THE LIVES OF ANIMALS
J. M. Coetzee
The Philosophers and the Animals
コステロはクッツェーの分身なのだと思う…
何かを欠いた分身…何かに特化した分身…
クッツェーはある意味ずるい…
ノーマが言うようにコステロの話はまとまりに欠ける…
しかしおそらくそれには理由がある…
コステロは理性を警戒している…
THE LIVES OF ANIMALS
J. M. Coetzee
The Philosophers and the Animals
コステロはクッツェーの分身なのだと思う…
何かを欠いた分身…何かに特化した分身…
クッツェーはある意味ずるい…
ノーマが言うようにコステロの話はまとまりに欠ける…
しかしおそらくそれには理由がある…
コステロは理性を警戒している…
Animal Rights: Current Debates and New Directions
Cora Diamond
Eating Meat and Eating People
バタイユの動物性(或いは内在性)という概念に倣うと、動物同士が食べて食べられることはそこに優劣があるわけではなく死さえ悲しむことではない…動物が殺されたり食べられたりすることが問題になるのは、人間との関係においてのみ…人間だけは食べるものを選択している…
ピーターシンガーは動物の権利を主張する…
その根拠となる客観的事実は存在するのだろうか…
その権利は権利として機能するだろうか…
自然権…めんどくさい概念…
生きるために殺す必要があれば殺すし食べる必要があれば食べる…
必要なければ何もしない(ここが大事なのだが)…
それだけのこと…
✢ 供儀、祝祭および聖なる世界の諸原則
供犠の原理は破壊であり、生贄によって破壊したいと願うのはただ「事物」のみである…供犠は物=客体を従属関係へと縛り付けている現実的な絆を破壊する…つまり生贄を有用性の世界から気まぐれの世界へ引き戻す…
人間は現実を基礎付けている諸価値を破壊することと、受け入れることを同時に行うことはできない…内在的な内奧性へと回帰することは、当然の帰結として意識が朦朧と曇ることを含んでいる…意識とは客体があるところに位置付けられている…
走ることについて僕が語ること…
健康なジョギングではなくギリギリの走り…
適度ではなく限界の…
安全ではなく怪我と隣り合わせの…
わざわざ苦しんで達成を楽しむ馬鹿馬鹿しさ…
動力はもっと深い部分にあるんじゃないか…
バタイユの「それ自体に価値がある」という言葉が紛らわしい…
「それ」は切ることで姿を現す…
切られることで(切られるから)他との間に関係が現れる…
意味や価値や目的や理由は常に不自然なヴィジョンに過ぎない…
実際は「それ」も「価値」も作り物…
「それ自体に価値がある」とは「切ることさえできない充足」と考えたい…
水の中の水とはそういうものだろう
道具は周囲のものとの関連性に乏しい…
異質なものであり、進化や淘汰などの結果ではない…
人間との従属関係の中で突如出現したものだ…
しかしどんなものであれ、すべては水の中の水に変わりはない…
✢ 人間性と俗なる世界の形成
道具は水が水の中にある世界のうちに外部性を導き入れる…それは連続性における中断であり、<物=客体>をそれとして位置付ける…道具の出現によって、その目的は有用性の面の上に与えられ、それはもはや<真の目的=究極>ではない…
人間は<物=客体>を定置することによって現れた面の上に、本来認識しえない連続性の中の諸要素を少なくとも外見上は明晰に位置付けることが可能になる…それは自分自身を外から一個の他者として統覚することをも意味する…
『宗教の理論』に沿ってバタイユを辿ってみる…
✢ 動物性
動物性とは直接=無媒介=即時性であり、内在性である…内在性としてあるということは、同類を食べるということ…ある動物が他の動物を食べる…そこには対立や区別や優劣があるわけではない…区別には客体の定置が必要だ…動物は世界の内に、水が水の中にあるように存在している
ヒロシマの人々の物語
著 ジョルジュ・バタイユ
訳 酒井 健
政治家や軍隊や法に携わる人たちはある意味国家に隷従している…
国民全体が国家の奴隷になることもある…
その国家とはもともと存在しない…
ハラリの言う虚構…
国家は善悪よりも損得を優先する…
福祉もその例外ではない…
Continue reading “À propos de récits d’habitants d’Hiroshima”
日常は作為と偶然が混在している…
それらから新しい固有の形態が抽出される…
固有の作為と偶然が入る場所ができる…
それが作品といえないだろうか…