Jiddu

何らかの考えや事象が、ある意味人を盲目にし、従わせる力を持つとき、僕はその状況に対して「正解」という言葉を使っている…この章でクリシュナムルティが「信念」「知識」という言葉で表現しようとしていることとほぼ一致しているのではないだろうか…

古くは神が「正解」を作る役割を担っていたのだろう…その後神は弱体化し、ある意味デカルトを境に人の知性が「正解」を作るようになった…いずれにしろ人は何かを信じているし、もっと身近な言葉を使うなら、いつの時代も「常識」や「普通」は幅を利かせてきた…

人の意識はバーチャルな世界を作り出す…切り取り、写し、抽出によって個々が生まれ、比較や評価が始まる…それは優劣や損得へとつながる…私たちは優位性や利便性や快楽に対して「正解」を見るようになる…ただしそれは必ず負の側面を伴っている…私たちは恩恵の方しか見ようとしない…すべては一つの切り取ることのできない「生」なのだと思う…

私たちは「正解」によって、国家、お金、車、畑、薬、エネルギー、スマホを手に入れた…しかし「正解」は依存と暴力を作りだしている…もし争いや環境破壊や経済格差やストレスを無くしたいのなら、まず人間が何者なのかを知らなければならない…地球上の害虫であり癌細胞になっている状況を正面から見る必要がある…SDGsは詭弁でしかない…

日々の生活で何ができるだろうか…
まずは学ぶこと…
そして自分を解放したい(緩めたい)…
あとは少しずつできることに取り組むしかない…

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第6章 信念
実は「私」という存在は無であり、空虚な人間であるかもしれない…
 そうした不安や恐れを覆い隠すために
 私たちは何らかの信念にすがりつこうとする 

「私たちは政治的、宗教的信念や、民族的、あるいはその他様々なタイプの信念が、人間と人間を切り離し、対立や混乱や敵意を生みだしていることを知っています。これは明白な事実です。それにもかかわらず私たちはそのような信念をなかなか手放そうとはしません。」(p65-66)

「しかしコップというものは、空のとき初めて役に立つのです。これと同じように、信念、教義、主義、引用句などを一杯詰め込んだ精神は、実際には非創造的な精神なのです。それは与えられたものを反復する精神に過ぎません。空虚や孤独に対する不安、停滞していることへの不安、何かに到達したり、成功したり、成し遂げたりできないという不安、ひとかどの人間でもなく、またそのような人間になることもできないことに対する恐れ−こういう不安から逃げ出そうとすることが、私たちがこれほどまでに熱心に、貪欲に信念を受け入れている理由の一つなのです。しかしだからと言って、何らかの信念を持つことで、私たちは私たち自身を理解できるでしょうか。できはしないのです。いやそれどころか宗教的あるいは政治的信念は、明らかに私たち自身を理解する妨げになるのです。」(p67)

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ファッション

他者と向き合い話す、服を纏う…
同じように、思想や倫理観は、世の中に話しかけている…
そのすべてが独り言…
鏡を見て、自分に話しかけている…
答えを持たず、何らかの均衡を保とうとしている…

止めることはできない…
それは意識の生業であり文明そのものでもある…

人は裸では生きれなくなった…
ただ、依存し過ぎていないだろうか…

進歩や成長とは何か…
そもそもそれらはありえるのだろうか…
それらは私たちを騙すものではないだろうか…

意識は善悪や正解を創造する…
暴力と依存が始まる…

働かないと落ち着かなくなり、
働くことが正常だと勘違いする…

終わらない争い…
終わらない格差…
終わらない汚染…
終わらない動物の犠牲…

人は裸で生きることができなくなった…
戻れないのかもしれない…

それでも相応しい未来を向いていたい…
生きるものとして…

Jiddu

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第3章 個人と社会
真理を発見するためには
 あらゆる主義・主張から自由でなければならない 
社会は貪欲と羨望−優越したものに対する
 あなたの羨望を根底にしている

「観念というものは、常に敵意と混乱を生み出します。ですから、もしあなたが左派や右派の思想の本や、あるいは聖典などに依存しているならば、あなたは、仏陀やキリストや、資本主義や共産主義などの単なる「見解」に依存しているのです。…今までに他の人たちが言ったことを捨てることが必要ではないでしょうか。」(p28)

「社会は「あなた」と「他の人」との、「あなた」と「私」との人間関係の働きなのです。それゆえ、この不断の内部の革命と、この創造的な心理の変換がないかぎり、その社会は静的なものになり、活気のある働きを喪失してしまうのです。社会が常に静的で固定化し、そのため繰り返し粉砕されなければならなくなるのは、この内部の革命を欠いているためなのです。…ありのままのあなた自身、あなたの思考や感情、それにあなたが日常生活でやっていることなどが、そのまま外部に投影され、それが世界になっているのです。もし、私たちの心の内部が悲惨で、混乱したり、混沌としていれば、その投影されたものがそのまま世界や社会になるのです。」(p30-31)

「この社会は貪欲と羨望−優越者に対するあなたの羨望−を根底としています。…羨望は、私たちの人間関係の中で最も破壊的な要因のひとつになっています。…「あなた」と「私」の関係には、表面的には尊敬の形を装っていますが、実際には多くの悪意が存在しているのです。…ここから、嫉妬や腹立ちや怒りが生み出され、さらにこのような感情が私たちの人間関係の中に絶えざる闘争を引き起こすのです。…信念というものは、愚かさを示しているのです。なぜならば、信念は人間関係を分離させるもので、結合させるものではないからです。」(p32-34)

「外部の行為は、ひとたび完了して片付いてしまうと、静止してしまいます。そして、もし社会を構成する個人と個人の関係が、心の内部の革命の結果として生まれなければ、その社会機構は静的なものになって個人を吸収し、その結果、個人をも同じように静的で反復的なものに変えてしまうのです。…社会は常に固定化の傾向にあり、常に個人を吸収しようとしていること、また、不断の創造的革命は、社会や外部にではなく、個人の内部にのみ起こりうるということ、これは明白な事実です。」(p35)

「一体なぜ社会は、現在はっきりみられるように、音を立てて瓦解してゆくのでしょうか。その根本的な理由の一つは、個人が、「あなた」と「私」が創造的でなくなってしまったからなのです。…つまり、「あなた」と「私」が模倣的になり、外面的にも内面的にも模倣しているということなのです。…あなたは、創造的な瞬間や、生き生きとした興味を感じるあの幸福な瞬間には、反復や模倣の感じがないことに気づいたことがないでしょうか。こういう瞬間は、常に新しく、新鮮で、創造的で、幸福なのです。このようにして私たちは、社会の分解の原因の一つはこの模倣であり、模倣は権威の崇拝にほかならないということが理解できるのです。」(p37-38)

争いや混乱であれ、その状況を「静的」と表現している…それは躍動する生と、追従できない知性とのギャップなのかもしれない…慌ただしい競争社会も、それは個人が鈍くなっていることの現れなのであり、逆に個々のパフォーマンスが上がることによって、社会はゆとりと平穏を取り戻すと…

ホッブズの自然状態を思い出すが、もっと柔軟に考えるべきだろう…ホッブズの自然状態は、思考を介した状態であり、人間の本来の姿というわけではない…知性によって病的になってしまった人間の姿なのであって、人には別の可能性、本来生きるものが持っている共生の感覚があるように思う…クリシュナムルティに言わせれば、ホッブズの自然状態は「静的」な状態だ…その状態から考えるのか、それとも別の可能性を含めて考えるのか…

今の社会を変えたいなら、政治や宗教や思想ではなく、個人の改革が必要だとクリシュナムルティは言う…こういうとそれは理想に過ぎないと言われそうだが、クリシュナムルティはそれが唯一の道だと言う…目の前のことに取り組むことは確かに必要だが、それによって何かが変わるだろうか…事態は悪化しているようにしか思えない…私たちはこの理想を無視し過ぎている…

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場所に生きる/身体で生きる

人は答えを失くした動物だ…
地球上で唯一生き方を忘れた動物…
他の動植物は違う…
常に答えを体現している…

知性を使う限り、考える限り、答えには辿り着けない…
知性、思考によって人は逸れていく、歪んでいく…

逸れるとは、
ゴミ、病気、ストレスを招くこと…
争い、格差、差別を招くこと…
与えることなく奪うこと…
環らないこと…
鈍くなること…

そして欲望に振り回され、
道徳で武装すること…

場所に生きないといけない…
身体で生きないといけない…

そのとき、思考とは答えに辿り着くためのものではなく、
答えと対話するためのものなのだろう…

おそらく私たちも答えを体現している…
それしかできないはずだから…

そもそも答えとは思考がつくりだしたもの…

この生きている世界にフィットさせたい…
理由や目標や成果を緩めながら…

幸福と無知

私たちは幸せになりたいと願っている…
あるいは平穏に暮らせればと願っている…
それが最低限の慎ましい願いと思っているかもしれない…
しかしそれは富や力によって支えられている…

私たちは食べられることを受け入れない…
動物の抵抗とは違う…
私たちの抵抗は「逸れ」ている…

私たちの幸せは、奪うことで成り立っている…
奪うことなしに富や力は得られない…
奪うとはつまり環りにくくなるということ…
逸れる(歪む)ということ…

意識や思考が始まったとき、
切り取り、写し、抽出という対象化が始まる…
「世界」と同時に「私」が始まる…
本来ひとつのものがバーチャルへ移行する…

バーチャルとは、
答えの不在であり、
作り物であり、
暇と退屈であり…
想像界であり…
ニヒリズムであり…
空であり…

私たちは解決を試みる…
制限と達成を作り出す…
損得、優劣が始まる…
欲望という病気が始まる…
道徳という偽装が始まる…

進化、進歩、獲得、成功、成就、勝利、完成…
私たちはそれらに正解を見るようになる…

正解は奪うことで成立している…
必ず負の部分、犠牲を伴っている…
負の部分は目の前から消えているかもしれない…
それらがまた現れるのは、ずっと遠くかもしれない…
それらはゴミや格差や争いや差別や病気やストレスやクマ被害となって現れる…
それらもバーチャルなものではあるが…

何かが起こっている…
私たちは気づかない…

生きるものとして…

蛇や虫や雑草を異常に嫌うこと…
道徳や常識や普通を異常に好むこと…
便利や勝利を異常に好むこと…
お酒がやめられない…
甘いものがやめられない…
タバコを吸うこと…
医療に頼ること…
薬に頼ること…

すべて同じこと…

文明依存症…
知性依存症…

美味しいものを求め続ける…
それがない生活は考えられなくなる…
無垢な甘みが分からなくなる…
十分なものを不十分と感じるようになる…

依存症によって、
私たちは鈍感になる…
パフォーマンスが落ちる…
自滅サイクルに入る…

生きるものとして、残念ではないだろうか…

パフォーマンスが上がると、
無垢な味、音、風景で十分になる…
道徳、常識、普通に縛られなくなる…
勝利、便利、刺激を追求しなくなる…
恥や損得に振り回されなくなる…
肉ではなく動物を食べていることが分かるようになる…
ゆっくり歩けるようになる…

積み上げてはいけない…
手放すこと…

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第8章 クマと結婚した娘

共存にはルールとマナーが必要だ
それを支えるのは、畏敬の念や無力の自覚ではないだろうか
それらが失われるとき、ルールは破られる
私たちは被害者になる前に加害者となる

私たちは国境を引いた
山も海も空も、誰かの所有となった
すべては人のものであるかのように

農薬で土壌は死に、やがて川や海を汚す
同時に腸内は必要な細菌を失う

固い道路や建物で地表は光を失い、
さらに皮肉にも太陽光パネルで光を失う

人は動物ではなく肉を食べるようになった
毎日圧倒する量を笑いながら食べている

動植物は自らの命でさえ分け合う
人は与えることなく奪おうとする
だからゴミや争いや病気が生まれる

そして今日もまた除草剤が使われる

大きな鳥にさらわれないよう

大きな鳥にさらわれないよう(2016)
著 川上 弘美
装画 nakaban

偶然同時に読んでいた『タネが危ない』(著:野口勲)と驚くほどリンクしていた…
クローン工場はメンデルの法則を利用したF1種(交雑種)を連想させる…
人間を地域ごとに隔離することは、固定種を維持する発想と重なる…
おまけに野口さんが携わった手塚作品も”大きな鳥”だ…

人工知能は答えに辿りつけない…
なぜなら知的認識とは「対象化」であり、答えからの「逸れ」だから…
知性が作り出すのはバーチャルな世界だ…
意味の世界のこと…

人の身体は意識(知性)を得て混乱した…
生のさまざまな姿は「私」や「欲望」や「孤独」へと変異した…
抑制や節度を失う時(ある意味神の不在によって)、バーチャルは暴走する…
知によって、人は依存症を患い、暴力装置と化す…

人工知能とは、知性が独立したものではないだろうか…
しかし人工知能は生(身体)を持たない…
動機を持たない、命令によって演算する装置に過ぎない…

人工知能に「私」や「欲望」や「孤独」は可能だろうか…
知の暴走はずっと前に始まっている…

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タネが危ない

タネが危ない(2011)
著 野口 勲

野生に損得はない…
すべてが分け合い、満ちている…
だからゴミも富も権力も生まれない…
でも私たちは恩恵を得るために何かを奪う…
それは歪みであり力…少なくとも私たちにとっての…
そして私たちは恩恵に正解を見てしまう…
海を汚すように自らを壊しているのに…

すべては自然の摂理なのだろう…
私たちは自然を破壊することができるわけではない…
ただ、人は自身の生きにくさへと自ら舵を切る…

自然と対のものがあるとするなら、それは知性が見せてくれるものだ…
何の抑制も節度もないとき、知性は必ず暴走へと誘う…

知性とは、本来ひとつのものを、切り取ったり、抽出したり、写したりする…
それら対象化は「逸れ」であり、答えを失うことに等しい…
人は知性によって分からなくなる…

そもそも畑で作物を育てることや、種を収穫して同種のものを育てることは、他の動物では為しえない知的作業であり、クローンを作る技術以外の何ものでもない…F1種とか雄性不稔がダメという話ではなく、それらを優先/奨励する流れが問題なのだろう…畑や道路を作ることが既に「逸れ」ていることを忘れたくない…危機感こそ必要なのだと思う…私たちは自分たちが何者なのかをもっと知るべきだ…

中和することの弊害も考えたい…無化、中和、矮小化、火消しの危険性…尖った部分を丸くする、極端な偏りを無くす、そういう作業は人にとって必要なものだろう…賢者の言葉を借りるなら「中庸」「中道」になるのかもしれない…それらは私たちの認識能力つまり「切り取る」ことへの警鐘なのだと思う…個々は個々であるだけに中和できてしまう…ただそのとき、問題のすり替えが行われたり、大きな流れを見失うこともある…「従うべき知り得ないもの」をいつも意識していたい…

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食べられることと…

私たち生き物は生き物を食べて生きている…
人間も、本来食べられる存在なのだろう…
すべてはそうやって環っている…

動物たちは襲う、逃げる…
彼らは唯一の手段を生きている…
答えを体現している…
彼らに死は訪れない…

死とは、人の発明品だ…
私たちは生を否定する…
食べられること、分解されることを否定する…
生き方を忘れてしまった…

人は動物を食べたいのだろうか…

人を食べたくない…
犬や猫を食べたくない…
牛や豚や鳥を食べたくない…

彼らはきっと私を私として認識できる…
私も彼を彼として認識できる…
同じ記憶を共有することもできる…

私たち人間や彼ら動物には主人を感じる…
代わりはありえない…

食べるのは最後の手段でありたい…
そのわりに人は、毎日圧倒される量を食べている…
笑いながら…