The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

追章 ”わら一本”アメリカの旅 – アメリカの自然と農業

「自然がなくなったら本当の思想は生まれないんじゃないか、という考え方を自分は持っております。人間の感情とか思想とかいうものは、皆さん、頭からひねり出すように思っているかもしれないが、自分はそうではないと思っている。人間の感情などはどこから出てくるか、ということです。花を見て美しいという。今日は暖かい、寒いという。今の何はおもしろかった、おもしろくなかった、愉快だ、愉快でない、悲しい、さみしいとかいう。こういう素朴な感情というのはどこから出てくるか。アメリカへ行ってみると、頭から出てくると言います。日本人は胸から出るというようなことを言う。では、頭や胸から、花は美しいという言葉が出てくるか、ということです。涼しいという。何で涼しいのか、です。科学者によれば、温度が何度以下だったから涼しい、と言うかもしれないが、科学的な説明に過ぎない。さわやかな風が吹いたから、さわやかだ、と。これはやっぱり自然にわくもんだ、自然からわいてくるものだと思います。」(p243)

自然から湧くものが分かっているだろうか…何を食べたらいいのかも分からないし、走っても楽しさを感じることができない…Thich Nhat Hanhが食べることや歩くことを通じて伝えたかったこととは何なのか…

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

第5章 病める現代人の食 – 自然食の原点

「自然食の目的は、上手に解説していろいろの食べ物を選択する知恵者を造ることではない。自然の園から食物を無心にとっても天道にそむかない、無智の人間を造るためのものである。」(p206)

「もし人が真人であり、心身が真に健康であれば、人間は自然の中から誤りなく正しい食べ物を無分別でとる能力が自然にそなわっているはずである。」(p219)

核心は歴史とか栄養ではない…身体に問いたい…人はデフォルトで動物を食べたいと欲すのだろうか…動物ではなく加工された「肉」を食べたいだけではないだろうか…それは本性なのだろうか…何れも壊さず傷つけず、心地よければそれでいい…しかし人の知的操作は相応の歪みをもたらす…外部も内部もない…ひとつの歪みがある…

人が病気になるその流れは、人の存在そのものを病的なものに変えてしまった…いま人は地球の癌細胞になっている…街や砂漠はその結果だ…必要なのは感謝と節度と、それらが育つ環境ではないだろうか…例えばネイティブ・アメリカンや仏教が伝えてくれるもの…

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The One Straw

「子供は無知にして明晰、仏に近く、大人は学び知恵多くして昏迷、仏に遠い馬鹿となる」(p184)

わら一本の革命
著 福岡正信

第4章 緑の哲学 – 科学文明への挑戦

「人間の知恵は、いつも分別に出発してつくられる。したがって人知は分解された自然の近視的局部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることはできないので、不完全な自然の模造品を造ってみて、自然がわかってきたと錯覚しているにすぎない。」
「人間は本当に知っているのではないということを知ればよい。人知が不可知の知であることを知れば、分別知がいやになるはずである。分別を放棄すれば、無分別の知が自ずから湧く。知ろう、わかろうなどと考えなければわかるときがくる。緑と赤を分ければ、その瞬間から真の緑や赤は消える。天地を分別すれば、天地はわからないものになる。天地を知るためには、天地を分けず、一体としてみるしかない。天と人の融合である。統一、合体するためには、天地と相対する人間を捨てる、自己滅却以外に方法はない。」(p153)

走ることは自分を緩める方法だと思っている…
「自分を緩める」とはいわゆる「瞑想」ではないだろうか…

「人類の未来は、何かをなすことによって解決できるのではない。自然はますます荒れ果て、資源が枯渇し、人心が不安におののき、精神分裂の危機に立つのは、人が何かをなして来たからである。なにをすることもなかった、してはならなかったのだ。人類救済の道は、何もしないようにしようという運動でもする以外に方法がないところまで来ている。発達より収縮、膨張より凝結の時代にきている。科学万能、経済優先の時代は去り、科学の幻想を打破する哲学の時代が到来している。なんて言い出すと、達磨さんが黙ってにらんでいるようだ。達磨さんとにらめっこするしかない。笑った方が負けである。笑い事ではない。」(p157-158)

「神」が力を持っていた時代を経て、いま「知」が力を持っている…人はいま「知」を絶対視し崇拝している…それはただ、神が知に変わっただけのこと…いわゆる宗教に冷めた視線を送りながら、実際は気づかないうちに新しい宗教に染まっている…

「胃の弱い人間を作っておけば、消化しやすい白米がありがたがられる。消化しやすい白米食(粕)を常食にしておけば、栄養が不足してバター、ミルクという栄養素が必要にもなる。水車や製粉工場は人間の胃腸の働きの代わりをして、胃腸を怠け者にすることに役立っただけである。」(p166)

人はいつから多品目食になったのだろうか…なにかと「何でも食べろ」という言葉が幅を利かせている…他の動物は粗食でありながら栄養の偏りや不足はない…そういう意味で何かが退行しているのではないか…国や地域で自給ができなくなるのと同じように、ヒトは粗食から遠のいてしまっている…なんでも食べろと言う前に、土壌や腸内環境を含め精査し、粗食の可能性をもう一度見直すべきじゃないだろうか…「何でも食べろ」は、病や環境破壊を肯定(つまり思考停止)している…

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フルータリアン・ダイエット

フルータリアン・ダイエット
著 池田 悟

「本来」は現状を否定しようとする…すでに無視できるケースもあるだろう…しかし逆に見えにくくなってはいても、まだ私たちの内外でしっかり息づいているケースもあるはずだ…

完全な再現は難しいのかもしれない…例えば果実食とはいえ、近場に実っているものを採集して食べるわけではない…アボカドも現代の流通のおかげで手に入れることができる…ベアフットランニングにしても、それはシューズありきのものであって、本当の裸足によるものではない…それでも私たちは「本来」を無視するわけにはいかない…無理や苦しみは嫌いだから…そして知りたい(知らない=知ることができない)から…

「本来」は何を指標にしたらいいのだろう…身体のことに関して考えるなら、それは「自然」ではないだろうか…ただその「自然」が何なのか分からない…遠い過去に原型があるとしたら、いつまで遡るのかという話にもなる…水中から地上に生活を移行したあとの話と考えていいのだろうか…二足歩行以降の話だろうか…とりあえず現在を見て、病気になりにくいとか、怪我をしにくいとか、そういう傾向が指標になりえるのだろう…そこから「本来」を逆算して導き出す…「本来」は過去と現在の会話がベースになっている…

「本来」は私たちの「切り取り方」に依存している…「自然」を装った強い言葉だが、「自然」の追求において消費されるべきものではないだろうか…決して答えではない…私たちは答えを失っている…「自然」は答えだが、「本来」は答えを装ったもの…

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Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

2冊の本は頻繁に交差する…
スナイダーと福岡さんの本…
どちらを読んでいるのか分からなくなる…

▪️第4章 良き土地、野生の土地、神聖な土地

「ソローはウォールデン池の辺りで暮らしていたとき、「土壌に〈豆〉と言わせよう」と試みた。我々の概念では、土地の生産性を高めることは悪いことではない。しかし、ソローがしたように、人間が余計な世話をすることなく、土地を「自然の企み」に任せたとき、母なる自然はどんな恵みをもたらすのか、それを考えてみる必要がある。さらに、その場所における植生の可能性がどれほどのものであるかという問いへと続く。すべての土地は、荒れ果てていようと、開発されていようと、もし自然ーー道教でいうジラン、つまり、「なるがままの自然」ーーに任せておけば、本来の生物学的生産性と安定性のバランス点(極相)に落ち着くはずだ。精巧な脱産業型「未来型原始」農業では、「自然の流れに逆らうことなく、ともに歩む方法」が求められるだろう。」(p167-168

「「耕作」という言葉の語源をたどってみると、「耕す」「向きを変える」になり、おおむねそれらは自然のプロセスから遠ざかる動きを暗示している。農業について言えば、それは「自然遷移を抑え、単一栽培を確立する」ことになる。精神面から見ると、この言葉は、宗教的権威、長きにわたる机上の学問、あるいは二元論的(被造物と創造主の厳格な区分による)信心主義への服従を意味してきた。そして、すべてを支配する「中央集権化」した神性へとつながる。これこそ究極の狙いだ。これを精神的に実践しようとすると、ときには自然に対する一種の戦争となる。それは動物の上に人間を置き、その人間の上に神性を位置づけようとする試みに他ならない。」(p168)

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倉上慶大

菜食を実践していることを知り興味をもったのだけど、核心にあるのは、自然に逆らうのではなく、受け入れる意識あるいは感覚なのだと思う…きっと、「環境」と「身体」が同じものだということを知っている人だった…

倉上慶大(1985-2024)       

「極度に体がダメージを受けたときって、感覚的に研ぎ澄まされてくるのかもしれません。退院した直後は、そのへんの緩やかな坂道を登っただけでうずくまってしまうぐらいでした。そんな弱り切っていたときに、自分が食べたいものにじっと耳を傾けて、そうして食べたのが野菜だったのです。それからは心臓病を治そうとプラントベースに切り替えたのですが、不思議なことにあのとき病院のなかで野菜を食べたいなと思ったあの感覚が、いまでも残っているんですよ」

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

反自然なるものがあるとは思わない…そう見えるだけ…すべては自然なのだから…ただ今までになかった新しいバランスが生成される…それが人口増加であり、今日の農業であり漁業であり、ゴミであり、精神的ストレスであり、争いなのだろう…人はそのバランスから抜けだせなくなっている…

第3章 汚染時代への回答

「いわゆる汚染の根本原因というものは、人間のあらゆる行動、知恵から出発して、それが価値あることのように思っているところにあるんです。結局、その価値観という、人間の根本的な頭が改革されない限りは止まらない。まあ、何をやっても、やればやるほど悪くなるというのが実状だと思うんです。対策を立てれば立てるほど、かえって問題は、悪質化し、内攻していく。」(p93-94)

知性は切り取ることしかできない…理解、思索、解釈、評価、すべてにおいて切り取ることを前提にしている…全体?を見るためには感じるしかない…知性を一旦手放す必要がある…

「何かをなすことによって、世の中がよくなるんでなくて、むしろ、しないように、しないようにすることが、大事なこと…」(p99)

「結局、本当の味っていうものは、人間の体にいいものということになる。食べ物と薬というのは二物ではなく、表裏一体のものです。現在の野菜は、食べ物であっても薬にはならないが、改良されなかった昔のものは、食用にも薬にもなるというのが本来だったのです。」(p108)

「とにかく一般に、自然を離れたものをおいしがるのは、結局ものの本当の味がわからないんです。本人の好きずきだ、なんて言って、ふつう、ごまかしてしまうんですが、そうではなくて、ですね、一口で言ってしまえば、人間の体が反自然になればなるほど、反自然のものをほしがるということなんです。で、そうなると結局、反自然のところでバランスをとらなきゃいけなくなる。」(p111)

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獨立時代

エドワード・ヤンの恋愛時代(1994)
監督 エドワード・ヤン(楊德昌)

この夏、古い友人たちと会った…今となれば眩しい記憶が蘇る…懐かしさだけじゃなく歯痒さに似た感覚も湧いてきて、そういう気持ちになれたことが何故か嬉しかった…当時を振り返ると、許して欲しいと思うこともそれなりにある…そういうものだろう…大切な思い出だ…

エドワード・ヤンの映画を見ると、古い記憶が刺激される…急速に近代化する台湾には、ここ日本で若いとき感じていた時代の流れと同調するものがあるのかもしれない…ヤンの視線はいつも優しい…少し引いた距離感ですべてを写し出す…

散らかりすぎて頭の整理に時間がかかる上に、凝縮されすぎて気持ちの整理もできないまま終わりを迎えてしまった…とにかく忙しい映画だ…これが現代社会なのかもしれない…

お金や名誉というのは、結局満たしてくれない…法律や道徳(枠組みに関わるもの)も同じ類いのものだ…日常はつまらなさで溢れている…進歩、正解、勝利、美味(動機や成果に関わるもの)、いずれにしろ変わらない…私たちはそういう世界でしか生きられない…人はいつの間にか進んで勘違いするようになった…

勘違いに気づいてる感覚…
その感覚を大事にしたい…

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MINAMIOGUNI/KUROKAWA

南小国 ・黒川トレイル – 20km

コース上にmore treesのモニュメントがあることを知ったのは偶然だった…more treesは創立者である教授(坂本龍一さん)が代表を務めていたが、亡き後は隈研吾さんが引き継いでいる…森林保全を掲げて様々な活動に取り組んでいて、小国町ではつい先日大規模な植林を終えたばかりだ…何も知らずにエントリーしたのだけど、ふと気になって調べたらコース上に古いモニュメントがあることにたどり着いた…
https://www.more-trees.org
https://www.more-trees.org/forests/project7/
モニュメントは確かにあった…でも少し残念に思えたことは否めない…まるで隠れてこっちを見ているかのようだった…草を掻き分けて近づくと、辛うじて文字を残したモニュメントが現れた…そこは教授が直に足を運んでセレモニーをやった場所だった…一般の人が訪れるような場所ではないようだし、放置されるのは仕方ないのかもしれない…逆にこの大会に参加しないと訪れることができないレアな聖地と考えることもできるのかな…震災のピアノと同じように自然に還ろうとしてるかのようだった…これでいいのかもしれない…

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THE DRAGON CAN’T DANCE

ドラゴンは踊れない(1979)
著 アール・ラヴレイス
訳 中村和恵

文明がまだ未熟だったころから、踊りや音楽はずっとその中心にあったのだろう…それらは例外なく土地に根ざしたものであり、他所からの影響を受けつつも土地固有のものとして受け継がれてきた…時が経ち現代の音楽やダンスは土地から切り離され、世界中の人が楽しめるものになっている…トリニダード・トバゴのカリプソやカーニバルは、歴史上最後の民族音楽、民族舞踏のひとつになるのかもしれない…スティールパンは最後に発明されたアコースティック楽器と言われている…

祝祭や伝統芸能は昔の意味合いを薄めてきている…今、祭りは形骸化するかすでに消滅した…おそらく最初は自然や神のようなものと上手くやっていくためのものだったのだろう…少しずつ意味合いは変化したとしても、概ねそれらは今の価値観からすると大掛かりな無駄とでも言えるようなものだった…今では必要なものだけが生き残る…それは競争社会が作る物差しによるものだ…本当に必要なものとは何だろうか…

オルハン・パムクの「雪」が重なった…オルドリックはKAR、フィッシュアイは紺青、ドラゴン或いはカーニバルはイスラム、仕事やスポンサーは西洋、そしてシルヴィアはイペッキ…もちろん全て一緒にする気はないが、大きな流れや構図は似てるのだと思う…おそらくこの構図は世界中がいま体験している進行形のものだ…遅かれ早かれ直面していることであり、ゆっくりじわじわと確実に進行している…人は今、問われているのだと思う…

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