里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第7章 第2次移住ブームがやってきた
▪️第8章 弱さの物語

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

スナイダーの「場所に生きる」を自分なりに翻訳すると「身体で生きる」になる…身体とは、肉体だけではなく、精神や心や魂みたいなものも含まれる…さらに感覚や空気や食べ物や細菌などでつながった周りの環境まで広がりも持つ…身体でないものとはバーチャルなもの、つまり知性が作り出すもののこと…決して知性を否定するわけではないが、身体を中心に据えようということ…移動は自分の足を使うとか、実際に見て嗅いで触ることのできる情報を大事にするとか…等身大ということ…

知性は常に無理を強いる…ガザの悲劇に対して、私たちは本当に悲しむことができるのだろうか…もしできるのなら、世の中の暴力はもっと減るだろう…巨大な肉食産業も消えるかもしれない…私たちの感覚は残念ながら届かない…私たちは、知性によって、等身大ではない歪んだ状態にさらされている…いつも大袈裟で都合がいい…

私たちは場所を放棄してしまった…世界はお金と情報で繋がっている…カカオだけ作っておけば豊かになるはずだった…しかし現実は違った…グローバル化という超分業化は、依存体質を作り出し、椅子取りゲームを強いている…都会も田舎も先進国も途上国も変わらない…私たちは大きな社会の中で別々の方向を向いて生きている…

田舎より都会の方が隠れることができるのだろう…さらに都会よりネットの方が隠れることができる…都会やネットは、よりプライベートな領域が増すのだろう…好きな服を着て、自由に発言する…しかし私たちはそもそもバーチャルな世界に住んでいる…実は何も変わらない…VRや仮想通貨こそ本質に迫っている…人社会で生きるとは、虚構に住むということ…リアルとは何だろう…それはお金が増えたりYouTubeの登録者数が増えることではない…場所に生きれているだろうか、身体で生きれているだろうか…

勘違い

動物は死を恐れてはいない…
彼らの攻撃、抵抗、逃避…
そのすべては生を体現している…

人は死を恐れる…
死を遠ざけようとする…
私たちは勘違いの中に生きている…

勘違いとは死を伴うこと…
私たちの生は死を伴っている…
私が消えるとき、死は去っていく…

死とは答えの不在であり、暇や退屈のこと…
目が霞み、もっと見ようとすること…
音が遠のき、もっと聞こうとすること…

私たちは「差」を発見する…
「富」「権力」「得」「快楽」に導かれる…
川の流れを変えようとする…

書き換えているわけではない…
正解とは作中の同語反復に過ぎず、
答えとは分かりえないもの…

私たちは利用し合う…
動物として助け合いながら、
人として利用し合う…

正常とは何か

地球が丸いこととか、
国家やお金の存在とか、
私たちの感覚はそれらを察知できない…

逆に知性は見ることができない…
知性は動物としての身体に何を施しているのか…

感覚を超えている…
等身大ではない…

健康とは身体の自然な状態ではない…
文明という薬への依存によるもの…
効かなくなったら別の薬を探し求める…
薬を手放すことはない…
そうやって維持するもの…
健康は幸せの指針にもなっている…

ADHDとか、SADとか、
まるで民家に降りてきた熊や猪のようだ…
動揺している、慌てている、隠れようとする…
病気ではなく、身体の自然な反応ではないだろうか…

ペットや家畜は文明依存した存在なのだろう…
しかし彼らは知性がない分、野性の中にいる…
依存すら野性の反応だ…
野性の閾を超えずに適応、順応している…
そういう部分はもちろん人にもあるのだけど…

人の身体は知性を契機に、歪み、変異し、
やがて欲望の形態を伴うようになる…
動物としての身体が別の様相を帯びる…
違うバランスへ移行しようとする…
健康という薬漬け状態に移行しようとする…

いわゆる環境(身体)破壊…

地球上で、人類は癌細胞のように振る舞う…
地表を固い道や建物で固め、
土壌や大気や海を汚し、
プラスチックを作り、
動植物を品種改良し、
ミサイルを撃ち合う…

何が異常で何が正常なのか…

ミミズがいなくなったら自然環境は壊滅するらしい…
人がいなくなったら地球は喜ぶのだろう…

政治

選挙には行かない…

今のところ満足しているから…
つまり大した期待はしてない…

あと、ストレスを感じるから…
社会の歯車になるのが怖い…
大きな流れに飲み込まれるのが怖い…
何者かになるのが怖い…

普通は繋がることで安心するのかもしれない…
しかしそれは抜け殻になることのように感じる…
感覚を超えている…

確かに逃げられないし、
それなりに恩恵を受けている…
この水準は誰かのおかげなのだろう…

しかし関わるのは最小限にしたい…

もしすべての国家を一斉に解体しても、
しばらくすると同じような国家が林立しだすのだろう…
逆にひとつの国家が他を飲み込んでも、
その中にやはり国家のようなものが生まれてくるのだろう…
人が集まると、ルールのようなものが形成される…
それは国家へと成長する…
国家は別の国家と衝突し、飲み込むか、競い出す…

国家や自治体は、少子化を問題にする…
地球規模で考えるなら、人口爆発の方が問題なのではないだろうか…
人と家畜の異常な個体数…
人を減らそうとか、そういう話ではなくて…
私たちが何者なのか、そこから始めたいだけ…

SDG’sはどこを見てるのだろうか…
経済成長や技術革新こそが貧困や環境破壊の原因なのではないだろうか…

もし人々が平等で豊かになるようなら、
きっと自然環境や動物たちはその犠牲になっている…
もし戦争がなくなったとしたら、
きっと人の身体(精神含む)はその犠牲になっている…

人社会を否定するつもりはない…
それは知性を持ったものが辿りつく場所だと思うから…
ただ、知性は勘違いの温床であり、罠を仕掛ける…
自由や平等は作り物であり、人類の発明品にすぎない…
道徳は損得が聖域を装ったものであり、無償ではない…

私たちが何者なのか、そこから始めたい…

知性を疑う政治…
そういう政治はやってこないだろう…

依存症

知性はいつも自然に逆らおうとする…
進歩は私たちだけのものに過ぎず…
弱肉強食も私たちがそう見ているだけ…
知性は答えの喪失を体現している…

何かを為そうとしないこと…
流れに逆らわないこと…

世の中を動かしてはいけない…
成功、進歩、獲得、成長、実現、達成、勝利…
その動きは不自然なものであり、常に不穏な空気を放っている…
むしろ鎮めないといけない…

成功や獲得の背後で何かが犠牲になっている…
目の前で気づかなくてもずっと遠くで…
それは今ここで始まる…

環境破壊はやりすぎた結果ではない…
最初に身体が書き換えられている…
身体と環境は同じもの…

私たちはどうしても成功や恩恵に正解を見てしまう…
社会が作る力学に逆らえない…
そうやって道徳が育っていく…

長生きする必要はない…
老いや死を受け入れること…
食べられることを受け入れること…
それが「生きる」ということではないだろうか…

考える…
認識する…
切り取る…
ありのままから逸れる…
答えの喪失…

知性が、意識が、身体を書き換える…
欲望が生まれる…
欲望は病気…

より優位に…
より便利に…
より刺激を…
依存症…

動物における、
自己は「私」へ…
縄張りは所有へ…
交接はエロティシズムへ…
食は美食へ…
遊びは勝利へ…
源泉の変異…  

病気とは身体の反応…
自然がバランスを取ろうとしている…

それも悪くない…
もう抜け出せないのだし…
ただきっとつまらないと感じ始める…
別のものを求め始める…

自分で考えること

スピノザに依れば自由意志など無いわけだけど、ある意味そういう感覚を大事にしたい…答えを失くしている感覚、あるいは勘違いしている感覚…

道徳、普通、常識とは、集団(国家、会社、任意団体、家族、飲み仲間…)が維持される時、構成員の中に自ずと育つものだろう…それは集団が作る社会を肯定、サポートするように働く…具体性を持たず、常に変化しながら、無意識に、社会が持つ「力」をなぞろうとする…尖ったことやはみ出したことは嫌われる…例えば「肉は食べない」と言うと、頭が足りないか陰謀論好きとでも思われるのかもしれない…菜食が正しいと言いたいのではなくて、肉食を支える根拠は案外薄っぺらいものだということ…動物が殺される暴力よりも、肉食が容易に是とされていることに暴力性を感じる…

仏教なら「師を信じるな」「言葉を信じるな」と言うのだろう…キリスト教やイスラム教は違う…「それをしなさい」「それをしてはいけない」と言う…つまり「自分で考える」ことを遠ざける…創始者や預言者を否定するつもりはない…むしろ興味はある…ただ、エルサレムを聖地とするそれら宗教の在り方が好きになれない…宗教の多くは国家と相性がいい…国家は富や権力の効率化のために生まれ、同じ力学の中で今日も維持されている…

子供たちが泣き、騒ぎ、喧嘩し、空気を読まなかったとき、大人は何を感じているだろうか…当然のように上目線に立ち、そして語りかけるのだろう…しかしそれは人社会での生き方を教えているに過ぎない…生きた(活きた)世界のことではない…逆に子供たちの中では大人が失くしたものがまだ息づいているのではないだろうか…子供の世界は虫や動物たちがいっぱいだ…ある意味大人たちは教えることで子供たちの可能性を奪っている…

世の中は常に少し前より便利になっている…そういう社会に生きている…便利になっているはずなのに、時間は「やること」で埋まり身動きがとれなくなり、さらに「やること」がないことは悪いことになってしまった…もっと自分や世の中をじっくり掘り返して考える(ほどく)時間があってもいいのではないだろうか…

吉本隆明が「引きこもれ」と言ったことを思い出す…

Irreplaceable

いのちを食べることは特別な話ではない…私たちはそうやって環っている…気にしているのは「代わりのなさ」だ…「掛け替えのなさ」と言い換えることもできる…私たちにとって最も代わりがないと感じるのは同じ人間であり、逆に菌類や植物にそれを感じることはないだろう…対象が身近であればあるほどその消失は「死」を強く伴い、消すことは「殺す」ことと感じる…逆に遠ければその感覚は弱くなる…同種である人は殺したくないし食べたくない…同じように多くの動物にも「代わりのなさ」を感じる…だから食べたくない…「代わりのなさ」は均衡を保つために何らかの役割を担っているように感じる…「食性」とも深く繋がっているのではないだろうか…おそらく多くの動物も、同種や家族だけではなく、私たち人間を含め、別の種に対して「代わりのなさ」を感じることができるのだと思われる…人を含め多くの動物は数多の契機を経て家族として同種としてその対象を受け入れていく…ときには肉食動物が食性を超えて親しくなるケースもある…異常ではなく動物に備わるごく自然な資性と思われる…

現代の人社会において「代わりのなさ」を感じ取る契機はいくらでもある…逆に意図的に隠されてもいる…ずいぶん前に、人はやむを得ず動物を食べ、味わうことも覚えてしまった…ただしずっとその死は厳かなものであり、祝祭においては供犠として神に捧げるほどだった…現在、特に先進国において、動物の死は感覚的に閉ざされ、食べ物として分離した「肉」が食されている…「代わりのなさ」に付随する死の厳かさは無いに等しい…人は知性と知性が作る環境によって分からなくなっている…受け継がれている食性も分からなくなっている…それは環境が破壊されることと変わらない…私たちは文明の暴力の影に隠れた犠牲に対して、もっと想像力をはたらかせるべきなのだろう…海や農地やガザや腸内や屠殺場に対して、もっと憶いを馳せるべきだ…

SAUVAGE

IRREPLACEABLE Ⅱ

IRREPLACEABLE

The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

第5章 病める現代人の食 – 自然食の原点

「自然食の目的は、上手に解説していろいろの食べ物を選択する知恵者を造ることではない。自然の園から食物を無心にとっても天道にそむかない、無智の人間を造るためのものである。」(p206)

「もし人が真人であり、心身が真に健康であれば、人間は自然の中から誤りなく正しい食べ物を無分別でとる能力が自然にそなわっているはずである。」(p219)

核心は歴史とか栄養ではない…身体に問いたい…人はデフォルトで動物を食べたいと欲すのだろうか…動物ではなく加工された「肉」を食べたいだけではないだろうか…それは本性なのだろうか…何れも壊さず傷つけず、心地よければそれでいい…しかし人の知的操作は相応の歪みをもたらす…外部も内部もない…ひとつの歪みがある…

人が病気になるその流れは、人の存在そのものを病的なものに変えてしまった…いま人は地球の癌細胞になっている…街や砂漠はその結果だ…必要なのは感謝と節度と、それらが育つ環境ではないだろうか…例えばネイティブ・アメリカンや仏教が伝えてくれるもの…

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The One Straw

「子供は無知にして明晰、仏に近く、大人は学び知恵多くして昏迷、仏に遠い馬鹿となる」(p184)

わら一本の革命
著 福岡正信

第4章 緑の哲学 – 科学文明への挑戦

「人間の知恵は、いつも分別に出発してつくられる。したがって人知は分解された自然の近視的局部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることはできないので、不完全な自然の模造品を造ってみて、自然がわかってきたと錯覚しているにすぎない。」
「人間は本当に知っているのではないということを知ればよい。人知が不可知の知であることを知れば、分別知がいやになるはずである。分別を放棄すれば、無分別の知が自ずから湧く。知ろう、わかろうなどと考えなければわかるときがくる。緑と赤を分ければ、その瞬間から真の緑や赤は消える。天地を分別すれば、天地はわからないものになる。天地を知るためには、天地を分けず、一体としてみるしかない。天と人の融合である。統一、合体するためには、天地と相対する人間を捨てる、自己滅却以外に方法はない。」(p153)

走ることは自分を緩める方法だと思っている…
「自分を緩める」とはいわゆる「瞑想」ではないだろうか…

「人類の未来は、何かをなすことによって解決できるのではない。自然はますます荒れ果て、資源が枯渇し、人心が不安におののき、精神分裂の危機に立つのは、人が何かをなして来たからである。なにをすることもなかった、してはならなかったのだ。人類救済の道は、何もしないようにしようという運動でもする以外に方法がないところまで来ている。発達より収縮、膨張より凝結の時代にきている。科学万能、経済優先の時代は去り、科学の幻想を打破する哲学の時代が到来している。なんて言い出すと、達磨さんが黙ってにらんでいるようだ。達磨さんとにらめっこするしかない。笑った方が負けである。笑い事ではない。」(p157-158)

「神」が力を持っていた時代を経て、いま「知」が力を持っている…人はいま「知」を絶対視し崇拝している…それはただ、神が知に変わっただけのこと…いわゆる宗教に冷めた視線を送りながら、実際は気づかないうちに新しい宗教に染まっている…

「胃の弱い人間を作っておけば、消化しやすい白米がありがたがられる。消化しやすい白米食(粕)を常食にしておけば、栄養が不足してバター、ミルクという栄養素が必要にもなる。水車や製粉工場は人間の胃腸の働きの代わりをして、胃腸を怠け者にすることに役立っただけである。」(p166)

人はいつから多品目食になったのだろうか…なにかと「何でも食べろ」という言葉が幅を利かせている…他の動物は粗食でありながら栄養の偏りや不足はない…そういう意味で何かが退行しているのではないか…国や地域で自給ができなくなるのと同じように、ヒトは粗食から遠のいてしまっている…なんでも食べろと言う前に、土壌や腸内環境を含め精査し、粗食の可能性をもう一度見直すべきじゃないだろうか…「何でも食べろ」は、病や環境破壊を肯定(つまり思考停止)している…

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フルータリアン・ダイエット

フルータリアン・ダイエット
著 池田 悟

「本来」は現状を否定しようとする…すでに無視できるケースもあるだろう…しかし逆に見えにくくなってはいても、まだ私たちの内外でしっかり息づいているケースもあるはずだ…

完全な再現は難しいのかもしれない…例えば果実食とはいえ、近場に実っているものを採集して食べるわけではない…アボカドも現代の流通のおかげで手に入れることができる…ベアフットランニングにしても、それはシューズありきのものであって、本当の裸足によるものではない…それでも私たちは「本来」を無視するわけにはいかない…無理や苦しみは嫌いだから…そして知りたい(知らない=知ることができない)から…

「本来」は何を指標にしたらいいのだろう…身体のことに関して考えるなら、それは「自然」ではないだろうか…ただその「自然」が何なのか分からない…遠い過去に原型があるとしたら、いつまで遡るのかという話にもなる…水中から地上に生活を移行したあとの話と考えていいのだろうか…二足歩行以降の話だろうか…とりあえず現在を見て、病気になりにくいとか、怪我をしにくいとか、そういう傾向が指標になりえるのだろう…そこから「本来」を逆算して導き出す…「本来」は過去と現在の会話がベースになっている…

「本来」は私たちの「切り取り方」に依存している…「自然」を装った強い言葉だが、「自然」の追求において消費されるべきものではないだろうか…決して答えではない…私たちは答えを失っている…「自然」は答えだが、「本来」は答えを装ったもの…

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