Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第9章 サバイバルと祈り

いますぐなすべきこと、そして戦うべき相手は、ほかならぬ自分自身の中にある。大地の女神、ガイアが、人間からの祈りや慰労を大いに必要としていると考えるのは、傲慢というものだ。危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは、ただ文明のサバイバルなどといった次元ではなく、もっと本質的な、精神と魂の次元の話なのだ。人間は自分たちの魂を失ってしまう危険に直面しているのだ。我々は、自分自身の本性に無知で、人間であることが何を意味するのかについて混乱している。本書の大部分は、人間たちがどんな存在であったか、何をしてきたか、そして、かつて人間がもっていた、したたかな生きる知恵を思い起こさせるために書かれたものだ。アーシュラ・ル・グィンの『いつも家路に』本物の教えの本のように、本書は、人間であることとは何かについての瞑想である。氷河期から1万2千年後と、これからの1万2千年のあいだの、現在のこの時間だけが、人間に与えられたささやかな領分なのだ。このふたつの万年のあいだに、人間が、相互に、また世界とともに、いかに生きたかによって裁かれ、また自らを裁くことになるだろう。もし人間が、何かの目的をもってここにいるとしたら、それは人間を除く自然界をもてなすことだ、と私は思う。霊長類のセクシーな道化役者の一群。人間たちが、いい気分で何か音楽を演奏しようという気になれば、小さな生き物たちがみんな、耳を澄ませて近寄ってくるのだ。p323-324

現代人は、もはや狩りをする必要がなくなったが、多くの人々は肉なしではおれない。また、先進国では食料の種類が豊富に出回っており、肉を食べないことも簡単に選択できる。アメリカ市場用の肉牛を飼育する牧場をつくるため、熱帯地方の森林が伐採されている。口にする食べ物の生産される場所が遠く離れたので、表面的には気楽に食べられるが、明らかにその分だけ我々はさらに無知になってしまったものを食べることは、宗教儀式である。お祈りを唱えることにより、自分の心を清め、子供達を裁き、客を歓迎する。みんな同時だ。卵を、リンゴを、そしてシチューを見る。それは豊かさの証、過分の証、大変な再生産の証である。何百万もの植物の種子、それが米や粉に変わる。フライになった何百万ものタラは、決して成熟の時を迎えることもなく、また決して迎えない運命にあったのだ。無数の小さな種子は、食物連鎖における犠牲である。地中のパースニップの根は、いわば生きた科学の神秘であり、大地と空気と水から、砂糖分と風味を生み出す、もし肉を食べるとすれば、それは、ピンと立った耳と可愛い目をした、また頑丈な足と脈打つ大きな心臓をもつ注意深く大きな生き物の、その生命、飛び跳ね、ヒュッと飛び回る動き、それを食べているのだ。この事実をごまかすのはやめよう我々自身もまた、捧げ物になるのだろう。この身体はどこも食べ物なのだ。たとえ一気に飲み込めなくても、人間の身体は、小さな生物たちが、長い時間をかけ、ゆっくり食事をとるだけの大きさは充分にある。大洋の海底、数キロの深さに沈んだクジラの死体は、一五年にわたり、暗黒の世界の生き物たちに食料を提供するのだ。(p335-336

祈りのためには、自分の伝統の中から選んだ言葉が使える。さもなければ、自己流の言葉を作ればいい。何かの祈りを唱えるのに、不適切なことは決してなく、会話や宣言をそこに付け加えていい。こうした簡単で日常的で、昔ながらの、小さな行為こそ、我々を先祖全体に結びつけてくれるものなのだ。p337

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The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第8章 クマと結婚した娘

共存にはルールとマナーが必要だ
それを支えるのは、畏敬の念や無力の自覚ではないだろうか
それらが失われるとき、ルールは破られる
私たちは被害者になる前に加害者となる

私たちは国境を引いた
山も海も空も、誰かの所有となった
すべては人のものであるかのように

農薬で土壌は死に、やがて川や海を汚す
同時に腸内は必要な細菌を失う

固い道路や建物で地表は光を失い、
さらに皮肉にも太陽光パネルで光を失う

人は動物ではなく肉を食べるようになった
毎日圧倒する量を笑いながら食べている

動植物は自らの命でさえ分け合う
人は与えることなく奪おうとする
だからゴミや争いや病気が生まれる

そして今日もまた除草剤が使われる

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The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第7章 道を離れて道を行く

道にはふたつの意味がある
ひとつは手がかり、或いは型としての道…
もうひとつは道が解かれたあとの無為の世界

道を歩くとは、
積み上げることではなく、
無駄なものを手放すことではないだろうか
言葉や道具や私を手がかりにするしかないが、
その呪縛から解かれるとき、
本当の道の中にいる

努力を少しでもすれば、学問も、実力も、表面的な成功も得られる。先天的な能力は、訓練により育ってゆくかもしれないが、訓練だけでは、荘子のいう「逍遥」の境地には至らないだろう。自分の心に潜む自己鍛錬とか頑張りへの指向の犠牲にならぬよう気をつけなければならない。ちっぽけな能力により技術やビジネスで成功しても、それでは、もっと自由な本来の遊戯三昧能力の何たるかを、決して知りえないだろう。道元は『正法眼蔵』で言う、「自己の探究とは、自己を忘れることである」と。「自己を忘れるとき、万物と一体になる」と。ここでいう「万物」とは、現象世界の全存在のことである。心が開かれると、我々の中に万物が満ちてくるのだ。(p272

『道徳経』は、「道」の意味について、最も見事な解釈をしている。この本は、こう始まる。「跡をたどれる道は本物の道ではない」と。「道可道非常道」と。これが第1章の冒頭にある言葉である。「跡をだどれる道は、『精神的な道』ではない」のだ。ものごとの実態は、道路のような直線的なイメージだけではない。修行の目的は、その「求道者」の努力の意識が忘れられたとき、初めて完成するのだ。道は難しいものではない。邪魔するものは何もないし、全方向に開かれている。にもかかわらず、我々は、自分で自分の道の邪魔をする。だから老師は言うのだ。「精進すべし!」と。(p273

登山家が山頂を目指すのは、雄大な眺めや、仲間同士の協力や友情や困難を克服する実感を求めるからだ。しかし、主な理由は、登山が、人を、未知の出来事の起こり、驚きに出会える「その場所へ連れていってくれる」からである。(p277

人間の技術や仕事などは、ゆるやかな秩序をもつ本来の野性の世界を、ほんのわずか反映したものに過ぎない。道路から飛び出して、分水嶺にある未知の場所へ出かけてみるのが一番だ。新しさを求めてではなく、人間の本来の場所へ帰ってゆくという感覚をもつためだ。「山道を離れて」という言葉は、「大道」の別名でもある。山道からぶらりと離れることは、野性の修行である。逆説的だが、その場所こそ、我々にとって最もいい仕事場なのだ。しかしながら、人間には小道や山道が必要で、これからも守り続けてゆくことだろう。誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ。(p280

道-Tao

荘子 NHK「100分de名著」ブックス
著 玄侑宗久

*以下は本文を読んで、自分の思うこと…

第3章 自在の境地「遊」

「意味」とは、ある種の「見返り」「成果」を求めることだろう…
過去への意識…理由、原因、積み上げたこと…
未来への意識…目標を持つこと、計画、推測すること…
それらを無に近づける…
「無為」とはそういうことだろう…
すべて捨て去ろうという話ではない…
振り回されないこと、緩めること…
無償でありたい…

無為が徹底されると、他者への理解とか思いやりが欠けてしまうかもしれない…伝えたり教えたりすることに支障があるようにも思える…要は言葉に振り回されないこと…だからクリシュナムルティは弟子を持たなかったのではないか…グルジェフも煙に巻くようなことを話したのではないか…禅の公案も同じこと…

免許とか資格が嫌いだ…
ハウツー本も嫌いだ…
仏教や道教までもが「成功」に利用されている…

「遊」とは「芸」とか「技」に関わることではないだろうか…書道にしろ、サッカーにしろ、ピアノにしろ、一種の芸、技と言えるものは、身につけるための訓練を要する…しかし字が達者になれば、無駄な力を入れずに綺麗な字が書けるようになる…無駄な力と言葉は似ている…レヴィ=ストロースの言うブリコラージュに通じるものではないだろうか…

第4章

すべては等しい…それはつまり、所謂「平等」ということではなくて、すべては人が作る価値とは相入れないということではないだろうか…対象化できるものではないし、測れるものではない…「自由」も「不自由」も「平等」も「不平等」も作り物に過ぎない…「生」も「死」も「私」も「あなた」も…それらは人社会或いは人の意識の中にだけあるもの…人が発明したもの…決して人の思考や産物を軽視するわけではなくて…混乱や暴走につながりやすいから…

生があるとするなら、その逆は無だ…生とは、一切であり、自然であり、道なのだろう…私たちの生は私によって死を伴うようになる…切り取られ、写されることで個が生まれ同時に死と隣り合わせになる…死とはバーチャルであることの属性だ…個が消える時、死は去っていく…

道-Tao

荘子 NHK「100分de名著」ブックス
著 玄侑宗久

*以下は本文を読んでの自分の解釈…

第1章 人為は空しい

・「道」とは何か
スピノザの汎神論に於ける神と同じなのだろう…いわゆる自然のこと…すべてのこと…一切のこと…人工と対の概念ではない…人工も自然以外ではありえない…ただし、私たちの知的認識だけは違う…知性はバーチャルを生産する…バーチャルであることは自然だが、バーチャルが見せるものは自然ではない…錯覚ではない…作りものということ…

・渾沌王と、感覚の不完全生
感覚を信じるなということではないと思う…感覚は知性によって歪められている…しかし私たちは身体であり、感覚であり、情動なのであってそれ以外ではない…だから澄んだ身体を取り戻さないといけない…邪魔しているのは「知性」であり「私」だ…それらを緩める必要がある…

・効率を求めることは恥ずかしい/和して唱えず
知性は答えの不在という状況を作り出す…より便利に、より優位に、より刺激をという流れを作り出す…それは「逸れ」や「歪み」を意味する…恩恵と共に、ストレス、ゴミ、病気、格差、差別、争いを作り出す…大事なのは、成功、成長、獲得、勝利ではなく、手放すこと、評価しないこと…

・アピールしないことが徳である
曲を作るとき、誰かに聴かそうとすると不快な音になる…自分の心地よさに沿うとき、より馴染んでくる…

第2章 受け身こそ最強の主体性

人の行動は二重になっている…動物(身体/感覚/情動)として生きながら、知的な存在としても生きている…仮に知性を無くすと、動物に等しくなる…条件さえ揃えば可能なのかもしれない…しかし人社会で育って知性を捨てる想定には無理がある…知性を捨てることを良しとすることにも抵抗を覚えてしまう…「動物であること」はある意味理想であり、基準なのかもしれない…しかしそれは「うまくいかない」「できない」「そうなりたくない」「意味がない」という抵抗を引き寄せる…おそらく知的存在である以上、そこから抜け出せない…依存症の症例なのだろう…完治はない…可能な限り「癒す」「緩める」ことで折り合いをつけるしかないように思われる…それは「放棄しないこと」であり、それぞれの「生き方」でもある…

「流されて生きる」と「逆らわずに生きる」という言葉を使うこともできる…いずれもスピノザが言うように、自由意志が否定されている…詳述すると「知性に流されて(自然に逆らって)生きる」と「自然に逆らわずに生きる」になる…「私」「知性」に主導権を握られる(奴隷になる)のか、それらを捨てる(和らげる/緩める)ことで自由に(楽に)なるのか…

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GARY SNYDER

▪️第6章 極西の原生林

「年齢を問わず、管理せず」それが自然な共同体であって、人間にも他のものにも通ずる。産業社会が好むのは、より若いか、中年の樹木で、対称の形を持ち、枝の長さや角度までもが同じのものだ。しかし、老木の存在もまた大切である、もはや社会の慣習にとらわれず、ジェスチャーたっぷりに、ダンスのようなポーズをとって枝々を広げ、やがてやってくる死にも無頓着な様子で、世界や天候が、どんな難題を押し付けようとも、いつでも対応できる柔軟性を持ち続けているのだ。私は、敬意を持ってこうした老木を見上げる。彼らは、中国の名声不朽 の人々にそっくりだ。寒山、拾得みたいな人物で、それだけ長く生きたからには、奇人であることも許される。林間の詩人であり、画家であり、笑いこけ、ごろごろの服をまとい、恐れ知らずの存在なのだ。老木を見ていると、私は、老年を待ち侘びるような気になる。(p253-254)

世界中の自然な共同体はすべて、それぞれ独自な形で「古代的」であり、どの共同体にも、家族のように、幼児、青少年、成人、老人が含まれている。先ごろ山火事にあい、その跡に雑草やブラックベリーが生えてきた森林の一隅から、うす暗い湿った老木の木立までこれが森林の全体像である。神々しいまでの古木群は、その共同体の祖父母であり、情報の所有者である。共同体が維持されるには、どうしても長老が必要なのだ。幼稚園児の集団の中に文化は育たない。同様に、もし森林に、種子の保存や、根のバクテリアの菌糸や、鳥の鳴き声や、それ自身の潜在的可能性に目覚めることはできないのだ。クリス・メイザーは言う。「原生林を生き残らせるためには原生林が必要だ」と。初期の中西部の農民たちが使う鋤板が「草の根を切ったときその音はジッパーを開いたり閉めたりする音を思わせる新しい形態が始まった。それは同時に、三〇〇〇万年前からつながる生態系の長い一線をプツリと、たぶん永遠に、切り離してしまうことでもあった」。しかし、この地球上の最古の生態系は熱帯雨林に残っていて、東南アジアでは、一億年前から続くものと推定されている。(p255-256

ウィルダネスに対する第3世界の政策は、一九三八年にインドによって決められた方向に向かうことが、あまりにも多い。その年、インド政府は、「先住民族だけでは、適切な期間内に、その地方の強大な不毛地域の資源を開発するのは無理で移住入植者の力が必要だ」と言って、アッサムの部族の森林地帯を外部からの移住者に解放した。また、世界中の政府や大学の権力を握る人々の中に、自然界に対する偏見、それに、過去に対して、偏見を抱いている人々があまりに多過ぎるように見える。商工会議所流の特殊創造説からすれば、ショッピング・センターは神からの授かりもので、しごく満足だろう。アメリカ人たちは、そんな生き方に従おうとしているかのようだ。我々の先祖がもっていた高潔さも気質も、「真に」生きるとは何かをよく知らない人々が口にする「そんな生活なんかできっこない」という一言で、片づけられてしまうのだ。原生林は、腐りかけたゴミクズみたいで、こうるさい老人に似てなくもないと思われている。(p259

生産的であってはならないのだと思う
私たちはいつも「為そう」とする
それは歪みを生む
何もしないということではなくて、川の流れに従うべきだということ
ただ、私たちは生き方を忘れてしまった
復元できない森のように

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自然の哲学

自然の哲学(じねんのてつがく)(2021)
著 高野 雅夫

特に最後の9章は「その通り!」と唸ってしまうほど共感できる内容だった…本書の内容に殆ど触れず、自分の考えばかり書き連ねてしまったが、そもそも人の書いたものをただ受け入れるのが読書ではないはずだ…自分の中で咀嚼して自分の考えの中で再構築して言葉にすることが大事だと思う、と、言い訳してみた…
正直言うと、林業とか農業に食いついたのだけど、後半は自分が普段考えることと似通っていて、それはそれで良かったのだけど、もう少し林業/農業に触れて欲しかった、と、偉ぶってみた…

▪️第9章 自然の哲学(じねんのてつがく)

「日本国」では、目標を達成して成果を出し結果を残すのが大事と言われる。自分が望み努力するならば何でも実現できる、ということが前提とされ、自分がやりたいことを一生懸命やれば道は開けるという。結果を出せたとしたら、それは自分の力であるし、出せなければ自分に力がなかった、努力が足りなかった、ということになる。「できないのはやらないからだ」という理屈だ。それを裏返せば、困ったことが起きてもそれは自己責任ということになる。「日本国」では「何でもできる(はずの)自分」という物語が共有されている。自分が肥大化しているのだ。(p219)

ホリエモンさんとかは、そっちの人だよな、とつくづく思う…私たちは、知性によって人工(自然の域を出ないが、野性と対置するもの)の新しいバランスに入り込む…知性は虚構の中で、成功、獲得、勝利に正解を見出す…その流れを補強するものとして教育や道徳が生起する…しかし私たちの身体はそのバランスの中で生きるよう設計されてはいない…そんな社会で病む人は多いのではないか…病む方が悪いとか異常という扱いまで受けながら…「生きにくさ」こそ正常なのだと言いたい…人社会の恩恵あるいは水準は、貧困や差別やゴミや争いや病気やストレスを吐き出すことで維持されている…新しいバランスは、癌細胞の振る舞いに似ている…

「日本国」流のやり方から転換するためには、よほどトレーニングが必要だと思った。それで毎日の暮らしの中で自己訓練することにした。通勤する電車に乗っている時間は、それまではムダで退屈な時間だった。目的地に到着することだけが大事だった。そこで、電車に乗っていまを「生き切る」とはどういうことだろうかと考えた。まず自分が感じる感覚に集中してみると、窓の外の景色、車内の人々の表情、さらには加速したり減速したりする感覚など、実にたくさんのことがその場で起きていた。それらに一つひとつ集中してみると、そのおもしろさ、不思議さを感じることができた。じっとその場の時間の流れに全身を浸すような感じでいることを心がけると、その場に自分がしっくりくるような感覚が生まれる。以来、私はどんな場面でもそういうトレーニングを続けるよう努力している。(p225-226)

トレイルランニングが自分にとっての実践の場になっている…なかなか普段の生活では難しい…練習にしろ大会にしろ一人で行く…仲間も作らない…そこには日常を連れて行かないことにしている…

▪️第7章、第8章
▪️第5章、第6章
▪️打3章、第4章
▪️第1章、第2章

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第7章 第2次移住ブームがやってきた
▪️第8章 弱さの物語

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

スナイダーの「場所に生きる」を自分なりに翻訳すると「身体で生きる」になる…身体とは、肉体だけではなく、精神や心や魂みたいなものも含まれる…さらに感覚や空気や食べ物や細菌などでつながった周りの環境まで広がりも持つ…身体でないものとはバーチャルなもの、つまり知性が作り出すもののこと…決して知性を否定するわけではないが、身体を中心に据えようということ…移動は自分の足を使うとか、実際に見て嗅いで触ることのできる情報を大事にするとか…等身大ということ…

知性は常に無理を強いる…ガザの悲劇に対して、私たちは本当に悲しむことができるのだろうか…もしできるのなら、世の中の暴力はもっと減るだろう…巨大な肉食産業も消えるかもしれない…私たちの感覚は残念ながら届かない…私たちは、知性によって、等身大ではない歪んだ状態にさらされている…いつも大袈裟で都合がいい…

私たちは場所を放棄してしまった…世界はお金と情報で繋がっている…カカオだけ作っておけば豊かになるはずだった…しかし現実は違った…グローバル化という超分業化は、依存体質を作り出し、椅子取りゲームを強いている…都会も田舎も先進国も途上国も変わらない…私たちは大きな社会の中で別々の方向を向いて生きている…

田舎より都会の方が隠れることができるのだろう…さらに都会よりネットの方が隠れることができる…都会やネットは、よりプライベートな領域が増すのだろう…好きな服を着て、自由に発言する…しかし私たちはそもそもバーチャルな世界に住んでいる…実は何も変わらない…VRや仮想通貨こそ本質に迫っている…人社会で生きるとは、虚構に住むということ…リアルとは何だろう…それはお金が増えたりYouTubeの登録者数が増えることではない…場所に生きれているだろうか、身体で生きれているだろうか…

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第5章 「お金」の物語から自由になる
▪️第6章 解けなくなった人生方程式

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

率直に話せば、SDG’sは茶番と言いたい…「疎外」にしても、それは人が作るあらゆる組織や繋がりが内包するものであり、特別なものではないと思う…また、地球上の人と家畜の個体数は異常なのであって、決してスルーできることではない…

知性は切り取ることができないものを切り取る…つまり勘違いを作り出す…いつも切り取られた恩恵に正解を見て、避けられない犠牲を視界から葬りさる…貧困や戦争や環境破壊やストレスに目を向けたとしても同じことを繰り返す…それが知性だ…知性とはバーチャルな世界を作る装置…国家も会社もお金も虚構…そして「私」や「あなた」や「神」も虚構なのだろう…神や自然への信仰が薄れ、無意識に知性信仰へと移行していった…抑制を失い、競争社会への拍車がかかった…ただそれは遥か昔から準備されていたものだ…野生には、エネルギーも、食べ物も、自由も、平等も、善悪もない…私たちはバーチャルな世界で富や得や力を作り出し振り回されているにすぎない…自然環境や動植物が蚊帳の外になるのは自明のこと…ヒト中心世界で、それらは利用するものでしかない…教育の最大の問題点は昔も今も国内も海外も変わらない…それは私たちが何者なのかを教えないこと…人社会での生き方を教えながら、自分で考えないよう訓練していること…誰も私たちが「チッソ」だとは教えない…

オフグリッドは「里山」の理念と呼応するものがある…スナイダーの「場所に生きる」ことにも通じるのではないだろうか…人は答えを失くした動物…辿り着けないことは分かっている…要はどこを向いているかだ…どこに答えを求めるのか…人社会に求めるのか、自然に求めるのか…

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第3章 森と農の物語
▪️第4章 水俣と福島から「生国」を学ぶ

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

人気のない登山道を走ったとき、野生の鹿に遭遇した…視界に入った時はすでにお尻を向けて走り去るところだった…慌てている感じはなく、珍しい来客を誘導するかのような優雅な動きだった…森は美しさと不気味さを備えた空間だ…特に鹿などと遭遇すると神聖な気持ちになる…その一方で自分が生き方を忘れた余所者のようにも感じる…公園の遊歩道を走っていてヘビに遭うこともある…お互いビックリして逃げるのだけど、そもそも蛇の生活エリアに勝手に公園を作ってるわけで、なんとなく申し訳ない気持ちになる…シロアリが家を食べたり、ゴキブリが台所に出たり、スズメバチが軒に巣を作ったり、虫が畑の作物を食べたり、クマが民家に下りてきたり…彼らは自然の中でただ役割を果たそうとしている…雑草とか害虫とか、それは本当に相応しい言葉なのだろうか…

マドンナさんは欧州人の過去の成果を称えているようなのだけど、コロンブスがインディアンに対して行ったこととか、インディアンの祖先が北米大陸に到達してからサーベルタイガーやマンモスがいなくなったこととか、そこはスルーなのかな? https://www.jiji.com/jc/article?k=2025022200247&g=int

以下に著者が引用している緒方正人さんの言葉を三つ転載させてもらう…緒方さんは水俣病の認定申請をしていたが、31歳のとき申請を取り下げ、補償運動から身を引いている…

「和解」とか「補償」なんて、所詮人間の世の中だけに通用する浅知恵にすぎない。死んでしまった魚や鳥や猫はどげんするのか。金で済ませるわけにはいかんでしょ。消えてしまった藻場は、原生林はどうするのか。圧力をかけて「和解」を押し付けるわけにもいかんでしょうが。キリキリと舞って死んでいった魚の無念というものをどぎゃんすっとか。(p103-104)

俺は権力を許してしまったんじゃないんですよ。捨てちゃったんです。俺は、国家なんて、追いかける値打ちもないのだと思う。国家は所詮、責任は取れないし、また、とろうとしない。制度的な答えはいずれ出すでしょう。でも、俺たちが本当に求めているのは、痛みの共有です。求めている方にはいろんな気持ちが詰まっているけれど、応えるべき方はシステムとしてしか答えない。(p104)

この辺では「そいもこいも、あんた、ぬさりたい」という言い方をします。「ぬさり」、あるいは「のさり」は熊本の方言で、授かりものという意味です。それもこれも縁として、授かりものとして引き受けて生きていかねば…という思いがそこに込められている。「ごたがい」やねといえば、お互い様じゃないか、ということ。…動物や植物とも「ごたがい」の間柄です。「ごたがい」には、海も山も何もかも含まれとっとですよ。「ぬさり」とか「ごたがい」という言葉には、いのちというものが我々人間の領分を越えたところで展開しているということに対する畏敬の念が、またそれを前にして謙虚にひれ伏し、祈る心が込められている。(p105)

緒方さんは「チッソは私であった」と語っている…
文明は、国家は、知性は、私たちが何者なのか語りたがらない…