モロトフ・カクテルをガンディーと(2015)
著 マーク・ボイル
訳 吉田奈緒子
テッド・カジンスキーを取り上げて著者を批判しようとは思わない(そもそもカジンスキーの評価には慎重になるべきだろう)…ただ、ほぼ賛同できる内容でありながら、どうしても埋められない溝を感じたのも事実…
注目したいのは「暴力」という言葉を使っていること…自分とほぼ同じ意味で「暴力」を使っている…ただそのルーツへの言及が抜けてるように思えた…ルーツは構成員それぞれの知性にあると思っている…社会の上から下へとかその逆とか、あるいは多から少へとかその逆とかは関係ない…どんな境遇の人であれその思考の中に暴力は潜んでいるのだと思う…そもそも社会を作っているのがその暴力ではないだろうか…ホッブズの自然状態が正しいと言っているのではなくて…もし正しいとするなら、それは構成員が知性への隷属状態にあることが条件だ…人は知性だけではない…本性は身体にある…違う選択もできるはず…
暴力を扱う思想家にしても知性の暴力を回避することはできない…ただ、思想家と呼べる人たちは知性を少なからず疑っているように思える…知性の暴力から逃れ、距離を保っているのではないだろうか…芸術家に備わるもののようにも感じられる…政治家や企業家にもそういう感性を持った人はいるのだろう…ただし彼らの主な任務は暴力を遂行すること…暴力とは知性に主導権を握られることで生まれる…知性の奴隷になることで…


