正常とは何か

地球が丸いこととか、
国家やお金の存在とか、
私たちの感覚はそれらを察知できない…

逆に知性は見ることができない…
知性は動物としての身体に何を施しているのか…

感覚を超えている…
等身大ではない…

健康とは身体の自然な状態ではない…
文明という薬への依存によるもの…
効かなくなったら別の薬を探し求める…
薬を手放すことはない…
そうやって維持するもの…
健康は幸せの指針にもなっている…

ADHDとか、SADとか、
まるで民家に降りてきた熊や猪のようだ…
動揺している、慌てている、隠れようとする…
病気ではなく、身体の自然な反応ではないだろうか…

ペットや家畜は文明依存した存在なのだろう…
しかし彼らは知性がない分、野性の中にいる…
依存すら野性の反応だ…
野性の閾を超えずに適応、順応している…
そういう部分はもちろん人にもあるのだけど…

人の身体は知性を契機に、歪み、変異し、
やがて欲望の形態を伴うようになる…
動物としての身体が別の様相を帯びる…
違うバランスへ移行しようとする…
健康という薬漬け状態に移行しようとする…

いわゆる環境(身体)破壊…

地球上で、人類は癌細胞のように振る舞う…
地表を固い道や建物で固め、
土壌や大気や海を汚し、
プラスチックを作り、
動植物を品種改良し、
ミサイルを撃ち合う…

何が異常で何が正常なのか…

ミミズがいなくなったら自然環境は壊滅するらしい…
人がいなくなったら地球は喜ぶのだろう…

政治

選挙には行かない…

今のところ満足しているから…
つまり大した期待はしてない…

あと、ストレスを感じるから…
社会の歯車になるのが怖い…
大きな流れに飲み込まれるのが怖い…
何者かになるのが怖い…

普通は繋がることで安心するのかもしれない…
しかしそれは抜け殻になることのように感じる…
感覚を超えている…

確かに逃げられないし、
それなりに恩恵を受けている…
この水準は誰かのおかげなのだろう…

しかし関わるのは最小限にしたい…

もしすべての国家を一斉に解体しても、
しばらくすると同じような国家が林立しだすのだろう…
逆にひとつの国家が他を飲み込んでも、
その中にやはり国家のようなものが生まれてくるのだろう…
人が集まると、ルールのようなものが形成される…
それは国家へと成長する…
国家は別の国家と衝突し、飲み込むか、競い出す…

国家や自治体は、少子化を問題にする…
地球規模で考えるなら、人口爆発の方が問題なのではないだろうか…
人と家畜の異常な個体数…
人を減らそうとか、そういう話ではなくて…
私たちが何者なのか、そこから始めたいだけ…

SDG’sはどこを見てるのだろうか…
経済成長や技術革新こそが貧困や環境破壊の原因なのではないだろうか…

もし人々が平等で豊かになるようなら、
きっと自然環境や動物たちはその犠牲になっている…
もし戦争がなくなったとしたら、
きっと人の身体(精神含む)はその犠牲になっている…

人社会を否定するつもりはない…
それは知性を持ったものが辿りつく場所だと思うから…
ただ、知性は勘違いの温床であり、罠を仕掛ける…
自由や平等は作り物であり、人類の発明品にすぎない…
道徳は損得が聖域を装ったものであり、無償ではない…

私たちが何者なのか、そこから始めたい…

知性を疑う政治…
そういう政治はやってこないだろう…

LE OTTO MONTAGNE

帰れない山(2017)
著 パオロ・コニェッティ
訳 関口 英子

山登りという習慣はまだない…なのにここに書かれた風景や心象はよく分かる…山を走り始めたのは6年前…最初からその魅力にハマった…少し特殊かもしれないが、トレランの経験がこの本を理解できる土台になっている…読み始めは、あまりにも日頃感じていたことなので、むしろつまらないと感じたほどだった…

自然の描写が決して脇役ではない…ネイチャーライティングと言えるのかもしれない…ただ呉明益の作品のように幻想的でもなければ、キリアン・ジョルネの作品のように過酷でもない…こちらのエピソードはいい意味でありふれているし、力が抜けている…

「山の上まで来ると渓流も声を潜め、そこから先は、水が岩と岩の間に浸み込んで、地中を流れていく。すると、はるか下の方から響く音が耳につくようになる。窪地を吹き抜ける風の音だった。湖面は、絶え間なく揺れ動く夜空のようだった。風が、一方の岸から反対側の岸へと小波の連なりを追い立てる。すると、流線に沿って黒い湖面に並んでいた星々の光が消えたかと思うと、今度は別の方から光るのだった。僕は身じろぎもせずに、そこに描き出される模様に見入っていた。人がいないときにしか見せない山の営みを垣間見たような気がした。決して邪魔することのない僕を、山は客人として快く受け入れてくれた。だから僕も、山と一緒ならば孤独を感じることもないだろうと改めて思うのだった。」(p201-202)

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Paolo Cognetti

画像引用元

https://wordswithoutborders.org/read/article/2018-11/an-interview-with-paolo-cognetti-francesca-pellas-jessie-chaffee/

FP: Speaking of daily life, this book took you to Nepal because when you knew that Pietro would go there to experience the far-off mountains, you had to go to learn about them, too. But your first trip to Nepal resulted in a choice that is now a part of your daily life: You have become a vegetarian. How did you arrive at this decision?

PC: When I got my dog Lucky about three years ago, the idea of killing animals and eating them started to bother me a bit. Then I went to Nepal, where people are vegetarian out of necessity and for cultural reasons. I hiked for two weeks around the Himalayas eating only rice, lentils, and curried vegetables. The dish is called dal-bat and the Nepalese in the mountains don’t eat anything else. I felt very good. I was also struck by a sign on the path to Annapurna that said, “You are entering a sacred valley—out of respect for the mountain, do not kill or eat animals.” In that moment I thought, I’ll never do it again. Of course I liked meat, but since returning from Nepal, I no longer eat it. It is an abstinence that I am proud of. As my friend and teacher Goffredo Fofi says: I am a vegetarian because I do not want to inflict any kind of violence, not even on animals.

FP: 日常生活と言えば、この本であなたはネパールに行きました。ピエトロが遠くの山々を体験するためにそこに行くと知ったとき、あなたもそこについて学ぶために行かなければならなかったからです。しかし、ネパールへの最初の旅行は、今ではあなたの日常生活の一部となっている選択をもたらしました。あなたはベジタリアンになりました。この決断に至ったきっかけは何ですか?

PC: 3年ほど前に愛犬のラッキーを飼い始めたとき、動物を殺して食べるという考えが少し気になり始めました。その後、ネパールに行きました。そこでは、必要に迫られて、また文化的な理由から、ベジタリアンの人たちがいます。ヒマラヤを2週間ハイキングし、米、レンズ豆、カレー風味の野菜だけを食べました。ダルバットという料理で、山に住むネパール人は他のものは食べません。とても気分がよかったです。アンナプルナへの道で、「ここは聖なる谷です。山に敬意を表して、動物を殺したり食べたりしないでください」と書かれた標識にも心を打たれました。その瞬間、もう二度とやらないと思いました。もちろん肉は好きでしたが、ネパールから帰ってきてからは食べていません。これは私が誇りに思っている禁欲です。友人であり先生でもあるゴフレド・フォフィが言うように、私は動物に対してさえも、いかなる暴力も加えたくないのでベジタリアンなのです。

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依存症

知性はいつも自然に逆らおうとする…
進歩は私たちだけのものに過ぎず…
弱肉強食も私たちがそう見ているだけ…
知性は答えの喪失を体現している…

何かを為そうとしないこと…
流れに逆らわないこと…

世の中を動かしてはいけない…
成功、進歩、獲得、成長、実現、達成、勝利…
その動きは不自然なものであり、常に不穏な空気を放っている…
むしろ鎮めないといけない…

成功や獲得の背後で何かが犠牲になっている…
目の前で気づかなくてもずっと遠くで…
それは今ここで始まる…

環境破壊はやりすぎた結果ではない…
最初に身体が書き換えられている…
身体と環境は同じもの…

私たちはどうしても成功や恩恵に正解を見てしまう…
社会が作る力学に逆らえない…
そうやって道徳が育っていく…

長生きする必要はない…
老いや死を受け入れること…
食べられることを受け入れること…
それが「生きる」ということではないだろうか…

考える…
認識する…
切り取る…
ありのままから逸れる…
答えの喪失…

知性が、意識が、身体を書き換える…
欲望が生まれる…
欲望は病気…

より優位に…
より便利に…
より刺激を…
依存症…

動物における、
自己は「私」へ…
縄張りは所有へ…
交接はエロティシズムへ…
食は美食へ…
遊びは勝利へ…
源泉の変異…  

病気とは身体の反応…
自然がバランスを取ろうとしている…

それも悪くない…
もう抜け出せないのだし…
ただきっとつまらないと感じ始める…
別のものを求め始める…

Jim Jarmusch

画像引用元

https://deadline.com/2022/11/jim-jarmusch-masterclass-marrakech-1235174825/

「私には従う個人的な規範があり、期待は自分を殺してしまうということを学んだ。なぜなら、他の人が自分の規範に従うことを期待すれば、いつまでも失望することになるからだ。自分にできるのは、自分の優先事項に従う能力だけだ。私は、自分の優先事項に従うよう努めており、他の人をコントロールしたり、他の人が私の優先事項を尊重してくれることを期待したりできないと強く感じています。たとえば、私はビーガンです。さまざまな理由から、動物や動物性食品を食べません。しかし、私の娘は、10代で、肉を食べます。私は彼女にそれをしないように言いません。彼女は私が動物性食品を食べない理由を知っています。彼女は私の3つの理由を知っています。私は自分自身をコントロールできますが、他の人をコントロールすることはできません。他の人に期待すると、常に失望することになります。」

 “I have a personal code that I follow, and I’ve learned that expectations will kill you because if you expect other people to follow your code you will be endlessly disappointed. All you have is your own ability to follow what are your priorities.I” feel very strongly that I try to follow my priorities and I can’t control other people or expect them to even respect mine. For example, I am vegan. I don’t eat animals or any kind of animal products for a variety of reasons. But my daughter. She’s a teenager, she eats meat. I don’t tell her don’t do that. She knows why I don’t eat animal products. She knows my three reasons. I can control my own self but I can’t control anyone else. If you have the expectations of other people, you will always be let down.”

自由という言葉がもてはやされているのだけど、そもそも自由とは何なのだろう…それは道徳や常識や普通から解放されることではないだろうか…人社会が作る価値観から解放されること…お金がなくなれば、お金の要らない生活をするか、あるいは稼ぐか、借りるか、もしくは盗めばいい…自分で決めて自分で評価すること…

規範(CODE)と呼べるものは確かにある…でもそれは我慢するものではなく、病性を癒し、身体を躍動へ導くためのものでありたい…道徳、常識、普通によって抜け殻にならないようにするためのもの…縛るのではなく、ほどくためのもの…規範とはそうありたい…

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SHODAI

第10回 Shodai Adventure Mountain – 22km

ここで手を合わせて1年が始まる…割とハードな大会…どういうわけか1年経つと舐めてしまう…スタートして徐々に厳しさを思い出した…今年は足の様々な箇所が交互に攣って、ゴールする頃はすべて満遍なく痙攣しつくした…病み上がりの昨年と同じようなタイムだったのだけど、年齢を考えると単純に練習不足と言い切れない…とりあえずは練習積んで次の大会楽しめるよう準備したい…

トレイルには魔法を求めている…求めることが間違いなのかもしれないが…魔法は自分の野性(身体)と山や森が響き合わないといけない…今日はそれがうまくいかなかった…大会とは人が作るものなのだから仕方ないと言えばそれまでなのだけど…できれば日常から離れたい…有用性とか道徳が作る人世界特有の煩わしさから離れたい…野生が作る負荷の中で生を炙り出したい…

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自分で考えること

スピノザに依れば自由意志など無いわけだけど、ある意味そういう感覚を大事にしたい…答えを失くしている感覚、あるいは勘違いしている感覚…

道徳、普通、常識とは、集団(国家、会社、任意団体、家族、飲み仲間…)が維持される時、構成員の中に自ずと育つものだろう…それは集団が作る社会を肯定、サポートするように働く…具体性を持たず、常に変化しながら、無意識に、社会が持つ「力」をなぞろうとする…尖ったことやはみ出したことは嫌われる…例えば「肉は食べない」と言うと、頭が足りないか陰謀論好きとでも思われるのかもしれない…菜食が正しいと言いたいのではなくて、肉食を支える根拠は案外薄っぺらいものだということ…動物が殺される暴力よりも、肉食が容易に是とされていることに暴力性を感じる…

仏教なら「師を信じるな」「言葉を信じるな」と言うのだろう…キリスト教やイスラム教は違う…「それをしなさい」「それをしてはいけない」と言う…つまり「自分で考える」ことを遠ざける…創始者や預言者を否定するつもりはない…むしろ興味はある…ただ、エルサレムを聖地とするそれら宗教の在り方が好きになれない…宗教の多くは国家と相性がいい…国家は富や権力の効率化のために生まれ、同じ力学の中で今日も維持されている…

子供たちが泣き、騒ぎ、喧嘩し、空気を読まなかったとき、大人は何を感じているだろうか…当然のように上目線に立ち、そして語りかけるのだろう…しかしそれは人社会での生き方を教えているに過ぎない…生きた(活きた)世界のことではない…逆に子供たちの中では大人が失くしたものがまだ息づいているのではないだろうか…子供の世界は虫や動物たちがいっぱいだ…ある意味大人たちは教えることで子供たちの可能性を奪っている…

世の中は常に少し前より便利になっている…そういう社会に生きている…便利になっているはずなのに、時間は「やること」で埋まり身動きがとれなくなり、さらに「やること」がないことは悪いことになってしまった…もっと自分や世の中をじっくり掘り返して考える(ほどく)時間があってもいいのではないだろうか…

吉本隆明が「引きこもれ」と言ったことを思い出す…

悪は存在しない

悪は存在しない(2023)
監督 濱口竜介

ゴダール風のテロップで始まる…美しくそして不穏な森が描かれる…「悪者はいない」ことを描くだけなら森や動物は必ずしも必要ではない…しかしこの映画は野生との対比の中で何かが際立っている…誰もがそれぞれの事情の中でより良く生きようとしている…どこにも悪者はいない…一方で、そもそも善悪なんてものは人の思惑が作るものであって世の中は別の原理で動いている…無慈悲な自然の摂理があるだけ…それらをバタイユ風に言えば「まやかし」と「きまぐれ」…人は大したことができるわけではない…ほんとは自然を破壊することもできないし、進歩もそう見えるに過ぎない…ただ人が求める恩恵は、いつも人にとって不都合なことを招く…

近頃「神話」の必要性を問う言葉をよく見かける…自然の偉大さとか、人の未熟さとか、それらを教え伝えるもの…今なら「寓話」になるのかもしれない…この映画にも寓話的要素がある…キリンが我が子を守るためにライオンに立ち向かうように、一種の災いを絶とうとしたかのように見えた…まぁあまり正解を探り過ぎない方がいいのかもしれない…神話が神話であるということはそういうことだと思うし…

日本は放置林の問題を抱えている…戦後多くのスギやヒノキが日本全国で植樹されたものの、木材需要の低下や林業離れの影響により放置され、土砂災害、河川氾濫などの危険度が増している…花粉被害だけじゃない…よく見ると山はスギだらけだ…その殆どが放置されたスギではないのか…放置林は水質にも影響を与え、動物の棲家も奪っている…大気汚染や海洋汚染だけではない…山は文明の対となる自然の象徴なのかもしれないが、すでに汚染されている…バランスが崩れているというより、すべてのバランスは保たれる以外にありえないわけだけど…

https://www.more-trees.org
教授が創立した森林保全団体

クマが民家に降りてきたり人を襲ったりすることに関して…例えば自分が銃を持っていてクマが襲ってきたら射殺を試みるだろう…それに類する行為は優先して然るべきだ…猟師のことやクマの生態に詳しくはないが急場を凌ぐための処置は許容されていい…問題は歴史や現状の把握と今後の対策だろう…それは殺処分と同じ土俵で語れるものではない…もともとヒトもクマもシカも或る意味等しく暮らしていたのだと思う…でも人は欲張った…人口は爆発的に増え、生活圏も広がり、土地は固められ、森や川にも人の手が入った…私たちは恩恵しか見ない…だから人口爆発より少子化の方を問題にする…もっと全体を俯瞰することが必要だし、同時に、自分たちが何者なのかを知る必要があるのではないだろうか…

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