たぶん悪魔が(1977)
監督 ロベール・ブレッソン
誰もが解決しようとする…
しかし国家も宗教も技術も恋愛も役に立たない…
それでは何も変わらない…
加害者は誰なのか…
鈍感であることは、日々を過ごすテクニックだ…
彼は為そうとしない…
彼は社会に消されたのだろう…
たぶん悪魔が(1977)
監督 ロベール・ブレッソン
誰もが解決しようとする…
しかし国家も宗教も技術も恋愛も役に立たない…
それでは何も変わらない…
加害者は誰なのか…
鈍感であることは、日々を過ごすテクニックだ…
彼は為そうとしない…
彼は社会に消されたのだろう…
私たちは幸せになりたいと願っている…
あるいは平穏に暮らせればと願っている…
それが最低限の慎ましい願いと思っているかもしれない…
しかしそれは富や力によって支えられている…
私たちは食べられることを受け入れない…
動物の抵抗とは違う…
私たちの抵抗は「逸れ」ている…
私たちの幸せは、奪うことで成り立っている…
奪うことなしに富や力は得られない…
奪うとはつまり環りにくくなるということ…
逸れる(歪む)ということ…
意識や思考が始まったとき、
切り取り、写し、抽出という対象化が始まる…
「世界」と同時に「私」が始まる…
本来ひとつのものがバーチャルへ移行する…
バーチャルとは、
答えの不在であり、
作り物であり、
暇と退屈であり…
想像界であり…
ニヒリズムであり…
空であり…
私たちは解決を試みる…
制限と達成を作り出す…
損得、優劣が始まる…
欲望という病気が始まる…
道徳という偽装が始まる…
進化、進歩、獲得、成功、成就、勝利、完成…
私たちはそれらに正解を見るようになる…
正解は奪うことで成立している…
必ず負の部分、犠牲を伴っている…
負の部分は目の前から消えているかもしれない…
それらがまた現れるのは、ずっと遠くかもしれない…
それらはゴミや格差や争いや差別や病気やストレスやクマ被害となって現れる…
それらもバーチャルなものではあるが…
何かが起こっている…
私たちは気づかない…
(画像引用元)
野生の思考とは、神や自然への恐れや敬意を失っていない思考のことだと思っている…サルトルの示した人間とは、西洋人であり、神が死んだ後の科学的思考による人間だった…サルトルの言う「自由」はよく理解できる…それは「答えを失くした」ことと同義だと思うから…ただそれを、政治参加を含め、個人の道徳の話に昇華させるような論調には強い違和感しかない…サルトルは神の死後もまだ人間(西洋=科学的思考)を信じていた…レヴィ=ストロースはそういうサルトルを戒めたのではないだろうか…以下はレヴィ=ストロースの菜食に関する言葉…
In the 1980s, he discussed why he became vegetarian in pieces published in Italian daily newspaper La Repubblica and other publications anthologized in the posthumous book Nous sommes tous des cannibales (2013):
A day will come when the thought that to feed themselves, men of the past raised and massacred living beings and complacently exposed their shredded flesh in displays shall no doubt inspire the same repulsion as that of the travelers of the 16th and 17th century facing cannibal meals of savage American primitives in America, Oceania, Asia or Africa
1980年代、彼はイタリアの日刊紙『ラ・レプッブリカ』やその他の出版物に連載した記事で、菜食主義者になった理由について論じている。これらの記事は死後出版された『我々は皆、人食いである』(2013年)に収録されている:
やがて来るであろうその日には、自らの糧を得るために、過去の人間が生き物を飼育し虐殺し、その引き裂かれた肉を平然と陳列していたという考えは、16世紀や17世紀の旅行者たちがアメリカ、オセアニア、アジア、アフリカの野蛮なアメリカ先住民の食人族の食事を目の当たりにした時と同じ嫌悪感を、間違いなく呼び起こすだろう。
第9回 西米良スカイトレイル – 40.5km(DNF)
なぜ走るかといえば、楽しいからだ…身体が喜ぶからだ…もちろん苦しさも伴う…そう言う意味では荒療治なのだろう…何かを取り戻すための治療…そういったコアの要素はどんな走りの中でも生きている…ただそれは状況によって隠れてしまうことがある…たとえばレース…レースは手放そうとしているものに再び近づく一面を持っている…曲作りで考えるなら、曲を作る喜びは世間の評価を必要としない…それがコアな部分だ…それでも曲が世間との繋がりを持つことで何かが受け継がれるのだろう…レースにも交差するものがある…速い人、遅い人…集中してる顔、苦しい顔…何気なく交わされる言葉…
https://tashkie.com/2023/10/12/talk/
https://tashkie.com/2021/01/04/ひきこもれ/
ここしばらく頚椎症が悪化していた…行けるところまでというラクな気持ちで参加した…結果は理想に程遠いのだけど、山を越えて関門8分オーバーは評価していいと思う…数週間前から手足の痺れや感覚の麻痺を強く感じていた…足の動きに自分の意識とのズレもあった…今までも悪い周期に入ることはあったのだけど、今回は一向に症状が引かない…もう少し様子を見るが、手術は避けられないのかもしれない(いつ、どこで、いくらでやるのか)…頚椎症は走りが不安定になるだけじゃなく、頭痛や吐き気を誘発する…今朝も起きてすぐ吐いた(吐くものはなかったけど)…1週間前は練習後全身が痙攣して死ぬかと思ったが、頚椎症との関連があるのではないだろうか…それでも昨年や一昨年に近いタイムで進めたのにはいくつか理由があるように思える…
(画像引用元)
シルヴィアンは特別な存在だ…
『ブリキの太鼓』の音とアートワークに深く魅了されたことを思いだす…
まだ10代だった…今でもお手本であり憧れであり続けている…
以下シルヴィアンのインタビュー記事…
動物に関する部分を一部抜粋し、DeepLの和訳(一部修正)を並べた…
2005年なので『BLEMISH』のあとぐらいだろうか…
http://davidsylvian.net/
interviewer : I believe one can tell a lot from a person by the way they relate to animals. (I do of course, consider humans to be animals also). My relationship with nature seems apart from my relationships with society and people in general. When I relate to an animal, something divine seems almost instantly accessible to me. What is your relationship to animals in general and do you have any pets yourself?
インタビュアー:人は動物とどう関わるかで、その人物について多くのことがわかると思う(もちろん、人間も動物の一種だと考えている)。私の自然との関わりは、社会や人々との一般的な関係とは別物のように感じられる。動物と関わる時、神聖な何かが瞬時に手の届くところにあるように思える。あなたは一般的に動物とどんな関係を持っていますか?また、ご自身でペットを飼っていますか?
Sylvian : Ive always felt a great affinity with dogs (born the year of the dog) but have only ever lived with one, the family pet, whilst growing up. Since then its been cats. Ive never chosen to own a pet myself but either my partners have had pets or, as is the case now, my children. Since having children I find it harder to connect with household pets the way I once did. Larger animals still manage to make an impression and yes, can convey the presence of the divine in a very tangible way. Animals sometimes make appearances in the garden and always, always, feel purposeful in the presence. Deer, Bears, Coyotes, Pheasants, Porcupines.. We live where there are a number of predators and not far from a busy road so a number of the cats we have owned have disappeared. Its either the coyotes, the Bears, of the mysterious fisher cats. The children have begun to take their losses as just a part of life here in the wild although they do grieve them when they go.
シルヴィアン:犬には昔から強い親近感を抱いてきました(戌年生まれだから)。でも子供の頃、家族で飼っていた一匹と暮らしただけです。それ以降は猫ばかりです。自分でペットを飼おうと思ったことは一度もありません。パートナーが飼っていたか、今のように子供たちが飼っているかのどちらかです。子供が生まれてからは、かつてのようにペットと心を通わせるのが難しくなりました。それでも大型動物には強い影響を受けています。確かに、神聖な存在を非常に具体的な形で感じさせてくれるのです。庭に動物が現れることがあり、その存在は常に、常に、目的を持って感じられます。鹿、熊、コヨーテ、キジ、ヤマアラシ… 我々の住む地域には多くの捕食者が生息し、交通量の多い道路からも遠くないため、飼っていた猫の多くが姿を消しました。コヨーテか、熊か、あるいは謎めいたフィッシャーキャットの仕業でしょう。子供たちは、去った猫たちを悲しむことはあっても、野生の世界での生活の一部としてその喪失を受け入れ始めています。
蛇や虫や雑草を異常に嫌うこと…
道徳や常識や普通を異常に好むこと…
便利や勝利を異常に好むこと…
お酒がやめられない…
甘いものがやめられない…
タバコを吸うこと…
医療に頼ること…
薬に頼ること…
すべて同じこと…
文明依存症…
知性依存症…
美味しいものを求め続ける…
それがない生活は考えられなくなる…
無垢な甘みが分からなくなる…
十分なものを不十分と感じるようになる…
依存症によって、
私たちは鈍感になる…
パフォーマンスが落ちる…
自滅サイクルに入る…
生きるものとして、残念ではないだろうか…
パフォーマンスが上がると、
無垢な味、音、風景で十分になる…
道徳、常識、普通に縛られなくなる…
勝利、便利、刺激を追求しなくなる…
恥や損得に振り回されなくなる…
肉ではなく動物を食べていることが分かるようになる…
ゆっくり歩けるようになる…
積み上げてはいけない…
手放すこと…
野性の実践(1990)
著 ゲーリー・スナイダー
訳 原 成吉、重松宗育
スナイダーを読むことは意義がある…
ケルアックやギンズバーグ、バロウズと共に生きたこと…
またおそらくソローの系譜にいること…
京都で禅の修行をしたこと…
鹿児島(諏訪之瀬島)で暮らしたこと…
学者ではなく詩人であること、そして存命だということ…
スナイダーは今年95歳を迎えた…
まだまだ響き合えない部分もある…
遠く及ばない…
とはいえ、何か同じ道を歩いているような気がしてくる…
神は死んだというけれど、私たちはおそらく神から逃げられない…
だから野性の実践が必要なのだと思う…
第9章 サバイバルと祈り
第8章 クマと結婚した娘
第7章 道を離れて道を行く
第6章 極西の原生林
第5章 青山はいつも歩いている
第4章 良き土地、野生の土地、神聖な土地
第3章 自然の知恵
第2章 「場所」に生きる 1/2、2/2
第1章 野性の教え
The Practice of the Wild
GARY SNYDER
▪️第9章 サバイバルと祈り
いますぐなすべきこと、そして戦うべき相手は、ほかならぬ自分自身の中にある。大地の女神、ガイアが、人間からの祈りや慰労を大いに必要としていると考えるのは、傲慢というものだ。危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは、ただ文明のサバイバルなどといった次元ではなく、もっと本質的な、精神と魂の次元の話なのだ。人間は自分たちの魂を失ってしまう危険に直面しているのだ。我々は、自分自身の本性に無知で、人間であることが何を意味するのかについて混乱している。本書の大部分は、人間たちがどんな存在であったか、何をしてきたか、そして、かつて人間がもっていた、したたかな生きる知恵を思い起こさせるために書かれたものだ。アーシュラ・ル・グィンの『いつも家路に』−本物の教えの本−のように、本書は、人間であることとは何かについての瞑想である。氷河期から1万2千年後と、これからの1万2千年のあいだの、現在のこの時間だけが、人間に与えられたささやかな領分なのだ。このふたつの万年のあいだに、人間が、相互に、また世界とともに、いかに生きたかによって裁かれ、また自らを裁くことになるだろう。もし人間が、何かの目的をもってここにいるとしたら、それは人間を除く自然界をもてなすことだ、と私は思う。霊長類のセクシーな道化役者の一群。人間たちが、いい気分で何か音楽を演奏しようという気になれば、小さな生き物たちがみんな、耳を澄ませて近寄ってくるのだ。(p323-324)
現代人は、もはや狩りをする必要がなくなったが、多くの人々は肉なしではおれない。また、先進国では食料の種類が豊富に出回っており、肉を食べないことも簡単に選択できる。アメリカ市場用の肉牛を飼育する牧場をつくるため、熱帯地方の森林が伐採されている。口にする食べ物の生産される場所が遠く離れたので、表面的には気楽に食べられるが、明らかにその分だけ我々はさらに無知になってしまった。ものを食べることは、宗教儀式である。お祈りを唱えることにより、自分の心を清め、子供達を裁き、客を歓迎する。みんな同時だ。卵を、リンゴを、そしてシチューを見る。それは豊かさの証、過分の証、大変な再生産の証である。何百万もの植物の種子、それが米や粉に変わる。フライになった何百万ものタラは、決して成熟の時を迎えることもなく、また決して迎えない運命にあったのだ。無数の小さな種子は、食物連鎖における犠牲である。地中のパースニップの根は、いわば生きた科学の神秘であり、大地と空気と水から、砂糖分と風味を生み出す、もし肉を食べるとすれば、それは、ピンと立った耳と可愛い目をした、また頑丈な足と脈打つ大きな心臓をもつ注意深く大きな生き物の、その生命、飛び跳ね、ヒュッと飛び回る動き、それを食べているのだ。この事実をごまかすのはやめよう。我々自身もまた、捧げ物になるのだろう。この身体はどこも食べ物なのだ。たとえ一気に飲み込めなくても、人間の身体は、小さな生物たちが、長い時間をかけ、ゆっくり食事をとるだけの大きさは充分にある。大洋の海底、数キロの深さに沈んだクジラの死体は、一五年にわたり、暗黒の世界の生き物たちに食料を提供するのだ。(p335-336)
祈りのためには、自分の伝統の中から選んだ言葉が使える。さもなければ、自己流の言葉を作ればいい。何かの祈りを唱えるのに、不適切なことは決してなく、会話や宣言をそこに付け加えていい。こうした簡単で日常的で、昔ながらの、小さな行為こそ、我々を先祖全体に結びつけてくれるものなのだ。(p337)
The Practice of the Wild
GARY SNYDER
▪️第8章 クマと結婚した娘
共存にはルールとマナーが必要だ…
それを支えるのは、畏敬の念や無力の自覚ではないだろうか…
それらが失われるとき、ルールは破られる…
私たちは被害者になる前に加害者となる…
私たちは国境を引いた…
山も海も空も、誰かの所有となった…
すべては人のものであるかのように…
農薬で土壌は死に、やがて川や海を汚す…
同時に腸内は必要な細菌を失う…
固い道路や建物で地表は光を失い、
さらに皮肉にも太陽光パネルで光を失う…
人は動物ではなく肉を食べるようになった…
毎日圧倒する量を笑いながら食べている…
動植物は自らの命でさえ分け合う…
人は与えることなく奪おうとする…
だからゴミや争いや病気が生まれる…
そして今日もまた除草剤が使われる…
The Practice of the Wild
GARY SNYDER
▪️第7章 道を離れて道を行く
道にはふたつの意味がある…
ひとつは手がかり、或いは型としての道…
もうひとつは道が解かれたあとの無為の世界…
道を歩くとは、
積み上げることではなく、
無駄なものを手放すことではないだろうか…
言葉や道具や私を手がかりにするしかないが、
その呪縛から解かれるとき、
本当の道の中にいる…
努力を少しでもすれば、学問も、実力も、表面的な成功も得られる。先天的な能力は、訓練により育ってゆくかもしれないが、訓練だけでは、荘子のいう「逍遥」の境地には至らないだろう。自分の心に潜む自己鍛錬とか頑張りへの指向の犠牲にならぬよう気をつけなければならない。ちっぽけな能力により技術やビジネスで成功しても、それでは、もっと自由な本来の遊戯三昧能力の何たるかを、決して知りえないだろう。道元は『正法眼蔵』で言う、「自己の探究とは、自己を忘れることである」と。「自己を忘れるとき、万物と一体になる」と。ここでいう「万物」とは、現象世界の全存在のことである。心が開かれると、我々の中に万物が満ちてくるのだ。(p272)
『道徳経』は、「道」の意味について、最も見事な解釈をしている。この本は、こう始まる。「跡をたどれる道は本物の道ではない」と。「道可道非常道」と。これが第1章の冒頭にある言葉である。「跡をだどれる道は、『精神的な道』ではない」のだ。ものごとの実態は、道路のような直線的なイメージだけではない。修行の目的は、その「求道者」の努力の意識が忘れられたとき、初めて完成するのだ。道は難しいものではない。邪魔するものは何もないし、全方向に開かれている。にもかかわらず、我々は、自分で自分の道の邪魔をする。だから老師は言うのだ。「精進すべし!」と。(p273)
登山家が山頂を目指すのは、雄大な眺めや、仲間同士の協力や友情や困難を克服する実感を求めるからだ。しかし、主な理由は、登山が、人を、未知の出来事の起こり、驚きに出会える「その場所へ連れていってくれる」からである。(p277)
人間の技術や仕事などは、ゆるやかな秩序をもつ本来の野性の世界を、ほんのわずか反映したものに過ぎない。道路から飛び出して、分水嶺にある未知の場所へ出かけてみるのが一番だ。新しさを求めてではなく、人間の本来の場所へ帰ってゆくという感覚をもつためだ。「山道を離れて」という言葉は、「大道」の別名でもある。山道からぶらりと離れることは、野性の修行である。逆説的だが、その場所こそ、我々にとって最もいい仕事場なのだ。しかしながら、人間には小道や山道が必要で、これからも守り続けてゆくことだろう。誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ。(p280)