EBINO/KIRISHIMA

第13回 霧島・えびの高原エクストリームトレイル – 65km(DNF)

終始降り続く雨に助けられた…年齢と、それに伴う練習の質の低下と、腰痛や頚椎症などいろいろ重なって、脚は動かず、さらに途中で嘔吐…第3エイドでリタイヤを考えたのだけど、あえて惰性に任せてまた歩き始めた…もし雨が降ってなかったらきっと諦めてた…第4エイドまでの途中でなぜか体に生気が戻ってきて、脚は終わってたけど気力とリズムを取り戻した…何が作用したのか分からないけど、雨が冷やしてくれたのは一要因だと思う…最後はボロボロになりながらトレイルを楽しんでた…

バスでメイン会場に戻ってきて、窓越しに駐車場のすべての車が異常に汚れている光景を目にした…噴火の影響であることはすぐ理解したのだけど、つまり僕らも灰混じりの雨を浴びていたということか…

STONER

ストーナー(1965)
著 ジョン・ウィリアムズ
訳 東江 一紀

・・・

人は人生が終わることを理解していても受け入れることができない…

そんな風に見える…

生きているというより、生きることに抵抗しているかのようだ…

死を遠ざけることは生を否定している…

そうやって人生は作られる…

人生とは抵抗の軌跡だ…

そして何も分からず、何も解決しないまま終わっていく…

・・・

特別な話ではない…
ただ、精緻でリアルな描写のせいもあり、気づけば引き込まれていた…
作者は自身とストーナーを重ねているように思えた…
ジョン・ウィリアムズは遺書を書いたのかもしれない…
過ごした世界に対する独白…

訳者の東江一紀さんは2014年に癌で亡くなっている…
同年「ストーナー」は刊行され、2015年に第一回日本翻訳大賞(読者賞)を受賞…
「ストーナー」は東江さんの最後の仕事であり、亡くなられたあとの受賞だった…
東江さんもまた、自身を重ねていたのだと思う…

Emelie Forsberg

画像引用元

肉を食べないのは、動物を食べたくないから…同語反復のようだが、閉ざされた感覚を問うている…エミリー・フォースバーグも菜食者だが、その理由は極めて簡単なのだと思う…素朴で澄んだ感覚/感情があるだけ…そこから見えてくる景色がある…あとはそれぞれの環境に見合った優先順位を考えればいい…理屈はあとからついてくるもの…絶対的な答えがあるとは思わない…まずは感覚を解放したい…文明/知性による暴力を解きたい…

Emelie Forsberg Blog:VEGAN
*日付が間違っているようだ…

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外国人問題

私たちホモ・サピエンスは常に侵略者であり破壊者だった…それがゆっくりなのか急なのか、或いは先なのか後なのかの違いがあるだけだ…私たちはますます虚な世界の住人になろうとしている…失ってならないのは、国ではなく、自然(知り得ないもの)への畏敬の念や、私たちが何者であるのかの理解ではないだろうか…どこの国の人でもいい…人種も関係ない…私たちは土地に生き、身体で生きるべきなのだと思う…

現在、地球上には一種類の人間しか存在しない…白人や黒人、見た目に少しずつ違いはあるが、みんなホモ・サピエンス・サピエンスという一種類の人間だ…起源はアフリカにあるらしく、例えば南米の先住民は、アジア大陸を横断し、シベリア、アラスカを超え、北米、中南米を経由してたどり着いたのだろう…他の種であるネアンデルタール人などは絶滅した(ネアンデルタール人のDNAは一部残っているらしいので異種交配があったということだろう)…私たち日本人の祖先も樺太を経由したのか海を渡ったのか知らないが、アフリカを起源にしている…幸いと言うべきか、島国だったおかげで独自の文明を築いた…

日本で外国人が問題になっている…私たちがいま感じているのは、異文化に対する違和感ではなく、侵略や破壊に対する恐れだろう…しかしかつて私たちは彼らと同じように他所者だった…今では民家に降りてきた熊や猿を侵入者扱いしている…一方で、きっと数百年もすれば、ハーフやクォーターが増え、生粋の日本人は希少な存在になっていることだろう…エントロピーの法則はここにも適用できるのではないだろうか…

アメリカでも移民が問題になっている…しかし大多数を占める白人もあとからやってきた移民だ…先住民であるインディアン(ネイティブ・アメリカン)のことを忘れてはならない…コロンブスは決して英雄ではなく、侵略者であり破壊者だ…とはいえインディアンもまた移民であることに変わりはなく、彼らの祖先が北米にたどりついてしばらくすると、サーベルタイガーやマンモスが絶滅している…彼らもまた侵略者であり破壊者だった…ただその後インディアンは自然との共存の仕方を学んだのだと思う…

私たちが守らなくてはならないのは、おそらく自然を讃え受け入れる感受性、そして私たちが無力であるという認識ではないだろうか…日本人にもその名残はある…急激な近代化(欧米文化の浸透やグローバル化など)を経てもまだ完全には失われていない…インディアンの生活や思想の中にもあったもの…外国人問題の本質はずっと奥に隠れて見えにくくなっている…それは国籍や人種や宗教ではない…私たちはもっと土地や風土に根差した生き方を見直す必要がある…

今のところ政治に参加する(選挙に行く)気はない…同じことを繰り返すだけだから…政治は何も解決しない…政治(国家)とは、富や権力の効率化なのであって、それらを手放すことではない…ただひたすら競争(経済成長、技術革新、戦争、軍備拡大、人口拡大…)へと導く装置になっている…そういう流れに加担したくない…お世話になってはいても、少しずつ工夫して依存を解きたい…支配されたり襲われたりしたらどうするんだと言うけれど、それは隕石が落ちてきたり猛獣に襲われることと変わらない…そうなれば逃げたり抵抗したり死んだりとかするのだろう…

荘子

荘子 NHK「100分de名著」ブックス(2016)
著 玄侑宗久

ソローや荘子の系譜にジョン・ケージがいることがよく分かる…

私たちは依存症だ…
野生の中で生きれなくなっている…

死や恥を異常に嫌い、
虫や蛇を異常に嫌う…

道徳、普通、常識を異常に好み、
便利、勝利、刺激を異常に好む…

国家とは、そういう人が、そういう人のために運営するもの…
もっと野生(野性)に学ぶ必要がある…
「道」に学ぶ必要がある…

▪️道-tao 1

▪️道-tao 2

道-Tao

荘子 NHK「100分de名著」ブックス
著 玄侑宗久

*以下は本文を読んで、自分の思うこと…

第3章 自在の境地「遊」

「意味」とは、ある種の「見返り」「成果」を求めることだろう…
過去への意識…理由、原因、積み上げたこと…
未来への意識…目標を持つこと、計画、推測すること…
それらを無に近づける…
「無為」とはそういうことだろう…
すべて捨て去ろうという話ではない…
振り回されないこと、緩めること…
無償でありたい…

無為が徹底されると、他者への理解とか思いやりが欠けてしまうかもしれない…伝えたり教えたりすることに支障があるようにも思える…要は言葉に振り回されないこと…だからクリシュナムルティは弟子を持たなかったのではないか…グルジェフも煙に巻くようなことを話したのではないか…禅の公案も同じこと…

免許とか資格が嫌いだ…
ハウツー本も嫌いだ…
仏教や道教までもが「成功」に利用されている…

「遊」とは「芸」とか「技」に関わることではないだろうか…書道にしろ、サッカーにしろ、ピアノにしろ、一種の芸、技と言えるものは、身につけるための訓練を要する…しかし字が達者になれば、無駄な力を入れずに綺麗な字が書けるようになる…無駄な力と言葉は似ている…レヴィ=ストロースの言うブリコラージュに通じるものではないだろうか…

第4章

すべては等しい…それはつまり、所謂「平等」ということではなくて、すべては人が作る価値とは相入れないということではないだろうか…対象化できるものではないし、測れるものではない…「自由」も「不自由」も「平等」も「不平等」も作り物に過ぎない…「生」も「死」も「私」も「あなた」も…それらは人社会或いは人の意識の中にだけあるもの…人が発明したもの…決して人の思考や産物を軽視するわけではなくて…混乱や暴走につながりやすいから…

生があるとするなら、その逆は無だ…生とは、一切であり、自然であり、道なのだろう…私たちの生は私によって死を伴うようになる…切り取られ、写されることで個が生まれ同時に死と隣り合わせになる…死とはバーチャルであることの属性だ…個が消える時、死は去っていく…

道-Tao

荘子 NHK「100分de名著」ブックス
著 玄侑宗久

*以下は本文を読んでの自分の解釈…

第1章 人為は空しい

・「道」とは何か
スピノザの汎神論に於ける神と同じなのだろう…いわゆる自然のこと…すべてのこと…一切のこと…人工と対の概念ではない…人工も自然以外ではありえない…ただし、私たちの知的認識だけは違う…知性はバーチャルを生産する…バーチャルであることは自然だが、バーチャルが見せるものは自然ではない…錯覚ではない…作りものということ…

・渾沌王と、感覚の不完全生
感覚を信じるなということではないと思う…感覚は知性によって歪められている…しかし私たちは身体であり、感覚であり、情動なのであってそれ以外ではない…だから澄んだ身体を取り戻さないといけない…邪魔しているのは「知性」であり「私」だ…それらを緩める必要がある…

・効率を求めることは恥ずかしい/和して唱えず
知性は答えの不在という状況を作り出す…より便利に、より優位に、より刺激をという流れを作り出す…それは「逸れ」や「歪み」を意味する…恩恵と共に、ストレス、ゴミ、病気、格差、差別、争いを作り出す…大事なのは、成功、成長、獲得、勝利ではなく、手放すこと、評価しないこと…

・アピールしないことが徳である
曲を作るとき、誰かに聴かそうとすると不快な音になる…自分の心地よさに沿うとき、より馴染んでくる…

第2章 受け身こそ最強の主体性

人の行動は二重になっている…動物(身体/感覚/情動)として生きながら、知的な存在としても生きている…仮に知性を無くすと、動物に等しくなる…条件さえ揃えば可能なのかもしれない…しかし人社会で育って知性を捨てる想定には無理がある…知性を捨てることを良しとすることにも抵抗を覚えてしまう…「動物であること」はある意味理想であり、基準なのかもしれない…しかしそれは「うまくいかない」「できない」「そうなりたくない」「意味がない」という抵抗を引き寄せる…おそらく知的存在である以上、そこから抜け出せない…依存症の症例なのだろう…完治はない…可能な限り「癒す」「緩める」ことで折り合いをつけるしかないように思われる…それは「放棄しないこと」であり、それぞれの「生き方」でもある…

「流されて生きる」と「逆らわずに生きる」という言葉を使うこともできる…いずれもスピノザが言うように、自由意志が否定されている…詳述すると「知性に流されて(自然に逆らって)生きる」と「自然に逆らわずに生きる」になる…「私」「知性」に主導権を握られる(奴隷になる)のか、それらを捨てる(和らげる/緩める)ことで自由に(楽に)なるのか…

KAGAMIZU

第12回 宮崎鏡洲の森トレイル – 26km

兄が他界してまだ日が浅かったのだけど、家族の承諾をもらい、参加することにした…兄も許してくれてると思う…練習できる状況ではなかったので今日は苦しかった…それでも光、空気、水、土を感じつつ走れたような気がする…

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Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第6章 極西の原生林

「年齢を問わず、管理せず」それが自然な共同体であって、人間にも他のものにも通ずる。産業社会が好むのは、より若いか、中年の樹木で、対称の形を持ち、枝の長さや角度までもが同じのものだ。しかし、老木の存在もまた大切である、もはや社会の慣習にとらわれず、ジェスチャーたっぷりに、ダンスのようなポーズをとって枝々を広げ、やがてやってくる死にも無頓着な様子で、世界や天候が、どんな難題を押し付けようとも、いつでも対応できる柔軟性を持ち続けているのだ。私は、敬意を持ってこうした老木を見上げる。彼らは、中国の名声不朽 の人々にそっくりだ。寒山、拾得みたいな人物で、それだけ長く生きたからには、奇人であることも許される。林間の詩人であり、画家であり、笑いこけ、ごろごろの服をまとい、恐れ知らずの存在なのだ。老木を見ていると、私は、老年を待ち侘びるような気になる。(p253-254)

世界中の自然な共同体はすべて、それぞれ独自な形で「古代的」であり、どの共同体にも、家族のように、幼児、青少年、成人、老人が含まれている。先ごろ山火事にあい、その跡に雑草やブラックベリーが生えてきた森林の一隅から、うす暗い湿った老木の木立までこれが森林の全体像である。神々しいまでの古木群は、その共同体の祖父母であり、情報の所有者である。共同体が維持されるには、どうしても長老が必要なのだ。幼稚園児の集団の中に文化は育たない。同様に、もし森林に、種子の保存や、根のバクテリアの菌糸や、鳥の鳴き声や、それ自身の潜在的可能性に目覚めることはできないのだ。クリス・メイザーは言う。「原生林を生き残らせるためには原生林が必要だ」と。初期の中西部の農民たちが使う鋤板が「草の根を切ったときその音はジッパーを開いたり閉めたりする音を思わせる新しい形態が始まった。それは同時に、三〇〇〇万年前からつながる生態系の長い一線をプツリと、たぶん永遠に、切り離してしまうことでもあった」。しかし、この地球上の最古の生態系は熱帯雨林に残っていて、東南アジアでは、一億年前から続くものと推定されている。(p255-256

ウィルダネスに対する第3世界の政策は、一九三八年にインドによって決められた方向に向かうことが、あまりにも多い。その年、インド政府は、「先住民族だけでは、適切な期間内に、その地方の強大な不毛地域の資源を開発するのは無理で移住入植者の力が必要だ」と言って、アッサムの部族の森林地帯を外部からの移住者に解放した。また、世界中の政府や大学の権力を握る人々の中に、自然界に対する偏見、それに、過去に対して、偏見を抱いている人々があまりに多過ぎるように見える。商工会議所流の特殊創造説からすれば、ショッピング・センターは神からの授かりもので、しごく満足だろう。アメリカ人たちは、そんな生き方に従おうとしているかのようだ。我々の先祖がもっていた高潔さも気質も、「真に」生きるとは何かをよく知らない人々が口にする「そんな生活なんかできっこない」という一言で、片づけられてしまうのだ。原生林は、腐りかけたゴミクズみたいで、こうるさい老人に似てなくもないと思われている。(p259

生産的であってはならないのだと思う
私たちはいつも「為そう」とする
それは歪みを生む
何もしないということではなくて、川の流れに従うべきだということ
ただ、私たちは生き方を忘れてしまった
復元できない森のように

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