KUOLLEET LEHDET

枯れ葉(2023)
監督 アキ・カウリスマキ

もう映画は撮らないと宣言して6年…カウリスマキは帰ってきた…何も変わらない…ブレてない…不器用で無愛想で、最後はホッコリしてしまう…飾らない究極の人間讃歌…以下素敵すぎるカウリスマキの言葉…

「取るに足らないバイオレンス映画を作っては自分の評価を怪しくしてきた私ですが、無意味でバカげた犯罪である戦争の全てに嫌気がさして、ついに人類に未来をもたらすかもしれないテーマ、すなわち愛を求める心、連帯、希望、そして他人や自然といった全ての生きるものと死んだものへの敬意、そんなことを物語として描くことにしました。それこそが語るに足るものだという前提で。この映画では、我が家の神様、ブレッソン、小津、チャップリンへ、私のいささか小さな帽子を脱いでささやかな敬意を捧げてみました。しかしそれが無残にも失敗したのは全てが私の責任です。」(公式HPより)

Continue reading “KUOLLEET LEHDET”

تفصيلثانوي

とるに足りない細部(2017)
著 アダニーヤ・シブリー
訳 山本 薫

読み終えて『Notre Musique』のオルガが過った…
オルガはイスラエルで自爆テロリストと間違えられ射殺される…
作中、ゴダールは自ら語っている…
目を開けて見ること…
目を閉じて想像すること…

第1部の舞台は1949年のネゲブ砂漠…イスラエル人の「彼」を中心に起こる出来事(これと言って何も起こらない)が淡々と描かれ、その後ある”事件”によって話は一旦幕を閉じる…

1948 イスラエル独立宣言 ナクバ 第一次中東戦争
1956 第二次中東戦争
1960 アイヒマン裁判
1967 第三次中東戦争
1973 第四次中東戦争
1987-1993 第一次インティファーダ
2000-2005 第二次インティファーダ
2004 アラファト氏死去
2023 2023パレスチナ・イスラエル戦争

第2部は現在のラマッラーから始まる…パレスチナ人である「私」が些細なきっかけから”事件”を辿ることになる…「私」が見つけたのは取るに足りないものだ…何かを受け取ったのかもしれない…「私」が住むのはヨルダン川西岸地区…A地区からC地区まであり、自治区と称しながら、パレスチナ人は段階的に自由が制限されている…まるで架空のSF小説を想起させるが、状況設定は現実そのものだ…イスラエルは徐々にパレスチナの痕跡を消そうとしている…地図、道路、地名までもが少しずつ確実に覚えのないものへと書き換えられている…

「彼」は没個性化した存在だ…「彼」自身の中で何かが消されてしまっている…そして「彼」にとってベドウィンの少女も没個性化した存在でしかない…シブリーの語る恐怖とは、言葉が力を失い、世の中が暴走することへの恐怖なのだと思う…人の尊厳や、自然に対する謝意が、取るに足りないものとされ、消されてしまうことへの恐怖…

MINAMIASO

第9回 南阿蘇カルデラトレイル – 50km(DNF)

参加者は、大会が終わるとそれぞれ何かしら反省なり評価なりするものだろう…限界ランナーである自分にとってこの時間は特別な意味を持っている…自分の体力や気力を計る時間でもあり、大会参加の資格を問う時間でもあり、社会における自分の立ち位置を考える時間でもあり、ときには生きる力を査定する時間でもある…いま思うことは、まだチャレンジしたいということ…しばらくは続けるのだろう…いつまで続くかは分からないが、もちろん色々視野には入れている…しかし何より、正直失いたくないのは、この考える時間ではないのかとも思えてくる…

稜線に積もった雪と、氷点下を示す霜で、コースは白く薄化粧していた…登り下りが断続的に続くコースだったけど、総じて走れるコースで、ランナーからすると、これ以上ない楽しめる条件だったと思う…土表面に散在する霜柱が印象的だった…

Continue reading “MINAMIASO”

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

プラスチックは非自然ではない…電気も核エネルギーも非自然ではない…自然以外のものはありえない…ただ、いつもデカルトが悪者になるのだけど、「我思う故に我あり」のあと、自然と人の知的行為は分離してしまったらしい…神が少しずつ力を失い、お金やテクノロジーがそれに代わった…しかしこの流れはデカルトに始まったものではないと思う…狩猟採集時代、もうすでに始まっていたのではないだろうか…人は知性によって見えなくなった…聞こえなくなった…答えを失った…この世に非自然なるものはないけど、人が作る意味は少なくとも答えではない…作り物だ…「私」や「あなた」でさえ…

▪️第5章 青山はいつも歩いている

「いま、目の前にある山水は先覚者たちの悟った境地の具体的な現れである。山は山になりきり、それぞれ現象を通して本来の完全性を実現している。山水は、無限の空以前からの姿だから、いまも、目の前で活動している。それは、万物形成以前からの自己だから、自由自在に実現している。」(p180

「「山水」というのは、大自然の営みの完全性を表現する言葉である。それだから、清浄と汚染、自然と人工という対立をはるかに超えたものだ。大自然全体の中には、川や谷ばかりではなく、農場も、畑も、村落も、街並みも、それに(かつては比較的小さかった)人間の住む俗塵世界もまた、明らかに含まれているのだ。」(p188-189

「道元の関心は、「聖なる山」、つまり、巡礼や巡礼講といったこと、あるいは何か特別な意味でのウィルダネスにはない。道元のいう山水とは、この地球の生成過程であり、存在そのもの、過程、本質、行為、不足であって、存在も、非存在も、ともに含んだものである。山水は我々そのものであり、我々は山水そのものだ。本性を直接見ようとする人にとっては、「聖なる」という観念は妄想であり、邪魔だ。そんな観念のために、目前の存在、あるがままの存在、肝心の「これ」から、我々は目をそらせてしまう。根っこも、幹も、枝も、みんな同様にざらざらしている。階級もなく、平等もない。秘儀的でもなく、開放的でもない。天才もいなければ、のろまもいない。野性もなければ、栽培もない。束縛されもしなければ、自由でもない。自然でもなければ、人工的でもない。それぞれが、まったく独自な、つかの間の個である。そして、すべての存在は、あらゆる形で関わりあっており、あらゆる形で相互に関わっているからこそ、独自な個なのだ。」(p190

Continue reading “Snyder”

Irreplaceable

いのちを食べることは特別な話ではない…私たちはそうやって環っている…気にしているのは「代わりのなさ」だ…「掛け替えのなさ」と言い換えることもできる…私たちにとって最も代わりがないと感じるのは同じ人間であり、逆に菌類や植物にそれを感じることはないだろう…対象が身近であればあるほどその消失は「死」を強く伴い、消すことは「殺す」ことと感じる…逆に遠ければその感覚は弱くなる…同種である人は殺したくないし食べたくない…同じように多くの動物にも「代わりのなさ」を感じる…だから食べたくない…「代わりのなさ」は均衡を保つために何らかの役割を担っているように感じる…「食性」とも深く繋がっているのではないだろうか…おそらく多くの動物も、同種や家族だけではなく、私たち人間を含め、別の種に対して「代わりのなさ」を感じることができるのだと思われる…人を含め多くの動物は数多の契機を経て家族として同種としてその対象を受け入れていく…ときには肉食動物が食性を超えて親しくなるケースもある…異常ではなく動物に備わるごく自然な資性と思われる…

現代の人社会において「代わりのなさ」を感じ取る契機はいくらでもある…逆に意図的に隠されてもいる…ずいぶん前に、人はやむを得ず動物を食べ、味わうことも覚えてしまった…ただしずっとその死は厳かなものであり、祝祭においては供犠として神に捧げるほどだった…現在、特に先進国において、動物の死は感覚的に閉ざされ、食べ物として分離した「肉」が食されている…「代わりのなさ」に付随する死の厳かさは無いに等しい…人は知性と知性が作る環境によって分からなくなっている…受け継がれている食性も分からなくなっている…それは環境が破壊されることと変わらない…私たちは文明の暴力の影に隠れた犠牲に対して、もっと想像力をはたらかせるべきなのだろう…海や農地やガザや腸内や屠殺場に対して、もっと憶いを馳せるべきだ…

SAUVAGE

IRREPLACEABLE Ⅱ

IRREPLACEABLE

NISHIMERA

第8回 西米良スカイトレイル – 40.5km(DNF)

日常の、言葉が作り出す世界を忘れて、「冒険」をしたいのだと思う…文明社会の中で萎縮してしまったものを解放させたい…子供時代感じていた何かを呼びおこしたい…決して完走が目的なのではない…完走とか制限時間とかルートとか、それは人の行為の避け難い部分ではあるけど、肝要なものは別のところにある…いつも思考からすり抜けていく何か…また走りたくなる…

前半抑えたわけではなかった…リズムよく進むことを心がけたのだけど、関門の避難小屋が近づくにつれて焦りが…予定の11時30分を20分オーバー…急登を前に現実と向き合った…そこにスタッフの後押しの一声が…登ることを決めた…時間はもう気にしてなかったとはいえ、急登はそれなりに気を張らないと逆に苦しい…気づいたら次の関門ギリ間に合うかもしれない時間で頂上到達…それならと力を振り絞った…再び関門の避難小屋に数分残して到着…後悔したくなかったのでバスは諦めた…復路はスイーパーの方と一緒にスタート…そこでもアシストしていただいて力になった…今回はスタッフの方に助けられた…

Continue reading “NISHIMERA”

わら一本の革命

わら一本の革命(1983)
著 福岡正信

マーク・ボイルに感じた違和感はここにはない…ゲーリー・ヨーロフスキーも福岡さんの話に頷くことはできないだろう…結局、彼らは為そうとしてしまっている…福岡さんは為すという暴力を警戒している…

文中、ゲーリー・スナイダーやナナオサカキさんのことに、名前こそ出してはいないが、離島の自給生活者として触れている…ソローや宮沢賢治を含め同じ思想潮流の中にあるのではないだろうか…ホセ・ムヒカ元大統領も同じだろう…あと、ジョン・ケージとも話が合いそうだ…

▪️第1章 自然とは何か(無こそすべてだ)

▪️第2章 誰にもやれる楽しい農法

▪️第3章 汚染時代への回答

▪️第4章 緑の哲学 – 科学文明への挑戦

▪️第5章 病める現代人の食 – 自然食の原点

▪️追章 ”わら一本”アメリカの旅 – アメリカの自然と農業