The Practice of the Wild
GARY SNYDER
▪️第6章 極西の原生林
「年齢を問わず、管理せず」−それが自然な共同体であって、人間にも他のものにも通ずる。産業社会が好むのは、より若いか、中年の樹木で、対称の形を持ち、枝の長さや角度までもが同じのものだ。しかし、老木の存在もまた大切である、もはや社会の慣習にとらわれず、ジェスチャーたっぷりに、ダンスのようなポーズをとって枝々を広げ、やがてやってくる死にも無頓着な様子で、世界や天候が、どんな難題を押し付けようとも、いつでも対応できる柔軟性を持ち続けているのだ。私は、敬意を持ってこうした老木を見上げる。彼らは、中国の名声不朽 の人々にそっくりだ。寒山、拾得みたいな人物で、それだけ長く生きたからには、奇人であることも許される。林間の詩人であり、画家であり、笑いこけ、ごろごろの服をまとい、恐れ知らずの存在なのだ。老木を見ていると、私は、老年を待ち侘びるような気になる。(p253-254)
世界中の自然な共同体はすべて、それぞれ独自な形で「古代的」であり、どの共同体にも、家族のように、幼児、青少年、成人、老人が含まれている。先ごろ山火事にあい、その跡に雑草やブラックベリーが生えてきた森林の一隅から、うす暗い湿った老木の木立まで−これが森林の全体像である。神々しいまでの古木群は、その共同体の祖父母であり、情報の所有者である。共同体が維持されるには、どうしても長老が必要なのだ。幼稚園児の集団の中に文化は育たない。同様に、もし森林に、種子の保存や、根のバクテリアの菌糸や、鳥の鳴き声や、それ自身の潜在的可能性に目覚めることはできないのだ。クリス・メイザーは言う。「原生林を生き残らせるためには原生林が必要だ」と。初期の中西部の農民たちが使う鋤板が「草の根を切ったとき−その音はジッパーを開いたり閉めたりする音を思わせる−新しい形態が始まった。それは同時に、三〇〇〇万年前からつながる生態系の長い一線をプツリと、たぶん永遠に、切り離してしまうことでもあった」。しかし、この地球上の最古の生態系は熱帯雨林に残っていて、東南アジアでは、一億年前から続くものと推定されている。(p255-256)
ウィルダネスに対する第3世界の政策は、一九三八年にインドによって決められた方向に向かうことが、あまりにも多い。その年、インド政府は、「先住民族だけでは、適切な期間内に、その地方の強大な不毛地域の資源を開発するのは無理で移住入植者の力が必要だ」と言って、アッサムの部族の森林地帯を外部からの移住者に解放した。また、世界中の政府や大学の権力を握る人々の中に、自然界に対する偏見、それに、過去に対して、偏見を抱いている人々があまりに多過ぎるように見える。商工会議所流の特殊創造説からすれば、ショッピング・センターは神からの授かりもので、しごく満足だろう。アメリカ人たちは、そんな生き方に従おうとしているかのようだ。我々の先祖がもっていた高潔さも気質も、「真に」生きるとは何かをよく知らない人々が口にする「そんな生活なんかできっこない」という一言で、片づけられてしまうのだ。原生林は、腐りかけたゴミクズみたいで、こうるさい老人に似てなくもないと思われている。(p259)
生産的であってはならないのだと思う…
私たちはいつも「為そう」とする…
それは歪みを生む…
何もしないということではなくて、川の流れに従うべきだということ…
ただ、私たちは生き方を忘れてしまった…
復元できない森のように…