凱里ブルース(2015)
監督 畢贛(ビー・ガン)
詩的な世界が広がっている…
映画の面白さや可能性が堪能できる…
30分経ってタイトル…
画角の外から聞こえてくる音…
トンネルの中はまるで「ストーカー」…
「WEEKEND」を上回る長回し…
中国がどんな国なのか…
何が起こっているのか…
少しだけ垣間見れたような気がする…
凱里ブルース(2015)
監督 畢贛(ビー・ガン)
詩的な世界が広がっている…
映画の面白さや可能性が堪能できる…
30分経ってタイトル…
画角の外から聞こえてくる音…
トンネルの中はまるで「ストーカー」…
「WEEKEND」を上回る長回し…
中国がどんな国なのか…
何が起こっているのか…
少しだけ垣間見れたような気がする…
象は静かに座っている(2018)
監督 胡波(フー・ボー)
負の連鎖が続く…
喜劇じゃないかと思うほど…
戦争や飢餓のような最悪の事態というわけではなく、
人社会のゴミのような部分が凝縮されている…
万人のすぐそばにあるもの…
手ブレ長回しときつめのフォーカス…
ワンシーンを違う視点から別カットで撮ったり…
日暮時の長回しで終わる頃は暗くなってたり…
印象的なシーンは多かった…
映画を観ると体に新しい血が流れるかのようだ…
何か救いのようなものを感じる…
芸術にはそういう癒し効果がある…
象を見に行くことも似ているのだろう…
逃げているわけではない…
そこに希望を見出しているわけでもない…
ただ、完成後監督は自ら命を絶ってしまった…
Die acht Todsünden der zivilisierten Menschheit
Konrad Lorenz
◼️3 人間どうしの競争
「正のフィードバックの特殊な事例は、同一種の個体がたがいに競争状態に入るときに生じる。そのような競争は淘汰を通じて種の進化に影響を及ぼす。種内淘汰は、種の外から環境要因によってひきおこされる淘汰とは違い、その種が生き残るチャンスを減らすばかりでなく、たいてい明らかに有害である遺伝子の変化を生じさせる。」(p35)
「人間と人間との競争は、今までにいかなる生物学的な要因もなさなかったこと、つまり、「永遠に活動し、有益な創造をなす力」にまっこうから対抗し、この力が生み出した価値を、価値に盲目な商業的思わく次第でどうにでも動く冷酷な悪魔のこぶしによって、ほとんどすべて破壊するということをやってのけるのである。」(p37)
「昔の飛行機よりちょっとだけ速く大西洋を飛び越える飛行機ができたとき、そのために必要になる滑走路の延長や離着陸の困難さ、またそれによって増大する危険、大きな騒音などにどのくらいの価格が見合っているのかと尋ねる者はいない。三十分を獲得することそれ自体が、だれの眼から見ても、いかなる犠牲にも値する価値と映るのである。」(p38)
知性の避けられない構造…暴力の構造…言い過ぎではない…自覚するには集中が必要かもしれない…集中というより論理的思考を捨てることだ…リンゴを見るとき、裏側や中身や生産地や生産者は見えない…それでも例えば無視できないほどの汚染には気付くのだろうが、しばらくするとSDG’sのような発想がでてくる…薬が効かなくなると新しい薬を求める…そういう解決の仕方しかできない…
何のために走るのか…
「何のために」から解放されたいから…
何が楽しいのか…
身体が喜ぶから…
身体とは何だろう…
それは「私」ではない…
自然と不可分のもの…
ランニングは「私」の麻痺だ…
「私」の緩和が身体を癒す…
心と身体という対比ではなく…
精神と肉体という対比でもない…
心、精神とは、身体のひとつの在り方ではないだろうか…
「私」と身体という対比が馴染む…
「私」との対話ではない…
「私」と向き合っているのでもない…
「私」を消そうとしている…
負荷が必要なのだろう…
「私」を壊すために…
iPhoneのSTRAVAが勝手に止まるのでSiriに再開するよう指示したらBEATLESのNorwegian Woodが流れて笑った…何繋がりなのか…
トレーニングで一周だけ走ってみた…レース時のようにテープがあるわけではないので、APPLEWATCHにナビアプリを入れてスタート…精度も高く安心して走れた…使ったアプリは「WorkOutDoors」…クラウンで拡大縮小もサクサクできて見やすい…アプリ使用で30時間ぐらい使えれば最高なのだけど…
自分の実力だと1周1時間半…2周3時間が精一杯かな…レースだと3周4時間半が制限時間だけどそれは限界超えそう…とにかく練習にはいいコース…西米良に向けて2周3時間を何回かトライしてみたい…腰痛次第だけど…
知性を警戒している…
知性はバーチャルな世界を作り出す…
バーチャルは暴力を作り出す…
暴力とは恩恵のために犠牲に背を向けること…
あるいは犠牲に気づかないこと…
知性は常に恩恵に正解を見ている…
犠牲とは…
環境破壊、ゴミ、病気、ストレス…
争い、差別、貧困、そして動物の犠牲…
それらが恩恵を作っている…
バーチャルとは…
私、あなた、国家、お金、家族、ブランド、道徳…
「主体」と「対象」の中で意味が導く世界…
ありのままではないこと…
動物のそれとは違う…
人の「ありのまま」とも違う…
すべては自然の行為…
自然に無駄はなく、すべてが循環している…
しかしバーチャルとは歪んだ在り方…
そこに力が生じる…
意味による力…
私たちだけが受け取る力…
その力に翻弄される…
より便利に…
より刺激を…
より優位に…
バーチャルだから…
答えを失くしたから…
依存の形態…
鈍化、麻痺の形態…
無自覚、非感覚…
非充足、非循環、非律動…
自作自演の自滅行為…
知性は見ることができない…
聞くこともできない…
第6回 MIZUKAMI MOUNTAIN PARTY – 39km
トレイルの魅力が詰まったコース…民家を通ったり、テクニカルな下りを楽しむポイントもある…しかし昨夜は一睡もできなかった…ブロックもいつも通り打ってしまった…なぜ同じ過ちを繰り返すのか…仕方ないので、100マイルレースの終盤でも走るかのような(つまり過酷だけどゴール間近という)設定でスタート地点へ…ところが予想に反して今日の走りは良かった…なぜか眠らなくても走れてしまう…足の方も割と作れていたようだ…
Die acht Todsünden der zivilisierten Menschheit
Konrad Lorenz
◼️2 生活空間の荒廃
「動物、植物、そして菌類という三種類の生物は、すべて巨大な歯車に組み込まれているので、それぞれの環境に適しており、そしてこの環境にはその場所の無生物的な要素ばかりでなく、当然ながらその他の生きている住人のすべてが含まれている。だから、ある生活空間の生物はすべて互いに適応し合っているわけである。このことは、たとえば捕食者とその獲物、食うものと食われるもののように、みかけの上では互いに敵対しあっている生物たちにもあてはまる。もっとよく考えてみると、生物を個体として見ずに種として見るとき、それらが互いに傷つけ合っているどころか、しばしば利害共同体を形成していることがわかる。」(p25)
バタイユが「水の中の水」と例えていたこと…
「何も知らないものは、自然や自分自身に対する罪人となっていながら、「行為者」つまり下手人たることをいまだに誇っている。…文明人は自分をとりまいている自然、自分を養っている生きた自然を盲目的かつ野蛮に荒廃させることによって、自らを生態学的に崩壊させるおそれがある。」(p31-32)
子供は柵の中で生まれ…
柵の中の生き方を教わる…
働くことも食べることも…
動物たちのそれと重なっている…
しかし柵の中は意味が支配している…
人は大むかし群れで暮らしていた…
生まれた子供はみんなで育てた…
「家族」とは現代人が作った意味だ…
いまの人は意味に縛られている…
歳をとると…
意味が少しずつ消えていく…
うまく生きていけない…
とにかく意味を求めていた…
いまは意味から解放されたい…
積み上げるのではなく、捨てる作業…
知性は意味を求める…
答えではない…
Die acht Todsünden der zivilisierten Menschheit
Konrad Lorenz
目次を読んで重なる部分が多いと感じたので読んでみようと思う…少し読んでみると、細部の解釈に多少ズレは感じたが、なにより大枠は同じ着想や方向性を持っているように思えた…動物行動学の視点から考えを深められればと思う…八つの大罪があるという…
◼️1 人口過剰
まず自分の感じてることを…個体数の多さは人だけではなく家畜も含めて異常だ…それはイナゴの異常発生や癌細胞の増殖を思わせる…海辺の広い平地は硬く固められ無数の硬い巣が立ち並んでいる…連絡路も網目上に硬く固められ硬い乗り物が休みなく動いている…すべての人が今の水準の生活を維持するためには、少なくとも地球は常に破壊され続けなくてはならないだろうし、ゴミや核廃棄物は増え続けるしかないのではないか…人口は地球と釣り合っていない…人口過剰が根本問題なのではなくて、それは異常性を象徴している…人がウイルスやブラックホールのような存在とは思いたくない…思いたくない、というだけなのだけど…
思考と感覚の不釣り合い(ズレ)もある…人は知性によって感覚の及ばない領域まで考え感じることを強いられている…私たちはウクライナやパレスチナの人々のことにどれだけ心を痛めているだろうか…家畜の実情にしても、その知識とは裏腹に感覚的に感じるまでには至っていないだろう…あるいは感覚を閉じてしまっている…物理的に遠くのものだけではなく、身近な目の前にあるもののその先にある多くのものが見えない状況だ…家族や隣人のことを考え生活するのが自然であり感覚的には見合っているのかもしれないが、今となっては現代人の殆どは同じひとつの複雑な社会に生きている…目の前のことと隔てられた先のことは無関係ではない…配慮の無さに仕方なさを感じる一方で、常にとは言わないが曇りのない目で見る必要性を感じる…
以下ローレンツを読みながら…人口過剰の原因や経緯についての言及があるわけではない…過剰になったことが人にどういう影響を与えているかが語られている…