自然の哲学

自然の哲学(じねんのてつがく)(2021)
著 高野 雅夫

特に最後の9章は「その通り!」と唸ってしまうほど共感できる内容だった…本書の内容に殆ど触れず、自分の考えばかり書き連ねてしまったが、そもそも人の書いたものをただ受け入れるのが読書ではないはずだ…自分の中で咀嚼して自分の考えの中で再構築して言葉にすることが大事だと思う、と、言い訳してみた…
正直言うと、林業とか農業に食いついたのだけど、後半は自分が普段考えることと似通っていて、それはそれで良かったのだけど、もう少し林業/農業に触れて欲しかった、と、偉ぶってみた…

▪️第9章 自然の哲学(じねんのてつがく)

「日本国」では、目標を達成して成果を出し結果を残すのが大事と言われる。自分が望み努力するならば何でも実現できる、ということが前提とされ、自分がやりたいことを一生懸命やれば道は開けるという。結果を出せたとしたら、それは自分の力であるし、出せなければ自分に力がなかった、努力が足りなかった、ということになる。「できないのはやらないからだ」という理屈だ。それを裏返せば、困ったことが起きてもそれは自己責任ということになる。「日本国」では「何でもできる(はずの)自分」という物語が共有されている。自分が肥大化しているのだ。(p219)

ホリエモンさんとかは、そっちの人だよな、とつくづく思う…私たちは、知性によって人工(自然の域を出ないが、野性と対置するもの)の新しいバランスに入り込む…知性は虚構の中で、成功、獲得、勝利に正解を見出す…その流れを補強するものとして教育や道徳が生起する…しかし私たちの身体はそのバランスの中で生きるよう設計されてはいない…そんな社会で病む人は多いのではないか…病む方が悪いとか異常という扱いまで受けながら…「生きにくさ」こそ正常なのだと言いたい…人社会の恩恵あるいは水準は、貧困や差別やゴミや争いや病気やストレスを吐き出すことで維持されている…新しいバランスは、癌細胞の振る舞いに似ている…

「日本国」流のやり方から転換するためには、よほどトレーニングが必要だと思った。それで毎日の暮らしの中で自己訓練することにした。通勤する電車に乗っている時間は、それまではムダで退屈な時間だった。目的地に到着することだけが大事だった。そこで、電車に乗っていまを「生き切る」とはどういうことだろうかと考えた。まず自分が感じる感覚に集中してみると、窓の外の景色、車内の人々の表情、さらには加速したり減速したりする感覚など、実にたくさんのことがその場で起きていた。それらに一つひとつ集中してみると、そのおもしろさ、不思議さを感じることができた。じっとその場の時間の流れに全身を浸すような感じでいることを心がけると、その場に自分がしっくりくるような感覚が生まれる。以来、私はどんな場面でもそういうトレーニングを続けるよう努力している。(p225-226)

トレイルランニングが自分にとっての実践の場になっている…なかなか普段の生活では難しい…練習にしろ大会にしろ一人で行く…仲間も作らない…そこには日常を連れて行かないことにしている…

▪️第7章、第8章
▪️第5章、第6章
▪️打3章、第4章
▪️第1章、第2章

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第7章 第2次移住ブームがやってきた
▪️第8章 弱さの物語

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

スナイダーの「場所に生きる」を自分なりに翻訳すると「身体で生きる」になる…身体とは、肉体だけではなく、精神や心や魂みたいなものも含まれる…さらに感覚や空気や食べ物や細菌などでつながった周りの環境まで広がりも持つ…身体でないものとはバーチャルなもの、つまり知性が作り出すもののこと…決して知性を否定するわけではないが、身体を中心に据えようということ…移動は自分の足を使うとか、実際に見て嗅いで触ることのできる情報を大事にするとか…等身大ということ…

知性は常に無理を強いる…ガザの悲劇に対して、私たちは本当に悲しむことができるのだろうか…もしできるのなら、世の中の暴力はもっと減るだろう…巨大な肉食産業も消えるかもしれない…私たちの感覚は残念ながら届かない…私たちは、知性によって、等身大ではない歪んだ状態にさらされている…いつも大袈裟で都合がいい…

私たちは場所を放棄してしまった…世界はお金と情報で繋がっている…カカオだけ作っておけば豊かになるはずだった…しかし現実は違った…グローバル化という超分業化は、依存体質を作り出し、椅子取りゲームを強いている…都会も田舎も先進国も途上国も変わらない…私たちは大きな社会の中で別々の方向を向いて生きている…

田舎より都会の方が隠れることができるのだろう…さらに都会よりネットの方が隠れることができる…都会やネットは、よりプライベートな領域が増すのだろう…好きな服を着て、自由に発言する…しかし私たちはそもそもバーチャルな世界に住んでいる…実は何も変わらない…VRや仮想通貨こそ本質に迫っている…人社会で生きるとは、虚構に住むということ…リアルとは何だろう…それはお金が増えたりYouTubeの登録者数が増えることではない…場所に生きれているだろうか、身体で生きれているだろうか…

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第5章 「お金」の物語から自由になる
▪️第6章 解けなくなった人生方程式

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

率直に話せば、SDG’sは茶番と言いたい…「疎外」にしても、それは人が作るあらゆる組織や繋がりが内包するものであり、特別なものではないと思う…また、地球上の人と家畜の個体数は異常なのであって、決してスルーできることではない…

知性は切り取ることができないものを切り取る…つまり勘違いを作り出す…いつも切り取られた恩恵に正解を見て、避けられない犠牲を視界から葬りさる…貧困や戦争や環境破壊やストレスに目を向けたとしても同じことを繰り返す…それが知性だ…知性とはバーチャルな世界を作る装置…国家も会社もお金も虚構…そして「私」や「あなた」や「神」も虚構なのだろう…神や自然への信仰が薄れ、無意識に知性信仰へと移行していった…抑制を失い、競争社会への拍車がかかった…ただそれは遥か昔から準備されていたものだ…野生には、エネルギーも、食べ物も、自由も、平等も、善悪もない…私たちはバーチャルな世界で富や得や力を作り出し振り回されているにすぎない…自然環境や動植物が蚊帳の外になるのは自明のこと…ヒト中心世界で、それらは利用するものでしかない…教育の最大の問題点は昔も今も国内も海外も変わらない…それは私たちが何者なのかを教えないこと…人社会での生き方を教えながら、自分で考えないよう訓練していること…誰も私たちが「チッソ」だとは教えない…

オフグリッドは「里山」の理念と呼応するものがある…スナイダーの「場所に生きる」ことにも通じるのではないだろうか…人は答えを失くした動物…辿り着けないことは分かっている…要はどこを向いているかだ…どこに答えを求めるのか…人社会に求めるのか、自然に求めるのか…

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第3章 森と農の物語
▪️第4章 水俣と福島から「生国」を学ぶ

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

人気のない登山道を走ったとき、野生の鹿に遭遇した…視界に入った時はすでにお尻を向けて走り去るところだった…慌てている感じはなく、珍しい来客を誘導するかのような優雅な動きだった…森は美しさと不気味さを備えた空間だ…特に鹿などと遭遇すると神聖な気持ちになる…その一方で自分が生き方を忘れた余所者のようにも感じる…公園の遊歩道を走っていてヘビに遭うこともある…お互いビックリして逃げるのだけど、そもそも蛇の生活エリアに勝手に公園を作ってるわけで、なんとなく申し訳ない気持ちになる…シロアリが家を食べたり、ゴキブリが台所に出たり、スズメバチが軒に巣を作ったり、虫が畑の作物を食べたり、クマが民家に下りてきたり…彼らは自然の中でただ役割を果たそうとしている…雑草とか害虫とか、それは本当に相応しい言葉なのだろうか…

マドンナさんは欧州人の過去の成果を称えているようなのだけど、コロンブスがインディアンに対して行ったこととか、インディアンの祖先が北米大陸に到達してからサーベルタイガーやマンモスがいなくなったこととか、そこはスルーなのかな? https://www.jiji.com/jc/article?k=2025022200247&g=int

以下に著者が引用している緒方正人さんの言葉を三つ転載させてもらう…緒方さんは水俣病の認定申請をしていたが、31歳のとき申請を取り下げ、補償運動から身を引いている…

「和解」とか「補償」なんて、所詮人間の世の中だけに通用する浅知恵にすぎない。死んでしまった魚や鳥や猫はどげんするのか。金で済ませるわけにはいかんでしょ。消えてしまった藻場は、原生林はどうするのか。圧力をかけて「和解」を押し付けるわけにもいかんでしょうが。キリキリと舞って死んでいった魚の無念というものをどぎゃんすっとか。(p103-104)

俺は権力を許してしまったんじゃないんですよ。捨てちゃったんです。俺は、国家なんて、追いかける値打ちもないのだと思う。国家は所詮、責任は取れないし、また、とろうとしない。制度的な答えはいずれ出すでしょう。でも、俺たちが本当に求めているのは、痛みの共有です。求めている方にはいろんな気持ちが詰まっているけれど、応えるべき方はシステムとしてしか答えない。(p104)

この辺では「そいもこいも、あんた、ぬさりたい」という言い方をします。「ぬさり」、あるいは「のさり」は熊本の方言で、授かりものという意味です。それもこれも縁として、授かりものとして引き受けて生きていかねば…という思いがそこに込められている。「ごたがい」やねといえば、お互い様じゃないか、ということ。…動物や植物とも「ごたがい」の間柄です。「ごたがい」には、海も山も何もかも含まれとっとですよ。「ぬさり」とか「ごたがい」という言葉には、いのちというものが我々人間の領分を越えたところで展開しているということに対する畏敬の念が、またそれを前にして謙虚にひれ伏し、祈る心が込められている。(p105)

緒方さんは「チッソは私であった」と語っている…
文明は、国家は、知性は、私たちが何者なのか語りたがらない…

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第1章 里山世界と村の成り立ち
▪️第2章 せめぎあう村と国家

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

自然に逆らうことなく、野生(野性)と共に生きようとしているのか、それとも知性信仰を捨てず、便利や優位や刺激を追い求めるのか…現代の共同生活、相互扶助は、その殆どが後者であり、あらゆる組織が大きな社会の力に従順だ…農業や林業、さらには教育やスポーツも競争の中にあり、道徳もその流れを擁護するように働く…そういう組織には正直あまり関わりたくない…不快で不自然な力学を感じる…メンタルが潰されそうになる…

里山の理念は「場所に生きる」ということではないだろうか…スナイダーの本に書いてあることが、ここでも繰り返されている…入会(いりあい)、つまりコモン(共有地)の存在も書かれている…スナイダーは日本に住み学んでいたわけで、たどり着くところは同じなのかと思うと感慨深い…

結や普請といった相互扶助は、今に引き継がれているものもある…しかし今も残る田畑の仕事以外では、急速に衰退しているように思える…清掃活動、安全祈願の火の祭り、鬼火焚き、子供会、いずれも消滅の途にあり、わずかに残っているものは主に高齢者だけの活動になってしまった…近所の交流など全く無い…人は場所に生き共生するのでなく、別の活動のために場所を利用しているだけになってしまった…私たちはみんな違う方向を向いている…

江戸時代の村での寄り合いは、基本的に多数決ではなく全会一致だったらしい…グレーバーによると、多数決は敵味方を作る要因でもあり、法や武力などの強い強制力のない小さい共同体の中では、コンセンサス(全会一致)こそ自然ということだった…サパティスタも同じではないだろうか…ラカンドンの人たちも土地に生きる人たちだ…

里山の姿は、世の中の大きく不可逆な流れに逆らえず、徐々に消えつつある…ただしそこには人が自然(野性/野生)と共生するための知恵があった…逆戻りするということではないが、今のこの時代を経て得たことを活かしつつ再生させることは必至なのだと感じる…

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

プラスチックは非自然ではない…電気も核エネルギーも非自然ではない…自然以外のものはありえない…ただ、いつもデカルトが悪者になるのだけど、「我思う故に我あり」のあと、自然と人の知的行為は分離してしまったらしい…神が少しずつ力を失い、お金やテクノロジーがそれに代わった…しかしこの流れはデカルトに始まったものではないと思う…狩猟採集時代、もうすでに始まっていたのではないだろうか…人は知性によって見えなくなった…聞こえなくなった…答えを失った…この世に非自然なるものはないけど、人が作る意味は少なくとも答えではない…作り物だ…「私」や「あなた」でさえ…

▪️第5章 青山はいつも歩いている

「いま、目の前にある山水は先覚者たちの悟った境地の具体的な現れである。山は山になりきり、それぞれ現象を通して本来の完全性を実現している。山水は、無限の空以前からの姿だから、いまも、目の前で活動している。それは、万物形成以前からの自己だから、自由自在に実現している。」(p180

「「山水」というのは、大自然の営みの完全性を表現する言葉である。それだから、清浄と汚染、自然と人工という対立をはるかに超えたものだ。大自然全体の中には、川や谷ばかりではなく、農場も、畑も、村落も、街並みも、それに(かつては比較的小さかった)人間の住む俗塵世界もまた、明らかに含まれているのだ。」(p188-189

「道元の関心は、「聖なる山」、つまり、巡礼や巡礼講といったこと、あるいは何か特別な意味でのウィルダネスにはない。道元のいう山水とは、この地球の生成過程であり、存在そのもの、過程、本質、行為、不足であって、存在も、非存在も、ともに含んだものである。山水は我々そのものであり、我々は山水そのものだ。本性を直接見ようとする人にとっては、「聖なる」という観念は妄想であり、邪魔だ。そんな観念のために、目前の存在、あるがままの存在、肝心の「これ」から、我々は目をそらせてしまう。根っこも、幹も、枝も、みんな同様にざらざらしている。階級もなく、平等もない。秘儀的でもなく、開放的でもない。天才もいなければ、のろまもいない。野性もなければ、栽培もない。束縛されもしなければ、自由でもない。自然でもなければ、人工的でもない。それぞれが、まったく独自な、つかの間の個である。そして、すべての存在は、あらゆる形で関わりあっており、あらゆる形で相互に関わっているからこそ、独自な個なのだ。」(p190

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

追章 ”わら一本”アメリカの旅 – アメリカの自然と農業

「自然がなくなったら本当の思想は生まれないんじゃないか、という考え方を自分は持っております。人間の感情とか思想とかいうものは、皆さん、頭からひねり出すように思っているかもしれないが、自分はそうではないと思っている。人間の感情などはどこから出てくるか、ということです。花を見て美しいという。今日は暖かい、寒いという。今の何はおもしろかった、おもしろくなかった、愉快だ、愉快でない、悲しい、さみしいとかいう。こういう素朴な感情というのはどこから出てくるか。アメリカへ行ってみると、頭から出てくると言います。日本人は胸から出るというようなことを言う。では、頭や胸から、花は美しいという言葉が出てくるか、ということです。涼しいという。何で涼しいのか、です。科学者によれば、温度が何度以下だったから涼しい、と言うかもしれないが、科学的な説明に過ぎない。さわやかな風が吹いたから、さわやかだ、と。これはやっぱり自然にわくもんだ、自然からわいてくるものだと思います。」(p243)

自然から湧くものが分かっているだろうか…何を食べたらいいのかも分からないし、走っても楽しさを感じることができない…Thich Nhat Hanhが食べることや歩くことを通じて伝えたかったこととは何なのか…

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

第5章 病める現代人の食 – 自然食の原点

「自然食の目的は、上手に解説していろいろの食べ物を選択する知恵者を造ることではない。自然の園から食物を無心にとっても天道にそむかない、無智の人間を造るためのものである。」(p206)

「もし人が真人であり、心身が真に健康であれば、人間は自然の中から誤りなく正しい食べ物を無分別でとる能力が自然にそなわっているはずである。」(p219)

核心は歴史とか栄養ではない…身体に問いたい…人はデフォルトで動物を食べたいと欲すのだろうか…動物ではなく加工された「肉」を食べたいだけではないだろうか…それは本性なのだろうか…何れも壊さず傷つけず、心地よければそれでいい…しかし人の知的操作は相応の歪みをもたらす…外部も内部もない…ひとつの歪みがある…

人が病気になるその流れは、人の存在そのものを病的なものに変えてしまった…いま人は地球の癌細胞になっている…街や砂漠はその結果だ…必要なのは感謝と節度と、それらが育つ環境ではないだろうか…例えばネイティブ・アメリカンや仏教が伝えてくれるもの…

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The One Straw

「子供は無知にして明晰、仏に近く、大人は学び知恵多くして昏迷、仏に遠い馬鹿となる」(p184)

わら一本の革命
著 福岡正信

第4章 緑の哲学 – 科学文明への挑戦

「人間の知恵は、いつも分別に出発してつくられる。したがって人知は分解された自然の近視的局部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることはできないので、不完全な自然の模造品を造ってみて、自然がわかってきたと錯覚しているにすぎない。」
「人間は本当に知っているのではないということを知ればよい。人知が不可知の知であることを知れば、分別知がいやになるはずである。分別を放棄すれば、無分別の知が自ずから湧く。知ろう、わかろうなどと考えなければわかるときがくる。緑と赤を分ければ、その瞬間から真の緑や赤は消える。天地を分別すれば、天地はわからないものになる。天地を知るためには、天地を分けず、一体としてみるしかない。天と人の融合である。統一、合体するためには、天地と相対する人間を捨てる、自己滅却以外に方法はない。」(p153)

走ることは自分を緩める方法だと思っている…
「自分を緩める」とはいわゆる「瞑想」ではないだろうか…

「人類の未来は、何かをなすことによって解決できるのではない。自然はますます荒れ果て、資源が枯渇し、人心が不安におののき、精神分裂の危機に立つのは、人が何かをなして来たからである。なにをすることもなかった、してはならなかったのだ。人類救済の道は、何もしないようにしようという運動でもする以外に方法がないところまで来ている。発達より収縮、膨張より凝結の時代にきている。科学万能、経済優先の時代は去り、科学の幻想を打破する哲学の時代が到来している。なんて言い出すと、達磨さんが黙ってにらんでいるようだ。達磨さんとにらめっこするしかない。笑った方が負けである。笑い事ではない。」(p157-158)

「神」が力を持っていた時代を経て、いま「知」が力を持っている…人はいま「知」を絶対視し崇拝している…それはただ、神が知に変わっただけのこと…いわゆる宗教に冷めた視線を送りながら、実際は気づかないうちに新しい宗教に染まっている…

「胃の弱い人間を作っておけば、消化しやすい白米がありがたがられる。消化しやすい白米食(粕)を常食にしておけば、栄養が不足してバター、ミルクという栄養素が必要にもなる。水車や製粉工場は人間の胃腸の働きの代わりをして、胃腸を怠け者にすることに役立っただけである。」(p166)

人はいつから多品目食になったのだろうか…なにかと「何でも食べろ」という言葉が幅を利かせている…他の動物は粗食でありながら栄養の偏りや不足はない…そういう意味で何かが退行しているのではないか…国や地域で自給ができなくなるのと同じように、ヒトは粗食から遠のいてしまっている…なんでも食べろと言う前に、土壌や腸内環境を含め精査し、粗食の可能性をもう一度見直すべきじゃないだろうか…「何でも食べろ」は、病や環境破壊を肯定(つまり思考停止)している…

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Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

2冊の本は頻繁に交差する…
スナイダーと福岡さんの本…
どちらを読んでいるのか分からなくなる…

▪️第4章 良き土地、野生の土地、神聖な土地

「ソローはウォールデン池の辺りで暮らしていたとき、「土壌に〈豆〉と言わせよう」と試みた。我々の概念では、土地の生産性を高めることは悪いことではない。しかし、ソローがしたように、人間が余計な世話をすることなく、土地を「自然の企み」に任せたとき、母なる自然はどんな恵みをもたらすのか、それを考えてみる必要がある。さらに、その場所における植生の可能性がどれほどのものであるかという問いへと続く。すべての土地は、荒れ果てていようと、開発されていようと、もし自然ーー道教でいうジラン、つまり、「なるがままの自然」ーーに任せておけば、本来の生物学的生産性と安定性のバランス点(極相)に落ち着くはずだ。精巧な脱産業型「未来型原始」農業では、「自然の流れに逆らうことなく、ともに歩む方法」が求められるだろう。」(p167-168

「「耕作」という言葉の語源をたどってみると、「耕す」「向きを変える」になり、おおむねそれらは自然のプロセスから遠ざかる動きを暗示している。農業について言えば、それは「自然遷移を抑え、単一栽培を確立する」ことになる。精神面から見ると、この言葉は、宗教的権威、長きにわたる机上の学問、あるいは二元論的(被造物と創造主の厳格な区分による)信心主義への服従を意味してきた。そして、すべてを支配する「中央集権化」した神性へとつながる。これこそ究極の狙いだ。これを精神的に実践しようとすると、ときには自然に対する一種の戦争となる。それは動物の上に人間を置き、その人間の上に神性を位置づけようとする試みに他ならない。」(p168)

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