私たちの正解

豊かさは搾取によって、
善は脅迫によって、
健康は薬によって、
平和は武器によって保たれる…
野生にはないもの…
野性ではないもの…

一種の正解を見せてくれるもの…
正解とは何だろうか…

知性が歪みを作り、
歪みが私を作り、
私が欲望を作る…
所有、利便、優位、快楽の始まり…
身体(環境)破壊…

海の異常と身体の異常は同じもの…
ゴミとストレスは同じもの…

豊かさ、善、健康、平和は、
ゴミ、貧困、病、争い、嘘と共にある…

鈍化、洗脳、依存…
正解を正解に導くもの…
普通、常識を作り出すもの…

生きやすくするために、鈍くならないといけない…
そのためのスキル/知恵/武器/薬を持たないといけない…
鈍化という適応は、力の肯定、犠牲の許容を意味している…

人口爆発…
近視、腰痛、かかと着地…
癌、心臓病…
ゴミ、森林破壊…
工場式畜産、大規模漁業…
ストレス、ADHD、SAD…
貧困、差別…
正解によって軽視されるもの…

私たちは加害者でもある…

富、善、健康、平和、便利、勝利…
恋愛、美食、エロ、酒、タバコ、麻薬…
SNS、ゲーム、ギャンブル…
ブランド、アイドル…
現代のスポーツ、現代のアート…
すべて同じもの…
様々な依存の形…

神が無力になってから、私たちは知性を信仰するようになった…
私たちは生き方を忘れているような気がする…

Tilda Swinton

画像引用元

もう5年経ったらしい…Derek Jarman が晩年過ごしたコテージの存続プロジェクトにほんの少しだけ協力させてもらった…恥ずかしながら、海と言葉を超えて関われたことは素直に嬉しい…Tilda Swinton の呼びかけだった…
https://tashkie.com/2020/01/26/prospect-cottage/
Celebrating five years of Prospect Cottage in public ownership

The ‘Okja’ Interview: Tilda Swinton on Learning from Her Children, Four-Legged Wisdom and Cinematic Friendships

Are you personally a vegetarian?
Swinton: I don’t really eat meat. But I will say that I live in a place where it’s very easy to find wild meat and meat that you know where it came from, how it was killed. So if I eat meat I know it’s wild, but I’m privileged to live where I do and it’s very very difficult to do if you live in cities. And more so if you are dealing with a tight budget. As Nancy [Lucy Mirando’s sister] says in the film, “if it’s cheap, they’ll eat it.” And we are up against that.

あなたはベジタリアンですか?
スウィントン:私はあまり肉を食べません。でも、私が住んでいる場所は、野生の肉なのか、どこから来たのか、どのように殺されたのかが容易に分かる環境です。だから、もし肉を食べるとしてもそれが野生の肉だと分かっているし、それだけ私は恵まれた場所に住んでいますが、都会に住んでいればとても難しいことでしょう。予算が厳しい場合はなおさらです。映画の中でナンシー(ルーシー・ミランドの妹)が言うように、「安ければ、みんな食べる」のです。私たちはそれに立ち向かっています。

Continue reading “Tilda Swinton”

自然の哲学

自然の哲学(じねんのてつがく)(2021)
著 高野 雅夫

特に最後の9章は「その通り!」と唸ってしまうほど共感できる内容だった…本書の内容に殆ど触れず、自分の考えばかり書き連ねてしまったが、そもそも人の書いたものをただ受け入れるのが読書ではないはずだ…自分の中で咀嚼して自分の考えの中で再構築して言葉にすることが大事だと思う、と、言い訳してみた…
正直言うと、林業とか農業に食いついたのだけど、後半は自分が普段考えることと似通っていて、それはそれで良かったのだけど、もう少し林業/農業に触れて欲しかった、と、偉ぶってみた…

▪️第9章 自然の哲学(じねんのてつがく)

「日本国」では、目標を達成して成果を出し結果を残すのが大事と言われる。自分が望み努力するならば何でも実現できる、ということが前提とされ、自分がやりたいことを一生懸命やれば道は開けるという。結果を出せたとしたら、それは自分の力であるし、出せなければ自分に力がなかった、努力が足りなかった、ということになる。「できないのはやらないからだ」という理屈だ。それを裏返せば、困ったことが起きてもそれは自己責任ということになる。「日本国」では「何でもできる(はずの)自分」という物語が共有されている。自分が肥大化しているのだ。(p219)

ホリエモンさんとかは、そっちの人だよな、とつくづく思う…私たちは、知性によって人工(自然の域を出ないが、野性と対置するもの)の新しいバランスに入り込む…知性は虚構の中で、成功、獲得、勝利に正解を見出す…その流れを補強するものとして教育や道徳が生起する…しかし私たちの身体はそのバランスの中で生きるよう設計されてはいない…そんな社会で病む人は多いのではないか…病む方が悪いとか異常という扱いまで受けながら…「生きにくさ」こそ正常なのだと言いたい…人社会の恩恵あるいは水準は、貧困や差別やゴミや争いや病気やストレスを吐き出すことで維持されている…新しいバランスは、癌細胞の振る舞いに似ている…

「日本国」流のやり方から転換するためには、よほどトレーニングが必要だと思った。それで毎日の暮らしの中で自己訓練することにした。通勤する電車に乗っている時間は、それまではムダで退屈な時間だった。目的地に到着することだけが大事だった。そこで、電車に乗っていまを「生き切る」とはどういうことだろうかと考えた。まず自分が感じる感覚に集中してみると、窓の外の景色、車内の人々の表情、さらには加速したり減速したりする感覚など、実にたくさんのことがその場で起きていた。それらに一つひとつ集中してみると、そのおもしろさ、不思議さを感じることができた。じっとその場の時間の流れに全身を浸すような感じでいることを心がけると、その場に自分がしっくりくるような感覚が生まれる。以来、私はどんな場面でもそういうトレーニングを続けるよう努力している。(p225-226)

トレイルランニングが自分にとっての実践の場になっている…なかなか普段の生活では難しい…練習にしろ大会にしろ一人で行く…仲間も作らない…そこには日常を連れて行かないことにしている…

▪️第7章、第8章
▪️第5章、第6章
▪️打3章、第4章
▪️第1章、第2章

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第7章 第2次移住ブームがやってきた
▪️第8章 弱さの物語

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

スナイダーの「場所に生きる」を自分なりに翻訳すると「身体で生きる」になる…身体とは、肉体だけではなく、精神や心や魂みたいなものも含まれる…さらに感覚や空気や食べ物や細菌などでつながった周りの環境まで広がりも持つ…身体でないものとはバーチャルなもの、つまり知性が作り出すもののこと…決して知性を否定するわけではないが、身体を中心に据えようということ…移動は自分の足を使うとか、実際に見て嗅いで触ることのできる情報を大事にするとか…等身大ということ…

知性は常に無理を強いる…ガザの悲劇に対して、私たちは本当に悲しむことができるのだろうか…もしできるのなら、世の中の暴力はもっと減るだろう…巨大な肉食産業も消えるかもしれない…私たちの感覚は残念ながら届かない…私たちは、知性によって、等身大ではない歪んだ状態にさらされている…いつも大袈裟で都合がいい…

私たちは場所を放棄してしまった…世界はお金と情報で繋がっている…カカオだけ作っておけば豊かになるはずだった…しかし現実は違った…グローバル化という超分業化は、依存体質を作り出し、椅子取りゲームを強いている…都会も田舎も先進国も途上国も変わらない…私たちは大きな社会の中で別々の方向を向いて生きている…

田舎より都会の方が隠れることができるのだろう…さらに都会よりネットの方が隠れることができる…都会やネットは、よりプライベートな領域が増すのだろう…好きな服を着て、自由に発言する…しかし私たちはそもそもバーチャルな世界に住んでいる…実は何も変わらない…VRや仮想通貨こそ本質に迫っている…人社会で生きるとは、虚構に住むということ…リアルとは何だろう…それはお金が増えたりYouTubeの登録者数が増えることではない…場所に生きれているだろうか、身体で生きれているだろうか…

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第5章 「お金」の物語から自由になる
▪️第6章 解けなくなった人生方程式

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

率直に話せば、SDG’sは茶番と言いたい…「疎外」にしても、それは人が作るあらゆる組織や繋がりが内包するものであり、特別なものではないと思う…また、地球上の人と家畜の個体数は異常なのであって、決してスルーできることではない…

知性は切り取ることができないものを切り取る…つまり勘違いを作り出す…いつも切り取られた恩恵に正解を見て、避けられない犠牲を視界から葬りさる…貧困や戦争や環境破壊やストレスに目を向けたとしても同じことを繰り返す…それが知性だ…知性とはバーチャルな世界を作る装置…国家も会社もお金も虚構…そして「私」や「あなた」や「神」も虚構なのだろう…神や自然への信仰が薄れ、無意識に知性信仰へと移行していった…抑制を失い、競争社会への拍車がかかった…ただそれは遥か昔から準備されていたものだ…野生には、エネルギーも、食べ物も、自由も、平等も、善悪もない…私たちはバーチャルな世界で富や得や力を作り出し振り回されているにすぎない…自然環境や動植物が蚊帳の外になるのは自明のこと…ヒト中心世界で、それらは利用するものでしかない…教育の最大の問題点は昔も今も国内も海外も変わらない…それは私たちが何者なのかを教えないこと…人社会での生き方を教えながら、自分で考えないよう訓練していること…誰も私たちが「チッソ」だとは教えない…

オフグリッドは「里山」の理念と呼応するものがある…スナイダーの「場所に生きる」ことにも通じるのではないだろうか…人は答えを失くした動物…辿り着けないことは分かっている…要はどこを向いているかだ…どこに答えを求めるのか…人社会に求めるのか、自然に求めるのか…

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第3章 森と農の物語
▪️第4章 水俣と福島から「生国」を学ぶ

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

人気のない登山道を走ったとき、野生の鹿に遭遇した…視界に入った時はすでにお尻を向けて走り去るところだった…慌てている感じはなく、珍しい来客を誘導するかのような優雅な動きだった…森は美しさと不気味さを備えた空間だ…特に鹿などと遭遇すると神聖な気持ちになる…その一方で自分が生き方を忘れた余所者のようにも感じる…公園の遊歩道を走っていてヘビに遭うこともある…お互いビックリして逃げるのだけど、そもそも蛇の生活エリアに勝手に公園を作ってるわけで、なんとなく申し訳ない気持ちになる…シロアリが家を食べたり、ゴキブリが台所に出たり、スズメバチが軒に巣を作ったり、虫が畑の作物を食べたり、クマが民家に下りてきたり…彼らは自然の中でただ役割を果たそうとしている…雑草とか害虫とか、それは本当に相応しい言葉なのだろうか…

マドンナさんは欧州人の過去の成果を称えているようなのだけど、コロンブスがインディアンに対して行ったこととか、インディアンの祖先が北米大陸に到達してからサーベルタイガーやマンモスがいなくなったこととか、そこはスルーなのかな? https://www.jiji.com/jc/article?k=2025022200247&g=int

以下に著者が引用している緒方正人さんの言葉を三つ転載させてもらう…緒方さんは水俣病の認定申請をしていたが、31歳のとき申請を取り下げ、補償運動から身を引いている…

「和解」とか「補償」なんて、所詮人間の世の中だけに通用する浅知恵にすぎない。死んでしまった魚や鳥や猫はどげんするのか。金で済ませるわけにはいかんでしょ。消えてしまった藻場は、原生林はどうするのか。圧力をかけて「和解」を押し付けるわけにもいかんでしょうが。キリキリと舞って死んでいった魚の無念というものをどぎゃんすっとか。(p103-104)

俺は権力を許してしまったんじゃないんですよ。捨てちゃったんです。俺は、国家なんて、追いかける値打ちもないのだと思う。国家は所詮、責任は取れないし、また、とろうとしない。制度的な答えはいずれ出すでしょう。でも、俺たちが本当に求めているのは、痛みの共有です。求めている方にはいろんな気持ちが詰まっているけれど、応えるべき方はシステムとしてしか答えない。(p104)

この辺では「そいもこいも、あんた、ぬさりたい」という言い方をします。「ぬさり」、あるいは「のさり」は熊本の方言で、授かりものという意味です。それもこれも縁として、授かりものとして引き受けて生きていかねば…という思いがそこに込められている。「ごたがい」やねといえば、お互い様じゃないか、ということ。…動物や植物とも「ごたがい」の間柄です。「ごたがい」には、海も山も何もかも含まれとっとですよ。「ぬさり」とか「ごたがい」という言葉には、いのちというものが我々人間の領分を越えたところで展開しているということに対する畏敬の念が、またそれを前にして謙虚にひれ伏し、祈る心が込められている。(p105)

緒方さんは「チッソは私であった」と語っている…
文明は、国家は、知性は、私たちが何者なのか語りたがらない…

勘違い

動物は死を恐れてはいない…
彼らの攻撃、抵抗、逃避…
そのすべては生を体現している…

人は死を恐れる…
死を遠ざけようとする…
私たちは勘違いの中に生きている…

勘違いとは死を伴うこと…
私たちの生は死を伴っている…
私が消えるとき、死は去っていく…

死とは答えの不在であり、暇や退屈のこと…
目が霞み、もっと見ようとすること…
音が遠のき、もっと聞こうとすること…

私たちは「差」を発見する…
「富」「権力」「得」「快楽」に導かれる…
川の流れを変えようとする…

書き換えているわけではない…
正解とは作中の同語反復に過ぎず、
答えとは分かりえないもの…

私たちは利用し合う…
動物として助け合いながら、
人として利用し合う…

里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第1章 里山世界と村の成り立ち
▪️第2章 せめぎあう村と国家

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

自然に逆らうことなく、野生(野性)と共に生きようとしているのか、それとも知性信仰を捨てず、便利や優位や刺激を追い求めるのか…現代の共同生活、相互扶助は、その殆どが後者であり、あらゆる組織が大きな社会の力に従順だ…農業や林業、さらには教育やスポーツも競争の中にあり、道徳もその流れを擁護するように働く…そういう組織には正直あまり関わりたくない…不快で不自然な力学を感じる…メンタルが潰されそうになる…

里山の理念は「場所に生きる」ということではないだろうか…スナイダーの本に書いてあることが、ここでも繰り返されている…入会(いりあい)、つまりコモン(共有地)の存在も書かれている…スナイダーは日本に住み学んでいたわけで、たどり着くところは同じなのかと思うと感慨深い…

結や普請といった相互扶助は、今に引き継がれているものもある…しかし今も残る田畑の仕事以外では、急速に衰退しているように思える…清掃活動、安全祈願の火の祭り、鬼火焚き、子供会、いずれも消滅の途にあり、わずかに残っているものは主に高齢者だけの活動になってしまった…近所の交流など全く無い…人は場所に生き共生するのでなく、別の活動のために場所を利用しているだけになってしまった…私たちはみんな違う方向を向いている…

江戸時代の村での寄り合いは、基本的に多数決ではなく全会一致だったらしい…グレーバーによると、多数決は敵味方を作る要因でもあり、法や武力などの強い強制力のない小さい共同体の中では、コンセンサス(全会一致)こそ自然ということだった…サパティスタも同じではないだろうか…ラカンドンの人たちも土地に生きる人たちだ…

里山の姿は、世の中の大きく不可逆な流れに逆らえず、徐々に消えつつある…ただしそこには人が自然(野性/野生)と共生するための知恵があった…逆戻りするということではないが、今のこの時代を経て得たことを活かしつつ再生させることは必至なのだと感じる…

GOKAYAMA-SEFURI

第5回 五ケ山・脊振クロストレイル – 32km

五ケ山は遠い…エントリーするか躊躇ってたのだけど、参加しがいのある大会がこの時期ほかになかった…昨年に続いて2度目の参加…おそらく民家を目にすることのない、ストイックな大会だ…ランナーとスタッフ以外の人影を見ることはない…最初にキャンパー、あと時々登山者と遭遇するくらいだろうか…いちおう観光地なのか綺麗な駐車場がある…トイレは使い方が分からないぐらい洗練されている…

足首のテーピングを今回から少し変えた…以前は捻らないよう中足部も手厚く巻いてたのだけど、これだと足の裏の筋肉がうまく使えず逆に痛みを感じていた…今回は足首周りに寄せて巻いたのだけど、ふくらはぎや脛まで伸ばしてしまい、そこが痛かった…結局筋肉が伸び縮みする部分に当ててしまうと、通常の動きを止めてしまい、痛みに繋がってしまうようだ…次回はさらにコンパクトにしてみよう…

Continue reading “GOKAYAMA-SEFURI”