Jiddu

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第3章 個人と社会
真理を発見するためには
 あらゆる主義・主張から自由でなければならない 
社会は貪欲と羨望−優越したものに対する
 あなたの羨望を根底にしている

「観念というものは、常に敵意と混乱を生み出します。ですから、もしあなたが左派や右派の思想の本や、あるいは聖典などに依存しているならば、あなたは、仏陀やキリストや、資本主義や共産主義などの単なる「見解」に依存しているのです。…今までに他の人たちが言ったことを捨てることが必要ではないでしょうか。」(p28)

「社会は「あなた」と「他の人」との、「あなた」と「私」との人間関係の働きなのです。それゆえ、この不断の内部の革命と、この創造的な心理の変換がないかぎり、その社会は静的なものになり、活気のある働きを喪失してしまうのです。社会が常に静的で固定化し、そのため繰り返し粉砕されなければならなくなるのは、この内部の革命を欠いているためなのです。…ありのままのあなた自身、あなたの思考や感情、それにあなたが日常生活でやっていることなどが、そのまま外部に投影され、それが世界になっているのです。もし、私たちの心の内部が悲惨で、混乱したり、混沌としていれば、その投影されたものがそのまま世界や社会になるのです。」(p30-31)

「この社会は貪欲と羨望−優越者に対するあなたの羨望−を根底としています。…羨望は、私たちの人間関係の中で最も破壊的な要因のひとつになっています。…「あなた」と「私」の関係には、表面的には尊敬の形を装っていますが、実際には多くの悪意が存在しているのです。…ここから、嫉妬や腹立ちや怒りが生み出され、さらにこのような感情が私たちの人間関係の中に絶えざる闘争を引き起こすのです。…信念というものは、愚かさを示しているのです。なぜならば、信念は人間関係を分離させるもので、結合させるものではないからです。」(p32-34)

「外部の行為は、ひとたび完了して片付いてしまうと、静止してしまいます。そして、もし社会を構成する個人と個人の関係が、心の内部の革命の結果として生まれなければ、その社会機構は静的なものになって個人を吸収し、その結果、個人をも同じように静的で反復的なものに変えてしまうのです。…社会は常に固定化の傾向にあり、常に個人を吸収しようとしていること、また、不断の創造的革命は、社会や外部にではなく、個人の内部にのみ起こりうるということ、これは明白な事実です。」(p35)

「一体なぜ社会は、現在はっきりみられるように、音を立てて瓦解してゆくのでしょうか。その根本的な理由の一つは、個人が、「あなた」と「私」が創造的でなくなってしまったからなのです。…つまり、「あなた」と「私」が模倣的になり、外面的にも内面的にも模倣しているということなのです。…あなたは、創造的な瞬間や、生き生きとした興味を感じるあの幸福な瞬間には、反復や模倣の感じがないことに気づいたことがないでしょうか。こういう瞬間は、常に新しく、新鮮で、創造的で、幸福なのです。このようにして私たちは、社会の分解の原因の一つはこの模倣であり、模倣は権威の崇拝にほかならないということが理解できるのです。」(p37-38)

争いや混乱であれ、その状況を「静的」と表現している…それは躍動する生と、追従できない知性とのギャップなのかもしれない…慌ただしい競争社会も、それは個人が鈍くなっていることの現れなのであり、逆に個々のパフォーマンスが上がることによって、社会はゆとりと平穏を取り戻すと…

ホッブズの自然状態を思い出すが、もっと柔軟に考えるべきだろう…ホッブズの自然状態は、思考を介した状態であり、人間の本来の姿というわけではない…知性によって病的になってしまった人間の姿なのであって、人には別の可能性、本来生きるものが持っている共生の感覚があるように思う…クリシュナムルティに言わせれば、ホッブズの自然状態は「静的」な状態だ…その状態から考えるのか、それとも別の可能性を含めて考えるのか…

今の社会を変えたいなら、政治や宗教や思想ではなく、個人の改革が必要だとクリシュナムルティは言う…こういうとそれは理想に過ぎないと言われそうだが、クリシュナムルティはそれが唯一の道だと言う…目の前のことに取り組むことは確かに必要だが、それによって何かが変わるだろうか…事態は悪化しているようにしか思えない…私たちはこの理想を無視し過ぎている…

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Jiddu

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第2章 私たちは何を求めているのか
「神」を発見する旅に出る前に、まず自分自身を理解すること

「全く当たり前のこととして、私たちは喜びを求め望んでいます。これはひどく乱暴な言い方かもしれませんが、現実に私たちが望んでいるものとは、私たちに喜びを与えてくれるような知識や経験や、明日になっても凋んでしまわないような満足なのです。私たちは満足感を与えてくれるものを今日までいろいろと実験してきました。しかしその結果、それらすべてがはかなく消えてしまったのです。そこで今度は、「真の実在」といったものに恒久的な満足を見出そうとするのです。…ところで、永続する満足とか持続するものは、果たして存在するのでしょうか。…真理というものは、あなたが考えているものと全く違うものかもしれません。真理というものは、あなたが見たり、想像したり、公式化したりできるようなものとは全く異質なものである、と私には思えるのです。…それでは、この求めている人と、求められている対象とは違ったものでしょうか。…それらは別個の過程というよりはむしろ、一つの一体化した現象ではないでしょうか。従って、求める対象を発見する前に、それを求めている人間、すなわち「私」を理解することが、とりわけ重要なことではないでしょうか。」(p21-22)

「自分自身を知るということ−この大切なことを私たち人間は無視しがちです。自分自身を知ることこそ、何かを築きあげることができる唯一の土台なのです。」(p23)

1章と違う切り口ではあるが、ほぼ同じ内容が語られている…クリシュナムルティは真理(神でも道でも自然でも生でも一切でもいい)のことは語らない…それぞれで見つけないといけないと言う…僕の考え方だと、それは言葉がとらえる「対象」となりえないものだ…従って思考は「分からない」と言うしかない…何かが「在る」というよりも、それは「一切」なのだろう…逆に私たちが思考できるもの、つまり「私」とか「国家」とか「机」とか「風」とか、それらは思考の中にしかない…

何かを信じていると言うよりは、とにかく知り得ないものがあって、それを無視するとロクなことがない…だからできるだけ逆らわないようにしたほうがいい…でも正直どうしたらいいのか分からない…永遠に手探りなのだろう…少しでも無理がなく平穏でいられるならそれでいい…

Jiddu

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

生きていることと、人社会で生きることは違う人社会とは、言葉、思考、道徳、欲望などが形作る世界のこと人社会に合わせようとすればするほど、なにか抜け殻になるように感じてしまう人社会で成果をだすことは鈍くなるリスクを孕んでいるのではないか組織に入ったり、投票したり、資格を取ったり、お金を稼いだり、営業や宣伝をしたり、便利や勝利を追求したり、熱狂したり…そんなことは望んでないし不快だしズレを感じる…ただ今を生きたい

▪️第1章 はじめに
あるがままのものを、あるがままに見よ

サブタイトルは Thich Nhat Hanh の言うマインドフルネスとリンクする態度、準備に関わる言葉だろうそれがすべてではないかとも思う

「真理は誰か他の人から与えられるものではなく、あなたが見つけ出さなくてはなりません。…私たちが自分の置かれている生活背景や偏見に従って物事を解釈したり、説明しはじめたとき、すでに私たちは真理を取り逃してしまっているのです。」(p5)

 「あなたはバガバッド・ギーターや、聖書や、政治や心理学に関する最新の論文をひもとくかもしれません。しかしそれらはいずれもかつてもっていた真実の響きや本質を、今はすでに失っていることに気づかれることでしょう。…単に他人の言ったことを繰り返してみたところで、何の意味もありません。…あなたがそれを繰り返せば、あなたはすでにあなた自身の「今の状態」を理解することをやめてしまっているのです。あなたはあなた自身の混乱を、権威ある言葉で覆い隠しているに過ぎません。」(p8)

「あるがままのものを認識し追求していくためには、きわめて鋭敏な精神と柔軟な心を必要とします。…あるがままのものは絶え間なく活動し、絶えず変化しているからです。…もし精神が、信念や知識というようなものに束縛されていたりすれば、その精神は追求をやめ、あるがままのものの素早い動きを追わなくなってしまいます。」(p6)

これらの言葉も何の意味もない…

クリシュナムルティが「精神」という言葉をどう捉えているのかまだ分からないが、僕は「精神」という言葉に特別な地位を与えるつもりはない…精神を心とか魂に類するものと考えるなら、それは「身体」の属性だと思っている…おそらく他の動物や植物にも備わるもの…思考や知性に類するものと考えるなら、それは対象化する装置だ…デカルトのような二元論ではなく、スピノザのような汎神論で考えたい…思考そのものは「自然」かもしれないが、思考が見せてくれるものまで神は面倒を見ない…

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第9章 サバイバルと祈り

いますぐなすべきこと、そして戦うべき相手は、ほかならぬ自分自身の中にある。大地の女神、ガイアが、人間からの祈りや慰労を大いに必要としていると考えるのは、傲慢というものだ。危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは、ただ文明のサバイバルなどといった次元ではなく、もっと本質的な、精神と魂の次元の話なのだ。人間は自分たちの魂を失ってしまう危険に直面しているのだ。我々は、自分自身の本性に無知で、人間であることが何を意味するのかについて混乱している。本書の大部分は、人間たちがどんな存在であったか、何をしてきたか、そして、かつて人間がもっていた、したたかな生きる知恵を思い起こさせるために書かれたものだ。アーシュラ・ル・グィンの『いつも家路に』本物の教えの本のように、本書は、人間であることとは何かについての瞑想である。氷河期から1万2千年後と、これからの1万2千年のあいだの、現在のこの時間だけが、人間に与えられたささやかな領分なのだ。このふたつの万年のあいだに、人間が、相互に、また世界とともに、いかに生きたかによって裁かれ、また自らを裁くことになるだろう。もし人間が、何かの目的をもってここにいるとしたら、それは人間を除く自然界をもてなすことだ、と私は思う。霊長類のセクシーな道化役者の一群。人間たちが、いい気分で何か音楽を演奏しようという気になれば、小さな生き物たちがみんな、耳を澄ませて近寄ってくるのだ。p323-324

現代人は、もはや狩りをする必要がなくなったが、多くの人々は肉なしではおれない。また、先進国では食料の種類が豊富に出回っており、肉を食べないことも簡単に選択できる。アメリカ市場用の肉牛を飼育する牧場をつくるため、熱帯地方の森林が伐採されている。口にする食べ物の生産される場所が遠く離れたので、表面的には気楽に食べられるが、明らかにその分だけ我々はさらに無知になってしまったものを食べることは、宗教儀式である。お祈りを唱えることにより、自分の心を清め、子供達を裁き、客を歓迎する。みんな同時だ。卵を、リンゴを、そしてシチューを見る。それは豊かさの証、過分の証、大変な再生産の証である。何百万もの植物の種子、それが米や粉に変わる。フライになった何百万ものタラは、決して成熟の時を迎えることもなく、また決して迎えない運命にあったのだ。無数の小さな種子は、食物連鎖における犠牲である。地中のパースニップの根は、いわば生きた科学の神秘であり、大地と空気と水から、砂糖分と風味を生み出す、もし肉を食べるとすれば、それは、ピンと立った耳と可愛い目をした、また頑丈な足と脈打つ大きな心臓をもつ注意深く大きな生き物の、その生命、飛び跳ね、ヒュッと飛び回る動き、それを食べているのだ。この事実をごまかすのはやめよう我々自身もまた、捧げ物になるのだろう。この身体はどこも食べ物なのだ。たとえ一気に飲み込めなくても、人間の身体は、小さな生物たちが、長い時間をかけ、ゆっくり食事をとるだけの大きさは充分にある。大洋の海底、数キロの深さに沈んだクジラの死体は、一五年にわたり、暗黒の世界の生き物たちに食料を提供するのだ。(p335-336

祈りのためには、自分の伝統の中から選んだ言葉が使える。さもなければ、自己流の言葉を作ればいい。何かの祈りを唱えるのに、不適切なことは決してなく、会話や宣言をそこに付け加えていい。こうした簡単で日常的で、昔ながらの、小さな行為こそ、我々を先祖全体に結びつけてくれるものなのだ。p337

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第8章 クマと結婚した娘

共存にはルールとマナーが必要だ
それを支えるのは、畏敬の念や無力の自覚ではないだろうか
それらが失われるとき、ルールは破られる
私たちは被害者になる前に加害者となる

私たちは国境を引いた
山も海も空も、誰かの所有となった
すべては人のものであるかのように

農薬で土壌は死に、やがて川や海を汚す
同時に腸内は必要な細菌を失う

固い道路や建物で地表は光を失い、
さらに皮肉にも太陽光パネルで光を失う

人は動物ではなく肉を食べるようになった
毎日圧倒する量を笑いながら食べている

動植物は自らの命でさえ分け合う
人は与えることなく奪おうとする
だからゴミや争いや病気が生まれる

そして今日もまた除草剤が使われる

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第7章 道を離れて道を行く

道にはふたつの意味がある
ひとつは手がかり、或いは型としての道…
もうひとつは道が解かれたあとの無為の世界

道を歩くとは、
積み上げることではなく、
無駄なものを手放すことではないだろうか
言葉や道具や私を手がかりにするしかないが、
その呪縛から解かれるとき、
本当の道の中にいる

努力を少しでもすれば、学問も、実力も、表面的な成功も得られる。先天的な能力は、訓練により育ってゆくかもしれないが、訓練だけでは、荘子のいう「逍遥」の境地には至らないだろう。自分の心に潜む自己鍛錬とか頑張りへの指向の犠牲にならぬよう気をつけなければならない。ちっぽけな能力により技術やビジネスで成功しても、それでは、もっと自由な本来の遊戯三昧能力の何たるかを、決して知りえないだろう。道元は『正法眼蔵』で言う、「自己の探究とは、自己を忘れることである」と。「自己を忘れるとき、万物と一体になる」と。ここでいう「万物」とは、現象世界の全存在のことである。心が開かれると、我々の中に万物が満ちてくるのだ。(p272

『道徳経』は、「道」の意味について、最も見事な解釈をしている。この本は、こう始まる。「跡をたどれる道は本物の道ではない」と。「道可道非常道」と。これが第1章の冒頭にある言葉である。「跡をだどれる道は、『精神的な道』ではない」のだ。ものごとの実態は、道路のような直線的なイメージだけではない。修行の目的は、その「求道者」の努力の意識が忘れられたとき、初めて完成するのだ。道は難しいものではない。邪魔するものは何もないし、全方向に開かれている。にもかかわらず、我々は、自分で自分の道の邪魔をする。だから老師は言うのだ。「精進すべし!」と。(p273

登山家が山頂を目指すのは、雄大な眺めや、仲間同士の協力や友情や困難を克服する実感を求めるからだ。しかし、主な理由は、登山が、人を、未知の出来事の起こり、驚きに出会える「その場所へ連れていってくれる」からである。(p277

人間の技術や仕事などは、ゆるやかな秩序をもつ本来の野性の世界を、ほんのわずか反映したものに過ぎない。道路から飛び出して、分水嶺にある未知の場所へ出かけてみるのが一番だ。新しさを求めてではなく、人間の本来の場所へ帰ってゆくという感覚をもつためだ。「山道を離れて」という言葉は、「大道」の別名でもある。山道からぶらりと離れることは、野性の修行である。逆説的だが、その場所こそ、我々にとって最もいい仕事場なのだ。しかしながら、人間には小道や山道が必要で、これからも守り続けてゆくことだろう。誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ。(p280

道-Tao

荘子 NHK「100分de名著」ブックス
著 玄侑宗久

*以下は本文を読んで、自分の思うこと…

第3章 自在の境地「遊」

「意味」とは、ある種の「見返り」「成果」を求めることだろう…
過去への意識…理由、原因、積み上げたこと…
未来への意識…目標を持つこと、計画、推測すること…
それらを無に近づける…
「無為」とはそういうことだろう…
すべて捨て去ろうという話ではない…
振り回されないこと、緩めること…
無償でありたい…

無為が徹底されると、他者への理解とか思いやりが欠けてしまうかもしれない…伝えたり教えたりすることに支障があるようにも思える…要は言葉に振り回されないこと…だからクリシュナムルティは弟子を持たなかったのではないか…グルジェフも煙に巻くようなことを話したのではないか…禅の公案も同じこと…

免許とか資格が嫌いだ…
ハウツー本も嫌いだ…
仏教や道教までもが「成功」に利用されている…

「遊」とは「芸」とか「技」に関わることではないだろうか…書道にしろ、サッカーにしろ、ピアノにしろ、一種の芸、技と言えるものは、身につけるための訓練を要する…しかし字が達者になれば、無駄な力を入れずに綺麗な字が書けるようになる…無駄な力と言葉は似ている…レヴィ=ストロースの言うブリコラージュに通じるものではないだろうか…

第4章

すべては等しい…それはつまり、所謂「平等」ということではなくて、すべては人が作る価値とは相入れないということではないだろうか…対象化できるものではないし、測れるものではない…「自由」も「不自由」も「平等」も「不平等」も作り物に過ぎない…「生」も「死」も「私」も「あなた」も…それらは人社会或いは人の意識の中にだけあるもの…人が発明したもの…決して人の思考や産物を軽視するわけではなくて…混乱や暴走につながりやすいから…

生があるとするなら、その逆は無だ…生とは、一切であり、自然であり、道なのだろう…私たちの生は私によって死を伴うようになる…切り取られ、写されることで個が生まれ同時に死と隣り合わせになる…死とはバーチャルであることの属性だ…個が消える時、死は去っていく…

道-Tao

荘子 NHK「100分de名著」ブックス
著 玄侑宗久

*以下は本文を読んでの自分の解釈…

第1章 人為は空しい

・「道」とは何か
スピノザの汎神論に於ける神と同じなのだろう…いわゆる自然のこと…すべてのこと…一切のこと…人工と対の概念ではない…人工も自然以外ではありえない…ただし、私たちの知的認識だけは違う…知性はバーチャルを生産する…バーチャルであることは自然だが、バーチャルが見せるものは自然ではない…錯覚ではない…作りものということ…

・渾沌王と、感覚の不完全生
感覚を信じるなということではないと思う…感覚は知性によって歪められている…しかし私たちは身体であり、感覚であり、情動なのであってそれ以外ではない…だから澄んだ身体を取り戻さないといけない…邪魔しているのは「知性」であり「私」だ…それらを緩める必要がある…

・効率を求めることは恥ずかしい/和して唱えず
知性は答えの不在という状況を作り出す…より便利に、より優位に、より刺激をという流れを作り出す…それは「逸れ」や「歪み」を意味する…恩恵と共に、ストレス、ゴミ、病気、格差、差別、争いを作り出す…大事なのは、成功、成長、獲得、勝利ではなく、手放すこと、評価しないこと…

・アピールしないことが徳である
曲を作るとき、誰かに聴かそうとすると不快な音になる…自分の心地よさに沿うとき、より馴染んでくる…

第2章 受け身こそ最強の主体性

人の行動は二重になっている…動物(身体/感覚/情動)として生きながら、知的な存在としても生きている…仮に知性を無くすと、動物に等しくなる…条件さえ揃えば可能なのかもしれない…しかし人社会で育って知性を捨てる想定には無理がある…知性を捨てることを良しとすることにも抵抗を覚えてしまう…「動物であること」はある意味理想であり、基準なのかもしれない…しかしそれは「うまくいかない」「できない」「そうなりたくない」「意味がない」という抵抗を引き寄せる…おそらく知的存在である以上、そこから抜け出せない…依存症の症例なのだろう…完治はない…可能な限り「癒す」「緩める」ことで折り合いをつけるしかないように思われる…それは「放棄しないこと」であり、それぞれの「生き方」でもある…

「流されて生きる」と「逆らわずに生きる」という言葉を使うこともできる…いずれもスピノザが言うように、自由意志が否定されている…詳述すると「知性に流されて(自然に逆らって)生きる」と「自然に逆らわずに生きる」になる…「私」「知性」に主導権を握られる(奴隷になる)のか、それらを捨てる(和らげる/緩める)ことで自由に(楽に)なるのか…

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第6章 極西の原生林

「年齢を問わず、管理せず」それが自然な共同体であって、人間にも他のものにも通ずる。産業社会が好むのは、より若いか、中年の樹木で、対称の形を持ち、枝の長さや角度までもが同じのものだ。しかし、老木の存在もまた大切である、もはや社会の慣習にとらわれず、ジェスチャーたっぷりに、ダンスのようなポーズをとって枝々を広げ、やがてやってくる死にも無頓着な様子で、世界や天候が、どんな難題を押し付けようとも、いつでも対応できる柔軟性を持ち続けているのだ。私は、敬意を持ってこうした老木を見上げる。彼らは、中国の名声不朽 の人々にそっくりだ。寒山、拾得みたいな人物で、それだけ長く生きたからには、奇人であることも許される。林間の詩人であり、画家であり、笑いこけ、ごろごろの服をまとい、恐れ知らずの存在なのだ。老木を見ていると、私は、老年を待ち侘びるような気になる。(p253-254)

世界中の自然な共同体はすべて、それぞれ独自な形で「古代的」であり、どの共同体にも、家族のように、幼児、青少年、成人、老人が含まれている。先ごろ山火事にあい、その跡に雑草やブラックベリーが生えてきた森林の一隅から、うす暗い湿った老木の木立までこれが森林の全体像である。神々しいまでの古木群は、その共同体の祖父母であり、情報の所有者である。共同体が維持されるには、どうしても長老が必要なのだ。幼稚園児の集団の中に文化は育たない。同様に、もし森林に、種子の保存や、根のバクテリアの菌糸や、鳥の鳴き声や、それ自身の潜在的可能性に目覚めることはできないのだ。クリス・メイザーは言う。「原生林を生き残らせるためには原生林が必要だ」と。初期の中西部の農民たちが使う鋤板が「草の根を切ったときその音はジッパーを開いたり閉めたりする音を思わせる新しい形態が始まった。それは同時に、三〇〇〇万年前からつながる生態系の長い一線をプツリと、たぶん永遠に、切り離してしまうことでもあった」。しかし、この地球上の最古の生態系は熱帯雨林に残っていて、東南アジアでは、一億年前から続くものと推定されている。(p255-256

ウィルダネスに対する第3世界の政策は、一九三八年にインドによって決められた方向に向かうことが、あまりにも多い。その年、インド政府は、「先住民族だけでは、適切な期間内に、その地方の強大な不毛地域の資源を開発するのは無理で移住入植者の力が必要だ」と言って、アッサムの部族の森林地帯を外部からの移住者に解放した。また、世界中の政府や大学の権力を握る人々の中に、自然界に対する偏見、それに、過去に対して、偏見を抱いている人々があまりに多過ぎるように見える。商工会議所流の特殊創造説からすれば、ショッピング・センターは神からの授かりもので、しごく満足だろう。アメリカ人たちは、そんな生き方に従おうとしているかのようだ。我々の先祖がもっていた高潔さも気質も、「真に」生きるとは何かをよく知らない人々が口にする「そんな生活なんかできっこない」という一言で、片づけられてしまうのだ。原生林は、腐りかけたゴミクズみたいで、こうるさい老人に似てなくもないと思われている。(p259

生産的であってはならないのだと思う
私たちはいつも「為そう」とする
それは歪みを生む
何もしないということではなくて、川の流れに従うべきだということ
ただ、私たちは生き方を忘れてしまった
復元できない森のように

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自然の哲学

自然の哲学(じねんのてつがく)(2021)
著 高野 雅夫

特に最後の9章は「その通り!」と唸ってしまうほど共感できる内容だった…本書の内容に殆ど触れず、自分の考えばかり書き連ねてしまったが、そもそも人の書いたものをただ受け入れるのが読書ではないはずだ…自分の中で咀嚼して自分の考えの中で再構築して言葉にすることが大事だと思う、と、言い訳してみた…
正直言うと、林業とか農業に食いついたのだけど、後半は自分が普段考えることと似通っていて、それはそれで良かったのだけど、もう少し林業/農業に触れて欲しかった、と、偉ぶってみた…

▪️第9章 自然の哲学(じねんのてつがく)

「日本国」では、目標を達成して成果を出し結果を残すのが大事と言われる。自分が望み努力するならば何でも実現できる、ということが前提とされ、自分がやりたいことを一生懸命やれば道は開けるという。結果を出せたとしたら、それは自分の力であるし、出せなければ自分に力がなかった、努力が足りなかった、ということになる。「できないのはやらないからだ」という理屈だ。それを裏返せば、困ったことが起きてもそれは自己責任ということになる。「日本国」では「何でもできる(はずの)自分」という物語が共有されている。自分が肥大化しているのだ。(p219)

ホリエモンさんとかは、そっちの人だよな、とつくづく思う…私たちは、知性によって人工(自然の域を出ないが、野性と対置するもの)の新しいバランスに入り込む…知性は虚構の中で、成功、獲得、勝利に正解を見出す…その流れを補強するものとして教育や道徳が生起する…しかし私たちの身体はそのバランスの中で生きるよう設計されてはいない…そんな社会で病む人は多いのではないか…病む方が悪いとか異常という扱いまで受けながら…「生きにくさ」こそ正常なのだと言いたい…人社会の恩恵あるいは水準は、貧困や差別やゴミや争いや病気やストレスを吐き出すことで維持されている…新しいバランスは、癌細胞の振る舞いに似ている…

「日本国」流のやり方から転換するためには、よほどトレーニングが必要だと思った。それで毎日の暮らしの中で自己訓練することにした。通勤する電車に乗っている時間は、それまではムダで退屈な時間だった。目的地に到着することだけが大事だった。そこで、電車に乗っていまを「生き切る」とはどういうことだろうかと考えた。まず自分が感じる感覚に集中してみると、窓の外の景色、車内の人々の表情、さらには加速したり減速したりする感覚など、実にたくさんのことがその場で起きていた。それらに一つひとつ集中してみると、そのおもしろさ、不思議さを感じることができた。じっとその場の時間の流れに全身を浸すような感じでいることを心がけると、その場に自分がしっくりくるような感覚が生まれる。以来、私はどんな場面でもそういうトレーニングを続けるよう努力している。(p225-226)

トレイルランニングが自分にとっての実践の場になっている…なかなか普段の生活では難しい…練習にしろ大会にしろ一人で行く…仲間も作らない…そこには日常を連れて行かないことにしている…

▪️第7章、第8章
▪️第5章、第6章
▪️打3章、第4章
▪️第1章、第2章