荘子 NHK「100分de名著」ブックス
著 玄侑宗久
*以下は本文を読んでの自分の解釈…
第1章 人為は空しい
・「道」とは何か
スピノザの汎神論に於ける神と同じなのだろう…いわゆる自然のこと…すべてのこと…一切のこと…人工と対の概念ではない…人工も自然以外ではありえない…ただし、私たちの知的認識だけは違う…知性はバーチャルを生産する…バーチャルであることは自然だが、バーチャルが見せるものは自然ではない…錯覚ではない…作りものということ…
・渾沌王と、感覚の不完全生
感覚を信じるなということではないと思う…感覚は知性によって歪められている…しかし私たちは身体であり、感覚であり、情動なのであってそれ以外ではない…だから澄んだ身体を取り戻さないといけない…邪魔しているのは「知性」であり「私」だ…それらを緩める必要がある…
・効率を求めることは恥ずかしい/和して唱えず
知性は答えの不在という状況を作り出す…より便利に、より優位に、より刺激をという流れを作り出す…それは「逸れ」や「歪み」を意味する…恩恵と共に、ストレス、ゴミ、病気、格差、差別、争いを作り出す…大事なのは、成功、成長、獲得、勝利ではなく、手放すこと、評価しないこと…
・アピールしないことが徳である
曲を作るとき、誰かに聴かそうとすると不快な音になる…自分の心地よさに沿うとき、より馴染んでくる…
第2章 受け身こそ最強の主体性
人の行動は二重になっている…動物(身体/感覚/情動)として生きながら、知的な存在としても生きている…仮に知性を無くすと、動物に等しくなる…条件さえ揃えば可能なのかもしれない…しかし人社会で育って知性を捨てる想定には無理がある…知性を捨てることを良しとすることにも抵抗を覚えてしまう…「動物であること」はある意味理想であり、基準なのかもしれない…しかしそれは「うまくいかない」「できない」「そうなりたくない」「意味がない」という抵抗を引き寄せる…おそらく知的存在である以上、そこから抜け出せない…依存症の症例なのだろう…完治はない…可能な限り「癒す」「緩める」ことで折り合いをつけるしかないように思われる…それは「放棄しないこと」であり、それぞれの「生き方」でもある…
「流されて生きる」と「逆らわずに生きる」という言葉を使うこともできる…いずれもスピノザが言うように、自由意志が否定されている…詳述すると「知性に流されて(自然に逆らって)生きる」と「自然に逆らわずに生きる」になる…「私」「知性」に主導権を握られる(奴隷になる)のか、それらを捨てる(和らげる/緩める)ことで自由に(楽に)なるのか…