Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第8章 クマと結婚した娘

共存にはルールとマナーが必要だ
それを支えるのは、畏敬の念や無力の自覚ではないだろうか
それらが失われるとき、ルールは破られる
私たちは被害者になる前に加害者となる

私たちは国境を引いた
山も海も空も、誰かの所有となった
すべては人のものであるかのように

農薬で土壌は死に、やがて川や海を汚す
同時に腸内は必要な細菌を失う

固い道路や建物で地表は光を失い、
さらに皮肉にも太陽光パネルで光を失う

人は動物ではなく肉を食べるようになった
毎日圧倒する量を笑いながら食べている

動植物は自らの命でさえ分け合う
人は与えることなく奪おうとする
だからゴミや争いや病気が生まれる

そして今日もまた除草剤が使われる

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第7章 道を離れて道を行く

道にはふたつの意味がある
ひとつは手がかり、或いは型としての道…
もうひとつは道が解かれたあとの無為の世界

道を歩くとは、
積み上げることではなく、
無駄なものを手放すことではないだろうか
言葉や道具や私を手がかりにするしかないが、
その呪縛から解かれるとき、
本当の道の中にいる

努力を少しでもすれば、学問も、実力も、表面的な成功も得られる。先天的な能力は、訓練により育ってゆくかもしれないが、訓練だけでは、荘子のいう「逍遥」の境地には至らないだろう。自分の心に潜む自己鍛錬とか頑張りへの指向の犠牲にならぬよう気をつけなければならない。ちっぽけな能力により技術やビジネスで成功しても、それでは、もっと自由な本来の遊戯三昧能力の何たるかを、決して知りえないだろう。道元は『正法眼蔵』で言う、「自己の探究とは、自己を忘れることである」と。「自己を忘れるとき、万物と一体になる」と。ここでいう「万物」とは、現象世界の全存在のことである。心が開かれると、我々の中に万物が満ちてくるのだ。(p272

『道徳経』は、「道」の意味について、最も見事な解釈をしている。この本は、こう始まる。「跡をたどれる道は本物の道ではない」と。「道可道非常道」と。これが第1章の冒頭にある言葉である。「跡をだどれる道は、『精神的な道』ではない」のだ。ものごとの実態は、道路のような直線的なイメージだけではない。修行の目的は、その「求道者」の努力の意識が忘れられたとき、初めて完成するのだ。道は難しいものではない。邪魔するものは何もないし、全方向に開かれている。にもかかわらず、我々は、自分で自分の道の邪魔をする。だから老師は言うのだ。「精進すべし!」と。(p273

登山家が山頂を目指すのは、雄大な眺めや、仲間同士の協力や友情や困難を克服する実感を求めるからだ。しかし、主な理由は、登山が、人を、未知の出来事の起こり、驚きに出会える「その場所へ連れていってくれる」からである。(p277

人間の技術や仕事などは、ゆるやかな秩序をもつ本来の野性の世界を、ほんのわずか反映したものに過ぎない。道路から飛び出して、分水嶺にある未知の場所へ出かけてみるのが一番だ。新しさを求めてではなく、人間の本来の場所へ帰ってゆくという感覚をもつためだ。「山道を離れて」という言葉は、「大道」の別名でもある。山道からぶらりと離れることは、野性の修行である。逆説的だが、その場所こそ、我々にとって最もいい仕事場なのだ。しかしながら、人間には小道や山道が必要で、これからも守り続けてゆくことだろう。誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ。(p280

MINAMIOGUNI/KUROKAWA

南小国・黒川トレイル – 19km

ここ最近は、暑さで調子を落とし、頚椎症で手足が痺れ、練習のタイムで比較する限り過去最悪のコンディションだったかもしれない(なぜか腰は楽になってる)…走り出すと意外と体は動いて昨年より30分早くゴール…昨年は尿路結石の手術後すぐだったし比較しても仕方ないのだけど、今日は悪いなりに走れたのかなと思う…

時間を気にせず走れている時がいい…
山や森に溶け込むような感覚になれる…

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大きな鳥にさらわれないよう

大きな鳥にさらわれないよう(2016)
著 川上 弘美
装画 nakaban

偶然同時に読んでいた『タネが危ない』(著:野口勲)と驚くほどリンクしていた…
クローン工場はメンデルの法則を利用したF1種(交雑種)を連想させる…
人間を地域ごとに隔離することは、固定種を維持する発想と重なる…
おまけに野口さんが携わった手塚作品も”大きな鳥”だ…

人工知能は答えに辿りつけない…
なぜなら知的認識とは「対象化」であり、答えからの「逸れ」だから…
知性が作り出すのはバーチャルな世界だ…
意味の世界のこと…

人の身体は意識(知性)を得て混乱した…
生のさまざまな姿は「私」や「欲望」や「孤独」へと変異した…
抑制や節度を失う時(ある意味神の不在によって)、バーチャルは暴走する…
知によって、人は依存症を患い、暴力装置と化す…

人工知能とは、知性が独立したものではないだろうか…
しかし人工知能は生(身体)を持たない…
動機を持たない、命令によって演算する装置に過ぎない…

人工知能に「私」や「欲望」や「孤独」は可能だろうか…
知の暴走はずっと前に始まっている…

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タネが危ない

タネが危ない(2011)
著 野口 勲

野生に損得はない…
すべてが分け合い、満ちている…
だからゴミも富も権力も生まれない…
でも私たちは恩恵を得るために何かを奪う…
それは歪みであり力…少なくとも私たちにとっての…
そして私たちは恩恵に正解を見てしまう…
海を汚すように自らを壊しているのに…

すべては自然の摂理なのだろう…
私たちは自然を破壊することができるわけではない…
ただ、人は自身の生きにくさへと自ら舵を切る…

自然と対のものがあるとするなら、それは知性が見せてくれるものだ…
何の抑制も節度もないとき、知性は必ず暴走へと誘う…

知性とは、本来ひとつのものを、切り取ったり、抽出したり、写したりする…
それら対象化は「逸れ」であり、答えを失うことに等しい…
人は知性によって分からなくなる…

そもそも畑で作物を育てることや、種を収穫して同種のものを育てることは、他の動物では為しえない知的作業であり、クローンを作る技術以外の何ものでもない…F1種とか雄性不稔がダメという話ではなく、それらを優先/奨励する流れが問題なのだろう…畑や道路を作ることが既に「逸れ」ていることを忘れたくない…危機感こそ必要なのだと思う…私たちは自分たちが何者なのかをもっと知るべきだ…

中和することの弊害も考えたい…無化、中和、矮小化、火消しの危険性…尖った部分を丸くする、極端な偏りを無くす、そういう作業は人にとって必要なものだろう…賢者の言葉を借りるなら「中庸」「中道」になるのかもしれない…それらは私たちの認識能力つまり「切り取る」ことへの警鐘なのだと思う…個々は個々であるだけに中和できてしまう…ただそのとき、問題のすり替えが行われたり、大きな流れを見失うこともある…「従うべき知り得ないもの」をいつも意識していたい…

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食べられることと…

私たち生き物は生き物を食べて生きている…
人間も、本来食べられる存在なのだろう…
すべてはそうやって環っている…

動物たちは襲う、逃げる…
彼らは唯一の手段を生きている…
答えを体現している…
彼らに死は訪れない…

死とは、人の発明品だ…
私たちは生を否定する…
食べられること、分解されることを否定する…
生き方を忘れてしまった…

人は動物を食べたいのだろうか…

人を食べたくない…
犬や猫を食べたくない…
牛や豚や鳥を食べたくない…

彼らはきっと私を私として認識できる…
私も彼を彼として認識できる…
同じ記憶を共有することもできる…

私たち人間や彼ら動物には主人を感じる…
代わりはありえない…

食べるのは最後の手段でありたい…
そのわりに人は、毎日圧倒される量を食べている…
笑いながら…

ハッピーアワー

ハッピーアワー(2015)
監督 濱口 竜介

夏に見たいと思ってた…
夏はどういうわけか古い記憶がよぎる…
まだ若く友人も多いときの記憶…

人を観たかった…
飢えてるのかもしれない…
期待通り、みんな一筋縄ではなかった…
みんな愛おしく感じた…

人は弱いし足りないし…
正解もない、だから…
強がるしかないし、勘違いするしかない…

すぐそばにある物語だ…
なにげに日常の検証を迫られる…
観終えると、少し優しくなれるのかもしれない…

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EBINO/KIRISHIMA

第13回 霧島・えびの高原エクストリームトレイル – 65km(DNF)

終始降り続く雨に助けられた…年齢と、それに伴う練習の質の低下と、腰痛や頚椎症などいろいろ重なって、脚は動かず、さらに途中で嘔吐…第3エイドでリタイヤを考えたのだけど、あえて惰性に任せてまた歩き始めた…もし雨が降ってなかったらきっと諦めてた…第4エイドまでの途中でなぜか体に生気が戻ってきて、脚は終わってたけど気力とリズムを取り戻した…何が作用したのか分からないけど、雨が冷やしてくれたのは一要因だと思う…最後はボロボロになりながらトレイルを楽しんでた…

バスでメイン会場に戻ってきて、窓越しに駐車場のすべての車が異常に汚れている光景を目にした…噴火の影響であることはすぐ理解したのだけど、つまり僕らも灰混じりの雨を浴びていたということか…

STONER

ストーナー(1965)
著 ジョン・ウィリアムズ
訳 東江 一紀

・・・

人は人生が終わることを理解していても受け入れることができない…

そんな風に見える…

生きているというより、生きることに抵抗しているかのようだ…

死を遠ざけることは生を否定している…

そうやって人生は作られる…

人生とは抵抗の軌跡だ…

そして何も分からず、何も解決しないまま終わっていく…

・・・

特別な話ではない…
ただ、精緻でリアルな描写のせいもあり、気づけば引き込まれていた…
作者は自身とストーナーを重ねているように思えた…
ジョン・ウィリアムズは遺書を書いたのかもしれない…
過ごした世界に対する独白…

訳者の東江一紀さんは2014年に癌で亡くなっている…
同年「ストーナー」は刊行され、2015年に第一回日本翻訳大賞(読者賞)を受賞…
「ストーナー」は東江さんの最後の仕事であり、亡くなられたあとの受賞だった…
東江さんもまた、自身を重ねていたのだと思う…