Jiddu

すべての生物に、刺激、反応、データが連携した過程はある…人と他の動植物を分けているのは観念だろう…観念は対象化の産物であり、環りにくさ、鈍さ、逸れに繋がっている…目標や理由は人の作り物だ…他の動植物に見られる目標や理由は、見ている人が作り出しているものに過ぎない…

「為す」とは、成功、獲得、進歩、進化、成就、完成、勝利、成長‥荘子が嫌っていたこと…人はそれらに「正解」を見るようになる…「為す」ことによって人は恩恵を得るが、同時に何かを犠牲にしている…「正解」によって犠牲はいつも過小評価され、因果関係さえ無視されるようになる…

動物を食べないのは、単純に「食べたくない」からだ…或いは「他に食べるものがある」から…倫理でもなければ環境とか健康でもない…食べない方が無理がなく心地いいから…頭で考えた結果ではない…人を食べたくない気持ちと変わらない…

走ることは一種の瞑想だと思っている…「私」を緩める作業…人にとって瞑想とは荒療治なのではないだろうか…つまり走る必要もなければヨガをする必要もない…何かを取り戻すためにわざわざやること…

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第5章 行為と観念
私たちは常に何かになろうとする意志にふりまわされている
 あのようになりたいという絶え間ない葛藤が
 私たちを苦しめつづけている

「さて、経験を構成しているこの三者−行為者、行為、目的(および結果)−は、明らかに何かになる過程なのです。もしそうでなければ、何かになるということは起こらないのではないでしょうか。もし行為者もなく、ある目的に向かう行為がなければ、何かになるということはできません。しかhし周知のように、私たちの日常の生活は、常に何かになる過程にほかならないのです。「私」が貧乏であれば、金持ちになるという目的を持って行動します。「私」が醜ければ、美しくなるということを望みます。こういうふうに、「私」の生活は何かになる過程なのです。生きる意志というのは、意識の様々な異なったレベルで、またいろいろな違った状態の中で、何かになろうとする意志なのです。そしてその過程の中で、刺激、反応、命名、記録などが生じてくるのです。ところで、この何かになるということは葛藤であり、苦痛ではないでしょうか。つまり、「私はこれである。だから私はあれになりたい」ということは、絶え間のない闘争にほかならないのです。」(p55)

「このどちらが先に現れるかを発見するのは、非常に重要なことです。もし観念が先であれば、行為はその観念に順応しているだけですから、それはもはや行為ではなく、観念をなぞった模倣であり、強制なのです。まずこのことを認識しておくことはきわめて大切なことです。なぜかと申しますと、私たちの社会はたいてい知的な、すなわち言葉の上のレベルで構成されているので、私たちすべてのものにとっては、まず観念が先に生まれ、そのあとに行為が続いて起こるのです。そうすると行為は観念のしもべになってしまい、ただ単にいろいろな観念を組み立てるは、明らかに行為に好ましくない作用を与えることになります。つまり、観念はさらに別の観念を次々に生んでいくのです。このように観念だけが増殖していくと、そこから必ず反目が生まれてきます。その結果、社会は知的な観念の操作ばかりで、頭でっかちの不均衡な社会になってしまうのです。実際、私たちの社会機構はあまりにも知的に偏しています。私たち人間のもっている他のあらゆる要素を犠牲にしてまで、私たちは知力の養成に努力しています。こうして私たちは、たくさんの知識や観念を詰め込んで窒息しそうになっているのです。」(p57)

「要するに観念は思考の結果であり、思考の過程は記憶の反応であり、そして記憶は条件づけられているということなのです。記憶は常に過去のものであり、その記憶がある刺激で現在に生き返ってくるのです。記憶それ自体には生命はありません。それは刺激にぶつかったときに、現在の中で生を得るのです。ですから、潜伏しているものも、活動しているものも、すべての記憶は条件づけられていることにならないでしょうか。」(p60)

「あなたが、観念形成なしに行動するのは、どういう時でしょうか。過去の経験の結果ではない行為はいつ起こるのでしょうか。経験に基づいた行為とは、そでにお話した通り、行為を制限するものであり、従って行為の障碍になります。観念の結果ではない行為は、自然で自発的なものであって、そのような場合には、経験に基づく思考の結果は、行為を抑制していないのです。というのは、精神が行為を抑制していないとき、経験から独立した行為があるとうことなのです。理解というものが生まれるのはこういう状態のときに限られるのです。つまりそれは、経験をもとにした精神と思考が、行為を支配したり形成していないときに生まれるのです。」(p60)

「確かにそのような行為は、観念が止んだときに生まれてきます。そして愛があるときにのみ、観念は終焉するのです。愛は記憶ではありません。また経験でもありません。愛は、愛している相手について考えることではないのです。なぜなら、もしそうであるとすれば、愛は単なる考えに過ぎないからです。あなたは愛そのものについて考えることはできません。あなたが信奉する導師や、神仏の彫像、あるいはあなたの妻または夫のような、あなたが愛していたり傾倒している人のことを考えることはできます。しかし思考やシンボルは真実でも愛でもないのです。従って愛は経験ではないということになります。」(p61)

「観念は真理ではありません。真理は刻々に、直接経験されなければならないものなのです。それはあなたが望んでいる経験ではないのです。というのは、そういう経験は単なる感情に過ぎないからなのです。「私」であるとか、精神であるとか、また部分的、あるいは完全な持続性をもった諸々の観念を乗り越えることができたとき、そしてそれを超えて思考が完全に静止したときにのみ、本当に経験する状態が訪れるのです。そのとき初めて、私たちは真理が何であるかを知ることができるでしょう。」(p62-63)