里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第1章 里山世界と村の成り立ち
▪️第2章 せめぎあう村と国家

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

自然に逆らうことなく、野生(野性)と共に生きようとしているのか、それとも知性信仰を捨てず、便利や優位や刺激を追い求めるのか…現代の共同生活、相互扶助は、その殆どが後者であり、あらゆる組織が大きな社会の力に従順だ…農業や林業、さらには教育やスポーツも競争の中にあり、道徳もその流れを擁護するように働く…そういう組織には正直あまり関わりたくない…不快で不自然な力学を感じる…メンタルが潰されそうになる…

里山の理念は「場所に生きる」ということではないだろうか…スナイダーの本に書いてあることが、ここでも繰り返されている…入会(いりあい)、つまりコモン(共有地)の存在も書かれている…スナイダーは日本に住み学んでいたわけで、たどり着くところは同じなのかと思うと感慨深い…

結や普請といった相互扶助は、今に引き継がれているものもある…しかし今も残る田畑の仕事以外では、急速に衰退しているように思える…清掃活動、安全祈願の火の祭り、鬼火焚き、子供会、いずれも消滅の途にあり、わずかに残っているものは主に高齢者だけの活動になってしまった…近所の交流など全く無い…人は場所に生き共生するのでなく、別の活動のために場所を利用しているだけになってしまった…私たちはみんな違う方向を向いている…

江戸時代の村での寄り合いは、基本的に多数決ではなく全会一致だったらしい…グレーバーによると、多数決は敵味方を作る要因でもあり、法や武力などの強い強制力のない小さい共同体の中では、コンセンサス(全会一致)こそ自然ということだった…サパティスタも同じではないだろうか…ラカンドンの人たちも土地に生きる人たちだ…

里山の姿は、世の中の大きく不可逆な流れに逆らえず、徐々に消えつつある…ただしそこには人が自然(野性/野生)と共生するための知恵があった…逆戻りするということではないが、今のこの時代を経て得たことを活かしつつ再生させることは必至なのだと感じる…

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

プラスチックは非自然ではない…電気も核エネルギーも非自然ではない…自然以外のものはありえない…ただ、いつもデカルトが悪者になるのだけど、「我思う故に我あり」のあと、自然と人の知的行為は分離してしまったらしい…神が少しずつ力を失い、お金やテクノロジーがそれに代わった…しかしこの流れはデカルトに始まったものではないと思う…狩猟採集時代、もうすでに始まっていたのではないだろうか…人は知性によって見えなくなった…聞こえなくなった…答えを失った…この世に非自然なるものはないけど、人が作る意味は少なくとも答えではない…作り物だ…「私」や「あなた」でさえ…

▪️第5章 青山はいつも歩いている

「いま、目の前にある山水は先覚者たちの悟った境地の具体的な現れである。山は山になりきり、それぞれ現象を通して本来の完全性を実現している。山水は、無限の空以前からの姿だから、いまも、目の前で活動している。それは、万物形成以前からの自己だから、自由自在に実現している。」(p180

「「山水」というのは、大自然の営みの完全性を表現する言葉である。それだから、清浄と汚染、自然と人工という対立をはるかに超えたものだ。大自然全体の中には、川や谷ばかりではなく、農場も、畑も、村落も、街並みも、それに(かつては比較的小さかった)人間の住む俗塵世界もまた、明らかに含まれているのだ。」(p188-189

「道元の関心は、「聖なる山」、つまり、巡礼や巡礼講といったこと、あるいは何か特別な意味でのウィルダネスにはない。道元のいう山水とは、この地球の生成過程であり、存在そのもの、過程、本質、行為、不足であって、存在も、非存在も、ともに含んだものである。山水は我々そのものであり、我々は山水そのものだ。本性を直接見ようとする人にとっては、「聖なる」という観念は妄想であり、邪魔だ。そんな観念のために、目前の存在、あるがままの存在、肝心の「これ」から、我々は目をそらせてしまう。根っこも、幹も、枝も、みんな同様にざらざらしている。階級もなく、平等もない。秘儀的でもなく、開放的でもない。天才もいなければ、のろまもいない。野性もなければ、栽培もない。束縛されもしなければ、自由でもない。自然でもなければ、人工的でもない。それぞれが、まったく独自な、つかの間の個である。そして、すべての存在は、あらゆる形で関わりあっており、あらゆる形で相互に関わっているからこそ、独自な個なのだ。」(p190

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

追章 ”わら一本”アメリカの旅 – アメリカの自然と農業

「自然がなくなったら本当の思想は生まれないんじゃないか、という考え方を自分は持っております。人間の感情とか思想とかいうものは、皆さん、頭からひねり出すように思っているかもしれないが、自分はそうではないと思っている。人間の感情などはどこから出てくるか、ということです。花を見て美しいという。今日は暖かい、寒いという。今の何はおもしろかった、おもしろくなかった、愉快だ、愉快でない、悲しい、さみしいとかいう。こういう素朴な感情というのはどこから出てくるか。アメリカへ行ってみると、頭から出てくると言います。日本人は胸から出るというようなことを言う。では、頭や胸から、花は美しいという言葉が出てくるか、ということです。涼しいという。何で涼しいのか、です。科学者によれば、温度が何度以下だったから涼しい、と言うかもしれないが、科学的な説明に過ぎない。さわやかな風が吹いたから、さわやかだ、と。これはやっぱり自然にわくもんだ、自然からわいてくるものだと思います。」(p243)

自然から湧くものが分かっているだろうか…何を食べたらいいのかも分からないし、走っても楽しさを感じることができない…Thich Nhat Hanhが食べることや歩くことを通じて伝えたかったこととは何なのか…

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

第5章 病める現代人の食 – 自然食の原点

「自然食の目的は、上手に解説していろいろの食べ物を選択する知恵者を造ることではない。自然の園から食物を無心にとっても天道にそむかない、無智の人間を造るためのものである。」(p206)

「もし人が真人であり、心身が真に健康であれば、人間は自然の中から誤りなく正しい食べ物を無分別でとる能力が自然にそなわっているはずである。」(p219)

核心は歴史とか栄養ではない…身体に問いたい…人はデフォルトで動物を食べたいと欲すのだろうか…動物ではなく加工された「肉」を食べたいだけではないだろうか…それは本性なのだろうか…何れも壊さず傷つけず、心地よければそれでいい…しかし人の知的操作は相応の歪みをもたらす…外部も内部もない…ひとつの歪みがある…

人が病気になるその流れは、人の存在そのものを病的なものに変えてしまった…いま人は地球の癌細胞になっている…街や砂漠はその結果だ…必要なのは感謝と節度と、それらが育つ環境ではないだろうか…例えばネイティブ・アメリカンや仏教が伝えてくれるもの…

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The One Straw

「子供は無知にして明晰、仏に近く、大人は学び知恵多くして昏迷、仏に遠い馬鹿となる」(p184)

わら一本の革命
著 福岡正信

第4章 緑の哲学 – 科学文明への挑戦

「人間の知恵は、いつも分別に出発してつくられる。したがって人知は分解された自然の近視的局部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることはできないので、不完全な自然の模造品を造ってみて、自然がわかってきたと錯覚しているにすぎない。」
「人間は本当に知っているのではないということを知ればよい。人知が不可知の知であることを知れば、分別知がいやになるはずである。分別を放棄すれば、無分別の知が自ずから湧く。知ろう、わかろうなどと考えなければわかるときがくる。緑と赤を分ければ、その瞬間から真の緑や赤は消える。天地を分別すれば、天地はわからないものになる。天地を知るためには、天地を分けず、一体としてみるしかない。天と人の融合である。統一、合体するためには、天地と相対する人間を捨てる、自己滅却以外に方法はない。」(p153)

走ることは自分を緩める方法だと思っている…
「自分を緩める」とはいわゆる「瞑想」ではないだろうか…

「人類の未来は、何かをなすことによって解決できるのではない。自然はますます荒れ果て、資源が枯渇し、人心が不安におののき、精神分裂の危機に立つのは、人が何かをなして来たからである。なにをすることもなかった、してはならなかったのだ。人類救済の道は、何もしないようにしようという運動でもする以外に方法がないところまで来ている。発達より収縮、膨張より凝結の時代にきている。科学万能、経済優先の時代は去り、科学の幻想を打破する哲学の時代が到来している。なんて言い出すと、達磨さんが黙ってにらんでいるようだ。達磨さんとにらめっこするしかない。笑った方が負けである。笑い事ではない。」(p157-158)

「神」が力を持っていた時代を経て、いま「知」が力を持っている…人はいま「知」を絶対視し崇拝している…それはただ、神が知に変わっただけのこと…いわゆる宗教に冷めた視線を送りながら、実際は気づかないうちに新しい宗教に染まっている…

「胃の弱い人間を作っておけば、消化しやすい白米がありがたがられる。消化しやすい白米食(粕)を常食にしておけば、栄養が不足してバター、ミルクという栄養素が必要にもなる。水車や製粉工場は人間の胃腸の働きの代わりをして、胃腸を怠け者にすることに役立っただけである。」(p166)

人はいつから多品目食になったのだろうか…なにかと「何でも食べろ」という言葉が幅を利かせている…他の動物は粗食でありながら栄養の偏りや不足はない…そういう意味で何かが退行しているのではないか…国や地域で自給ができなくなるのと同じように、ヒトは粗食から遠のいてしまっている…なんでも食べろと言う前に、土壌や腸内環境を含め精査し、粗食の可能性をもう一度見直すべきじゃないだろうか…「何でも食べろ」は、病や環境破壊を肯定(つまり思考停止)している…

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Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

2冊の本は頻繁に交差する…
スナイダーと福岡さんの本…
どちらを読んでいるのか分からなくなる…

▪️第4章 良き土地、野生の土地、神聖な土地

「ソローはウォールデン池の辺りで暮らしていたとき、「土壌に〈豆〉と言わせよう」と試みた。我々の概念では、土地の生産性を高めることは悪いことではない。しかし、ソローがしたように、人間が余計な世話をすることなく、土地を「自然の企み」に任せたとき、母なる自然はどんな恵みをもたらすのか、それを考えてみる必要がある。さらに、その場所における植生の可能性がどれほどのものであるかという問いへと続く。すべての土地は、荒れ果てていようと、開発されていようと、もし自然ーー道教でいうジラン、つまり、「なるがままの自然」ーーに任せておけば、本来の生物学的生産性と安定性のバランス点(極相)に落ち着くはずだ。精巧な脱産業型「未来型原始」農業では、「自然の流れに逆らうことなく、ともに歩む方法」が求められるだろう。」(p167-168

「「耕作」という言葉の語源をたどってみると、「耕す」「向きを変える」になり、おおむねそれらは自然のプロセスから遠ざかる動きを暗示している。農業について言えば、それは「自然遷移を抑え、単一栽培を確立する」ことになる。精神面から見ると、この言葉は、宗教的権威、長きにわたる机上の学問、あるいは二元論的(被造物と創造主の厳格な区分による)信心主義への服従を意味してきた。そして、すべてを支配する「中央集権化」した神性へとつながる。これこそ究極の狙いだ。これを精神的に実践しようとすると、ときには自然に対する一種の戦争となる。それは動物の上に人間を置き、その人間の上に神性を位置づけようとする試みに他ならない。」(p168)

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

反自然なるものがあるとは思わない…そう見えるだけ…すべては自然なのだから…ただ今までになかった新しいバランスが生成される…それが人口増加であり、今日の農業であり漁業であり、ゴミであり、精神的ストレスであり、争いなのだろう…人はそのバランスから抜けだせなくなっている…

第3章 汚染時代への回答

「いわゆる汚染の根本原因というものは、人間のあらゆる行動、知恵から出発して、それが価値あることのように思っているところにあるんです。結局、その価値観という、人間の根本的な頭が改革されない限りは止まらない。まあ、何をやっても、やればやるほど悪くなるというのが実状だと思うんです。対策を立てれば立てるほど、かえって問題は、悪質化し、内攻していく。」(p93-94)

知性は切り取ることしかできない…理解、思索、解釈、評価、すべてにおいて切り取ることを前提にしている…全体?を見るためには感じるしかない…知性を一旦手放す必要がある…

「何かをなすことによって、世の中がよくなるんでなくて、むしろ、しないように、しないようにすることが、大事なこと…」(p99)

「結局、本当の味っていうものは、人間の体にいいものということになる。食べ物と薬というのは二物ではなく、表裏一体のものです。現在の野菜は、食べ物であっても薬にはならないが、改良されなかった昔のものは、食用にも薬にもなるというのが本来だったのです。」(p108)

「とにかく一般に、自然を離れたものをおいしがるのは、結局ものの本当の味がわからないんです。本人の好きずきだ、なんて言って、ふつう、ごまかしてしまうんですが、そうではなくて、ですね、一口で言ってしまえば、人間の体が反自然になればなるほど、反自然のものをほしがるということなんです。で、そうなると結局、反自然のところでバランスをとらなきゃいけなくなる。」(p111)

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Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

教育や伝承について語っている…

▪️第3章 自然の知恵

ダンスや音楽は自然の知恵を伝承するものそれが過去のものとなったとき、完全に再現するのは難しい

「トウモロコシ、米、トナカイ、サツマイモ。これで土地と文化が分かる。植物は土壌と降雨量を表し、食料は社会とその生産システムを反映している。そして、もう一つの手がかりが、その土地の「歌とダンス」だ。歌い手、演奏家、物語の語り手、仮面の制作者、そして踊り手が一堂に会す。これは日々の暮らしの花である。踊るのは人間だけではない。ワタリガラス、シカ、ウシ、それに雨や嵐が顔を出す。ダンスの中で多くの人間的本性と非人間的本性が互いに出会い、また場所とも出会う。ダンスは場所の一部となり、場所がダンスの一部となる。芸術と経済はどちらも捧げものの交換に基づくものであり、とりわけダンスは、大昔から果実、穀物、あるいは狩りの獲物に対するふさわしい捧げ物であった。このような行為こそが、がめつくて傲慢になりがちな我々の根性を正すのにも役立っているのだ。」(p98

アラスカ北西部に伝わるイヌピアクの「祖母の知恵」人類にとって時代を超えた基本的価値が明記されているしかしそこに部外者との付き合い方が書かれているわけではなかった単純に解釈するなら「西洋文明」との付き合い方のことだろう

「世界の民族には「祖母の知恵」がまだ残っている。(その中にキリスト教の十戒のいくつか、それに仏教の十戒の最初の五つの戒を、私は含めたい)。そしてもう一方では、中央集権化とヒエラルキーをめざす「知恵」がある。今の我々はこの狭間に立たされている。子どもたちは矛盾した教えを耳にしながら成長していく。」(p110

「祖母の知恵」がなくなることは考えにくいしかし西洋の侵食に抵抗することはできないだろうネイティブ・アメリカンの文化はほぼ消滅し、アマゾンの少数部族も今ではスマホを使っているらしい

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

自然農法とは限りなく自然に近づけることなのだろう…完全なものはもはや「農」ではなく自然だ…狩猟採集が残る…だから自然農法というからには何らかの人の操作が入っている…生産性を上げることではなく、自然とどう折り合いをつけるかということに気持ちが注がれている…農法とは思想であり実践であり…

第2章 誰にもやれる楽しい農法

「第一は、不耕起(無耕耘あるいは無中耕)です。田畑は耕さねばならぬものというのが、農耕に基本ですが、私は敢えて、自然農法では、不耕起を原則にしました。なぜなら大地は、耕さなくても、自然に耕されて、年々地力が増大していくものだとの確信をもつからです。即ち、わざわざ人間が機械で耕耘しなくても、植物の根や微生物や地中の動物の働きで、生物的、化学的耕耘が行われて、しかもその方が効果的であるからです。
 第二は、無肥料です。人間が自然を破壊し、放任すると、土地は年々やせていくし、また人間が下手な耕作をしたり、略奪農法をやると、当然土地はやせて肥料を必要とする土壌になる。しかし本来の自然の土壌は、そこで動植物の生活循環が活発になればなるほど、肥沃化していくもので、作物は肥料で作るものだとの原則を捨て、土で作るもの、即ち無肥料栽培を原則とします。
 第三は、無農薬を原則とします。自然は常に完全なバランスをとっていて、人間が農薬を使わなくてはならないほどの病気とか害虫は発生しないものです。耕作法や施肥の不自然から病体の作物を作ったときのみ、自然が平衡を回復するための病虫害が発生し、消毒剤などが必要となるに過ぎない…健全な作物を作ることに努力する方が賢明であることは言うまでもないでしょう。
 第四は、無除草ということです。草は生えるべくして生えている。雑草も発生する理由があるということは、自然の中では、何かに役立っているのです。またいつまでも、同一種の草が、土地を占有するわけでもない、時がくれば必ず交替する。原則として草は草に任せてよいのだが、少なくとも、人為的に機械や農薬で、殲滅作戦をとったりはしないで、草は草で制する、緑肥等で制御する方法をとる。」(p46-47)

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

スピノザ、般若心経、レヴィ=ストロース、ソロー…もし読んだことがあり腑に落ちるものを感じたのなら、福岡氏の言葉もおそらく届くのではないだろうか…一般的には距離を置きたくなるような話だ…なのに自然農法あるいは自然農に惹かれる人は多い…農法が多くの人を惹きつけるツールになっている…

第1章 自然とは何か(無こそすべてだ)

「人間というものは、何一つ知っているのではない、ものには何一つ価値があるのではない、どういうことをやったとしても、それは無益である、無駄である、徒労である。」(p8)

「今まである、ある、と思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ、ということがわかったような気がしたんです。私はまさに狂喜乱舞というか、非常に晴れ晴れとした気持ちになって、その瞬間から生き返ったような感じがしました。とたんに、森で鳴いている小鳥の声が聞こえるし、朝露が、のぼった太陽にキラキラ光っている。木々の緑がきらめきながらふるえている。森羅万象に歓喜の生命が宿るというか、ここが地球の天国だったということを感じたんです。自分の今までのものは、一切が虚像であり、まぼろしであったのだ、そして、それを捨て去ってみれば、そこにはもう実体というものが厳然としてあった、ということだったんです。」(p13)

バーチャルという言葉を使いたい…抵抗を感じる言葉だとは思うが自分にはとてもしっくりくる…人の知的認識の在り方を説明している…偽物だと(他に本物があると)言ってるのではなくて、作り物ということ…国家やお金や食べ物やエネルギーや道徳…それらは私たちの作り物であり、その世界の中で私たちに対してのみ力を持つもの…

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