴールを目指して進むわけだけど、決してゴールするために走っているわけではない…ただ道半ばで終わるとやはり気持ちを埋めることができない…まだ先にある負荷や痛みを、情景、匂いを、湿度、風、木々や水の音、鳥や虫の声を味わいたかった…

第3エイドでリタイヤを決めた…コースが変わってたり、ザックを新調したり、初めてハットを被ったり、補給を再検討したり、夏の体調不良対策をあれこれやったり、60歳がもう目の前に迫ってたり、何かと変数が多かったこともあり、今回は未知の部分が多かった…実際レースに出て感じたことを書いておこう…

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Jiddu

何らかの考えや事象が、ある意味人を盲目にし、従わせる力を持つとき、僕はその状況に対して「正解」という言葉を使っている…この章でクリシュナムルティが「信念」「知識」という言葉で表現しようとしていることとほぼ一致しているのではないだろうか…

古くは神が「正解」を作る役割を担っていたのだろう…その後神は弱体化し、ある意味デカルトを境に人の知性が「正解」を作るようになった…いずれにしろ人は何かを信じているし、もっと身近な言葉を使うなら、いつの時代も「常識」や「普通」は幅を利かせてきた…

人の意識はバーチャルな世界を作り出す…切り取り、写し、抽出によって個々が生まれ、比較や評価が始まる…それは優劣や損得へとつながる…私たちは優位性や利便性や快楽に対して「正解」を見るようになる…ただしそれは必ず負の側面を伴っている…私たちは恩恵の方しか見ようとしない…すべては一つの切り取ることのできない「生」なのだと思う…

私たちは「正解」によって、国家、お金、車、畑、薬、エネルギー、スマホを手に入れた…しかし「正解」は依存と暴力を作りだしている…もし争いや環境破壊や経済格差やストレスを無くしたいのなら、まず人間が何者なのかを知らなければならない…地球上の害虫であり癌細胞になっている状況を正面から見る必要がある…SDGsは詭弁でしかない…

日々の生活で何ができるだろうか…
まずは学ぶこと…
そして自分を解放したい(緩めたい)…
あとは少しずつできることに取り組むしかない…

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第6章 信念
実は「私」という存在は無であり、空虚な人間であるかもしれない…
 そうした不安や恐れを覆い隠すために
 私たちは何らかの信念にすがりつこうとする 

「私たちは政治的、宗教的信念や、民族的、あるいはその他様々なタイプの信念が、人間と人間を切り離し、対立や混乱や敵意を生みだしていることを知っています。これは明白な事実です。それにもかかわらず私たちはそのような信念をなかなか手放そうとはしません。」(p65-66)

「しかしコップというものは、空のとき初めて役に立つのです。これと同じように、信念、教義、主義、引用句などを一杯詰め込んだ精神は、実際には非創造的な精神なのです。それは与えられたものを反復する精神に過ぎません。空虚や孤独に対する不安、停滞していることへの不安、何かに到達したり、成功したり、成し遂げたりできないという不安、ひとかどの人間でもなく、またそのような人間になることもできないことに対する恐れ−こういう不安から逃げ出そうとすることが、私たちがこれほどまでに熱心に、貪欲に信念を受け入れている理由の一つなのです。しかしだからと言って、何らかの信念を持つことで、私たちは私たち自身を理解できるでしょうか。できはしないのです。いやそれどころか宗教的あるいは政治的信念は、明らかに私たち自身を理解する妨げになるのです。」(p67)

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DISTANCE

DISTANCE
監督:是枝裕和

人は信じることから逃げられない…
人の世はいわば大きな教団なのだろう…
教団はいつも何かやらかすものらしい…
戦争、環境破壊、格差社会、動物の犠牲…

私たちは信者であり、
実行犯だ…

かつては神がいたが、もう必要とされていない…
神や真理は嫌われている…

裏返すと見えてくる距離の正体…

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ファッション

他者と向き合い話す、服を纏う…
同じように、思想や倫理観は、世の中に話しかけている…
そのすべてが独り言…
鏡を見て、自分に話しかけている…
答えを持たず、何らかの均衡を保とうとしている…

止めることはできない…
それは意識の生業であり文明そのものでもある…

人は裸では生きれなくなった…
ただ、依存し過ぎていないだろうか…

進歩や成長とは何か…
そもそもそれらはありえるのだろうか…
それらは私たちを騙すものではないだろうか…

意識は善悪や正解を創造する…
暴力と依存が始まる…

働かないと落ち着かなくなり、
働くことが正常だと勘違いする…

終わらない争い…
終わらない格差…
終わらない汚染…
終わらない動物の犠牲…

人は裸で生きることができなくなった…
戻れないのかもしれない…

それでも相応しい未来を向いていたい…
生きるものとして…

Jiddu

すべての生物に、刺激、反応、データが連携した過程はある…人と他の動植物を分けているのは観念だろう…観念は対象化の産物であり、環りにくさ、鈍さ、逸れに繋がっている…目標や理由は人の作り物だ…他の動植物に見られる目標や理由は、見ている人が作り出しているものに過ぎない…

「為す」とは、成功、獲得、進歩、進化、成就、完成、勝利、成長‥荘子が嫌っていたこと…人はそれらに「正解」を見るようになる…「為す」ことによって人は恩恵を得るが、同時に何かを犠牲にしている…食べ食べられ環っていくものではなく、ゴミを生むようなあり方…「正解」によって犠牲はいつも過小評価され、因果関係さえ無視されるようになる…それは一種の暴力であり、病の症状でもある…

動物を食べないのは、単純に「食べたくない」からだ…或いは「他に食べるものがある」から…倫理でもなければ環境とか健康でもない…食べない方が無理がなく心地いいから…頭で考えた結果ではない…人を食べたくない気持ちと変わらない…

走ることは一種の瞑想だと思っている…「私」を緩める作業…瞑想とは荒療治なのではないだろうか…つまり走る必要もなければヨガをする必要もない…何かを取り戻すためにわざわざやること…生きるものとして、人は荒療治を必要としている気がする…

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第5章 行為と観念
私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている
 あのようになりたいという絶え間ない葛藤が
 私たちを苦しめつづけている

「さて、経験を構成しているこの三者−行為者、行為、目的(および結果)−は、明らかに何かになる過程なのです。もしそうでなければ、何かになるということは起こらないのではないでしょうか。もし行為者もなく、ある目的に向かう行為がなければ、何かになるということはできません。しかし周知のように、私たちの日常の生活は、常に何かになる過程にほかならないのです。「私」が貧乏であれば、金持ちになるという目的を持って行動します。「私」が醜ければ、美しくなるということを望みます。こういうふうに、「私」の生活は何かになる過程なのです。生きる意志というのは、意識の様々な異なったレベルで、またいろいろな違った状態の中で、何かになろうとする意志なのです。そしてその過程の中で、刺激、反応、命名、記録などが生じてくるのです。ところで、この何かになるということは葛藤であり、苦痛ではないでしょうか。つまり、「私はこれである。だから私はあれになりたい」ということは、絶え間のない闘争にほかならないのです。」(p55)

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Jiddu

私や自己と呼べるようなものは、人だけではなく動植物にもあるように思える…ただ人の意識/思考は、対象化によって、他の動植物にはない自我を作り出す…それは環りにくさ、あるいは鈍さの現れなのかもしれない…クリシュナムルティは創造的であるべきだと言う…自我を緩める必要がある…その先には、より広い視野と謙虚さがあるのではないだろうか…

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第4章 自己認識
あるがままの自己を知ること−自己変革こそ
真の革命と呼ぶことができる

「世界は私たちから独立した存在ではなく、私たちが世界そのものなのです。…私たちの精神の働きがあまりに鈍重なので、世界の問題は私たちに関係ないし、そういう問題は、国際連合とか新しい指導者が解決するべきものだと考えてしまうのです。こういうものの考え方をするのは、その人の精神があまりに鈍感だからです。」(P40)

例えばガザの悲劇を私たちはどう捉えているだろうか…私たちは悲劇が作られる社会の一員として日々過ごしている…そういう社会を作り育てている…それは大袈裟な解釈ではない…大袈裟(そして都合がよい)なのは私たちの日頃の行いの方ではないだろうか…お金を稼ぎ使うことに明け暮れる…ゴミを作り出し、車を運転し、道徳で武装し、便利や優位を追求する…身体で生きないといけない…場所に生きないといけない…身の丈でないといけない…

「生きるということは、私たちがお互いに関係を持っていることであり、孤立して生きることではないのです。…この世界に対立や悲惨や闘争が起こるのは、私たちが正しい人間関係を欠いているということが分かります。…私たちがその窮屈な世界の中でお互いの人間関係を変えることができたなら、この新しく生まれた人間関係は、ちょうど波が波紋を描くように、絶えず外へ外へと広がっていくことでしょう。」(p41)

「私たちはたいてい、常に不満を持ち、その状態から急激な変化が現れることを望んでいるのですが、結局、私たちは何かある目に見える結果を得ることで、この不満にたやすく捌け口を与えてしまうのです。…その結果、私たちは骨の髄まで凡庸に堕して、私たちの存在の全体の意味を発見しようとする気迫も熱意も失ってしまうのです。」(p42)

「変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです。しかし、このあるがままの自分を知るには、非常に敏捷な精神を必要とします。…あるがままのものは絶えず変化や変質を受けているので、その動きを迅速に追っていくためには、精神はいかなる教義や信念や行動様式にも拘束されてはならないからです。」(p45)

「創造的状態の中には自我というものがなく、もはや精神は、私たちの経験、野心、快楽の追求、欲望の中心、あるいは要ではなくなっているのです。創造力は持続的状態ではなく、一瞬一瞬の新しい、一つの動きなのです。しかもこの動きの中には、「私」とか「私のもの」といったものは存在せず、またそこでは、思考は特定の体験、野心、功績や、目的とか動機といったものに囚われなくなっているです。」(p50)

勝手に生きて何が悪い…その通りだと思う…どちらかというと勝手に生きることをクリシュナムルティは推奨している…ただ何の観察もなしに勝手に生きても、人社会に飲み込まれて勝手に生きることはできないだろう…

できるだけお金に頼らないようにするとか、可能なら自分で作物を育てるとか、そういう試みや規範こそ生きる者に相応しい…