第11回 宮崎鏡洲の森トレイル – 26km
スタート直後に上宮逸子さんの後ろ姿が見えたので最初だけでもと追いかけたのだけど、渋滞を掻い潜ることができず程なくして見失った…
天気予報は嘘つきだ…雨マークは午前だけでしかも小雨だった…実際はトレイルに入ったあたりから土砂降り…森の中はかなり暗かった…止む気配はなく、おまけに風も強くなりまさにアドベンチャー…遠景などは勿論見えず、時折光が差し込み、森は幻想的な装いだった…
第11回 宮崎鏡洲の森トレイル – 26km
スタート直後に上宮逸子さんの後ろ姿が見えたので最初だけでもと追いかけたのだけど、渋滞を掻い潜ることができず程なくして見失った…
天気予報は嘘つきだ…雨マークは午前だけでしかも小雨だった…実際はトレイルに入ったあたりから土砂降り…森の中はかなり暗かった…止む気配はなく、おまけに風も強くなりまさにアドベンチャー…遠景などは勿論見えず、時折光が差し込み、森は幻想的な装いだった…
The Practice of the Wild
GARY SNYDER
國破山河在(国破れて山河あり)…
なんてアナーキーな言葉だ…
▪️第2章 「場所」に生きる 2/2
「昔、人々は小さな部族単位で、自然の基準に適合した範囲で暮らしていた。北アメリカの主な先住民の文化領域は、そのほとんどが主なバイオリージョンと一致している。そういった古い時代の文化領域は流動的で明確ではないが、真の居住地と呼べる場所である。しかしながらその領域は恣意的、ときに暴力的に国境という境をもたらす「国家」にしだいに取ってかえられていった。…この強いられた領域は、ときには動植物の生態域や民族ごとの区域も同様に分断してしまった。住民たちは、生態学的な知恵だけでなく、コミュニティの連帯責任、共同利益という知恵も失ってしまったのだ。昔ながらの方法では、植物相、動物相、そして地形も「文化の一部」であった。文化と自然の世界、これは現実に存在しているが、いまではほとんど影の世界となっている。そして政治的権力やエリート経済といった非現実的な世界が、現実のものとしてまかりとおっている。我々は本来あるべき世界とは逆さまの時代に生きているのだ。国、州、群といった恣意的な境界線を越えた地形上の特徴を見出し、その土地の「身体つき」を辿ることで、文化と自然が昔持っていた仲間意識をいま暮らしている地域に、少しは取り戻すことができるだろう。」(p75)
「アメリカ先住民に生まれなかった者が、この大陸を自分の「家」にするためには、男も女も、この半球、この大陸、正しくは「亀の島」で、生まれ変わらなくてはならない。」(p80)
「合衆国、カナダ、メキシコといった名称はつかのまの政治的存在を示しているにすぎない。そう呼ぶことは確かに合法的ではあるが、このまま土地を虐待し続けるなら、その委託統治権を失うことになる。「国破れて山河あり」だ。」(p81)
50歳を迎えようとするころ、本を読み出した…人生を悔いないよう何かを見直したかった…遅すぎる読書習慣のスタート…国語の授業が嫌いだった自分が読書とは…
最初は哲学や人類学の本が多かったと思う…小説といえば(奇妙だが)バロウズの「裸のランチ」を読んだな…かなり特殊な体験だった…コンスタントに小説を読むようになったきっかけはおそらくクッツェーだろう…文学に魔法のようなものを感じた…
オースター名義のデビュー作は強い印象を残している…柴田さんの訳もいいのだと思う…哲学は行き詰まるけど、文学は充たしてくれる…そんな気にさせてくれた本だった…
PAUL AUSTER(1947-2024)
モロトフ・カクテルをガンディーと(2015)
著 マーク・ボイル
訳 吉田奈緒子
テッド・カジンスキーを取り上げて著者を批判しようとは思わない(そもそもカジンスキーの評価には慎重になるべきだろう)…ただ、ほぼ賛同できる内容でありながら、どうしても埋められない溝を感じたのも事実…
注目したいのは「暴力」という言葉を使っていること…自分とほぼ同じ意味で「暴力」を使っている…ただそのルーツへの言及が抜けてるように思えた…ルーツは構成員それぞれの知性にあると思っている…社会の上から下へとかその逆とか、あるいは多から少へとかその逆とかは関係ない…どんな境遇の人であれその思考の中に暴力は潜んでいるのだと思う…そもそも社会を作っているのがその暴力ではないだろうか…ホッブズの自然状態が正しいと言っているのではなくて…もし正しいとするなら、それは構成員が知性への隷属状態にあることが条件だ…人は知性だけではない…本性は身体にある…違う選択もできるはず…
暴力を扱う思想家にしても知性の暴力を回避することはできない…ただ、思想家と呼べる人たちは知性を少なからず疑っているように思える…知性の暴力から逃れ、距離を保っているのではないだろうか…芸術家に備わるもののようにも感じられる…政治家や企業家にもそういう感性を持った人はいるのだろう…ただし彼らの主な任務は暴力を遂行すること…暴力とは知性に主導権を握られることで生まれる…知性の奴隷になることで…
The Practice of the Wild
GARY SNYDER
植物にとって「場所」とは直接的であり、その結びつきは強固だ…では私たちは場所から自由なのだろうか…私たちも植物同様、場所に依存している…「場所」は私たちの一部だ…
▪️第2章 「場所」に生きる 1/2
「我々に人間という姿を与えてくれたこの惑星がなかったなら、我々はどうして存在できよう。重力、それに氷点と沸点のあいだにある生存に適した気温、この二つの条件が、我々に体液と肉体をもたらした。我々がよじ登る木、そして踏みしめて歩く地面が、手足に五本の指を与えてくれた。「場所」が遠くを見渡せる二つの目を与えてくれた。川の流れとそよ風が、自由に動く舌と渦巻く耳をくれた。大地は歩くことを、湖は潜ることを教えてくれた。我々に人間の心を授けてくれたのは自然の脅威だ。それに感謝し、謹んで自然の教えを受けるとしよう。」(p61)
「ウィルダネスと個人の小規模な農場。この両極端な土地に挟まれた領域は、穀物の栽培には向いていない。かなり早い時代、耕作に適さないこの土地を、部族や村の人々は共同で使っていた。野性と半野性の入り混じったこの地はきわめて重要な意味を持っている。ウィルダネスを健全な状態に保つためにも、この領域が必要となるのだ。というのも、ここはウィルダネスの植物が過剰に繁殖したときや、動物が避難するための、大きな生息地となるからだ。さらに、農村の経済にとっても欠かすことのできないものを提供してくれる。この変化に富んだ環境が、個人所有の農場では望めない多くの必需品や快適さをもたらし、また、ここで獲れる鳥獣や魚が、菜食中心の食生活をより豊かなものにしてくれる。食料に加えて、この共有地は、薪、家を作るための柱や石、陶器を作るための粘土、薬草、染料となる植物なども提供してくれる。なかでもここが重要なのは、ある季節、あるいは一年を通して、ウシ、ウマ、ヤギ、ブタ、そしてヒツジなどの放牧地として利用できるからだ。」(p63)
ここで語られる「共有地(コモン)」は、斉藤幸平さんの言う「コモン」ともちろん同じ意味だ…アプローチは違うかもしれないが繋がっている…
第4回 五ケ山・脊振クロストレイル – 32km
福岡と佐賀を走るレースに初参加…会場まで車で片道3時間半…遠かった…メイン会場にある五ケ山ダムを下から見上げるとまるでウォールマリア…走れるトレイルが多く自然の中を進む心地よさを感じることができた…急登の苦しさも身体を満たしてくれた…
慢性腰痛には波がある…今回は悪い周期にきてた…注射はせずキネシオとチタンテープに望みを託した…とりあえず軽度の痛みで済んだのでセーフとしたい…後半は着地が少し辛かった…レース前は腰痛で途中危険も想定するほどビビってた…一方で結局最後まで行くんだろうなと現実逃避に近い楽観視も…何とかなるものだ…
成功や獲得や達成は私たちに正解を見せてくれる…ただそれは調和とか適応とは違うものかもしれない…手に入れることだけではなく、手放すことも必要なのではないだろうか…できることを少しずつでいい…この社会は元々私たちにフィットしていない…争い、貧困、ゴミのことはもちろん、そもそも身体にフィットしていない…地球と身体に、つまりその能力にフィットしていない…精神的ストレスと環境破壊は同質のものだ…
知性が身体を借りて見ようとする…
知性が身体を侵食し始める…
目は曇り始める…
答えを見失い意味が始まる…
より優位に、より便利に、より刺激を…
バーチャルが始まる…
喪失が始まる…
私たちは無理をしている…
背伸びしている…
恩恵と犠牲は新たな調和なのだろう…
この世にプラスチックが生まれても、
そのうち私たちがいなくなるにしても、
何の不足も余剰もない…
それでも私たちは求める、苦しむ…
フィットしていないから…
私たち動物に本来備わるものがあるとして…
その何かとうまく付き合うべきなのだろう…
まだ覚えているなら…
菜食の人たちも、肉食ありきの人たちも…
みなさん平等とか権利が好きかもしれない…
自分がそれらを翳すことはない…
むしろ平等とか権利を警戒している…
そこには暴力が隠れているから…
だから知性との付き合いかたを考えている…
平等とか権利は「私」の産物…
人社会特有のもの…
野生にそんなものはない…
動物に権利があるはずない…
可能なら動物には関わらないことだ…
それぞれの生き方を尊重したい…
野生に「食べ物」は存在しない…
「エネルギー」も存在しない…
それらは人が作り出しているもの…
人が意識したときに始まっているもの…
「平等」もない…
平等ではないということではなくて…
平等も不平等もないということ…
バタイユが言うように、そこは水の中の水…
食べ食べられることに優劣があるわけではない…
優劣は私たちが見ているに過ぎない…
だからピーター・シンガーには賛同できない…
動物に権利があるとするなら、
それは人社会に巻き込まれない権利だろう…
平等は私たちの知性の産物…
本来を装っているが違う…
私たちが発明したもの…
自分の菜食の話は他と違うかもしれない…
倫理の話ではないし強制するものでもない…
もっと感覚的なもの…
もっと澄んだもの…
それを大事にしたいだけ…
必要なら動物も食べる…
必要ないなら食べない…
そしてできれば食べて欲しくない…
自分だけさっぱりしてても悲鳴は消えないから…
(画像引用元)
フィッシュマンズ(2021)
監督 手嶋悠貴
今更ながら音と言葉が響いたから…
まっすぐ生きている人を見るのは気持ちいい…
逆に辛いのかな…
佐藤氏と同い年だ…
同じ時代を生きていた…
彼らのデビューは1987年…
自分がテープ録音とか芝居やってたときのこと…
大したことしてなかったけど…
ただ何となく自分とダブらせてしまった…
同じ時代や空気の中にいたのかな…
眠ってた何かが同期する…
すばらしくナイス…