The Practice of the Wild

野性の実践(1990)
著 ゲーリー・スナイダー
訳 原 成吉、重松宗育

スナイダーを読むことは意義がある…
ケルアックやギンズバーグ、バロウズと共に生きたこと…
またおそらくソローの系譜にいること…
京都で禅の修行をしたこと…
鹿児島(諏訪之瀬島)で暮らしたこと…
学者ではなく詩人であること、そして存命だということ…
スナイダーは今年95歳を迎えた…

まだまだ響き合えない部分もある…
遠く及ばない…
とはいえ、何か同じ道を歩いているような気がしてくる…
神は死んだというけれど、私たちはおそらく神から逃げられない…
だから野性の実践が必要なのだと思う…

第9章 サバイバルと祈り

第8章 クマと結婚した娘

第7章 道を離れて道を行く

第6章 極西の原生林

第5章 青山はいつも歩いている

第4章 良き土地、野生の土地、神聖な土地

第3章 自然の知恵

第2章 「場所」に生きる 1/22/2

第1章 野性の教え

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Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第9章 サバイバルと祈り

いますぐなすべきこと、そして戦うべき相手は、ほかならぬ自分自身の中にある。大地の女神、ガイアが、人間からの祈りや慰労を大いに必要としていると考えるのは、傲慢というものだ。危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは、ただ文明のサバイバルなどといった次元ではなく、もっと本質的な、精神と魂の次元の話なのだ。人間は自分たちの魂を失ってしまう危険に直面しているのだ。我々は、自分自身の本性に無知で、人間であることが何を意味するのかについて混乱している。本書の大部分は、人間たちがどんな存在であったか、何をしてきたか、そして、かつて人間がもっていた、したたかな生きる知恵を思い起こさせるために書かれたものだ。アーシュラ・ル・グィンの『いつも家路に』本物の教えの本のように、本書は、人間であることとは何かについての瞑想である。氷河期から1万2千年後と、これからの1万2千年のあいだの、現在のこの時間だけが、人間に与えられたささやかな領分なのだ。このふたつの万年のあいだに、人間が、相互に、また世界とともに、いかに生きたかによって裁かれ、また自らを裁くことになるだろう。もし人間が、何かの目的をもってここにいるとしたら、それは人間を除く自然界をもてなすことだ、と私は思う。霊長類のセクシーな道化役者の一群。人間たちが、いい気分で何か音楽を演奏しようという気になれば、小さな生き物たちがみんな、耳を澄ませて近寄ってくるのだ。p323-324

現代人は、もはや狩りをする必要がなくなったが、多くの人々は肉なしではおれない。また、先進国では食料の種類が豊富に出回っており、肉を食べないことも簡単に選択できる。アメリカ市場用の肉牛を飼育する牧場をつくるため、熱帯地方の森林が伐採されている。口にする食べ物の生産される場所が遠く離れたので、表面的には気楽に食べられるが、明らかにその分だけ我々はさらに無知になってしまったものを食べることは、宗教儀式である。お祈りを唱えることにより、自分の心を清め、子供達を裁き、客を歓迎する。みんな同時だ。卵を、リンゴを、そしてシチューを見る。それは豊かさの証、過分の証、大変な再生産の証である。何百万もの植物の種子、それが米や粉に変わる。フライになった何百万ものタラは、決して成熟の時を迎えることもなく、また決して迎えない運命にあったのだ。無数の小さな種子は、食物連鎖における犠牲である。地中のパースニップの根は、いわば生きた科学の神秘であり、大地と空気と水から、砂糖分と風味を生み出す、もし肉を食べるとすれば、それは、ピンと立った耳と可愛い目をした、また頑丈な足と脈打つ大きな心臓をもつ注意深く大きな生き物の、その生命、飛び跳ね、ヒュッと飛び回る動き、それを食べているのだ。この事実をごまかすのはやめよう我々自身もまた、捧げ物になるのだろう。この身体はどこも食べ物なのだ。たとえ一気に飲み込めなくても、人間の身体は、小さな生物たちが、長い時間をかけ、ゆっくり食事をとるだけの大きさは充分にある。大洋の海底、数キロの深さに沈んだクジラの死体は、一五年にわたり、暗黒の世界の生き物たちに食料を提供するのだ。(p335-336

祈りのためには、自分の伝統の中から選んだ言葉が使える。さもなければ、自己流の言葉を作ればいい。何かの祈りを唱えるのに、不適切なことは決してなく、会話や宣言をそこに付け加えていい。こうした簡単で日常的で、昔ながらの、小さな行為こそ、我々を先祖全体に結びつけてくれるものなのだ。p337

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第8章 クマと結婚した娘

共存にはルールとマナーが必要だ
それを支えるのは、畏敬の念や無力の自覚ではないだろうか
それらが失われるとき、ルールは破られる
私たちは被害者になる前に加害者となる

私たちは国境を引いた
山も海も空も、誰かの所有となった
すべては人のものであるかのように

農薬で土壌は死に、やがて川や海を汚す
同時に腸内は必要な細菌を失う

固い道路や建物で地表は光を失い、
さらに皮肉にも太陽光パネルで光を失う

人は動物ではなく肉を食べるようになった
毎日圧倒する量を笑いながら食べている

動植物は自らの命でさえ分け合う
人は与えることなく奪おうとする
だからゴミや争いや病気が生まれる

そして今日もまた除草剤が使われる

Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第7章 道を離れて道を行く

道にはふたつの意味がある
ひとつは手がかり、或いは型としての道…
もうひとつは道が解かれたあとの無為の世界

道を歩くとは、
積み上げることではなく、
無駄なものを手放すことではないだろうか
言葉や道具や私を手がかりにするしかないが、
その呪縛から解かれるとき、
本当の道の中にいる

努力を少しでもすれば、学問も、実力も、表面的な成功も得られる。先天的な能力は、訓練により育ってゆくかもしれないが、訓練だけでは、荘子のいう「逍遥」の境地には至らないだろう。自分の心に潜む自己鍛錬とか頑張りへの指向の犠牲にならぬよう気をつけなければならない。ちっぽけな能力により技術やビジネスで成功しても、それでは、もっと自由な本来の遊戯三昧能力の何たるかを、決して知りえないだろう。道元は『正法眼蔵』で言う、「自己の探究とは、自己を忘れることである」と。「自己を忘れるとき、万物と一体になる」と。ここでいう「万物」とは、現象世界の全存在のことである。心が開かれると、我々の中に万物が満ちてくるのだ。(p272

『道徳経』は、「道」の意味について、最も見事な解釈をしている。この本は、こう始まる。「跡をたどれる道は本物の道ではない」と。「道可道非常道」と。これが第1章の冒頭にある言葉である。「跡をだどれる道は、『精神的な道』ではない」のだ。ものごとの実態は、道路のような直線的なイメージだけではない。修行の目的は、その「求道者」の努力の意識が忘れられたとき、初めて完成するのだ。道は難しいものではない。邪魔するものは何もないし、全方向に開かれている。にもかかわらず、我々は、自分で自分の道の邪魔をする。だから老師は言うのだ。「精進すべし!」と。(p273

登山家が山頂を目指すのは、雄大な眺めや、仲間同士の協力や友情や困難を克服する実感を求めるからだ。しかし、主な理由は、登山が、人を、未知の出来事の起こり、驚きに出会える「その場所へ連れていってくれる」からである。(p277

人間の技術や仕事などは、ゆるやかな秩序をもつ本来の野性の世界を、ほんのわずか反映したものに過ぎない。道路から飛び出して、分水嶺にある未知の場所へ出かけてみるのが一番だ。新しさを求めてではなく、人間の本来の場所へ帰ってゆくという感覚をもつためだ。「山道を離れて」という言葉は、「大道」の別名でもある。山道からぶらりと離れることは、野性の修行である。逆説的だが、その場所こそ、我々にとって最もいい仕事場なのだ。しかしながら、人間には小道や山道が必要で、これからも守り続けてゆくことだろう。誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ。(p280

MINAMIOGUNI/KUROKAWA

南小国・黒川トレイル – 19km

ここ最近は、暑さで調子を落とし、頚椎症で手足が痺れ、練習のタイムで比較する限り過去最悪のコンディションだったかもしれない(なぜか腰は楽になってる)…走り出すと意外と体は動いて昨年より30分早くゴール…昨年は尿路結石の手術後すぐだったし比較しても仕方ないのだけど、今日は悪いなりに走れたのかなと思う…

時間を気にせず走れている時がいい…
山や森に溶け込むような感覚になれる…

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大きな鳥にさらわれないよう

大きな鳥にさらわれないよう(2016)
著 川上 弘美
装画 nakaban

偶然同時に読んでいた『タネが危ない』(著:野口勲)と驚くほどリンクしていた…
クローン工場はメンデルの法則を利用したF1種(交雑種)を連想させる…
人間を地域ごとに隔離することは、固定種を維持する発想と重なる…
おまけに野口さんが携わった手塚作品も”大きな鳥”だ…

人工知能は答えに辿りつけない…
なぜなら知的認識とは「対象化」であり、答えからの「逸れ」だから…
知性が作り出すのはバーチャルな世界だ…
意味の世界のこと…

人の身体は意識(知性)を得て混乱した…
生のさまざまな姿は「私」や「欲望」や「孤独」へと変異した…
抑制や節度を失う時(ある意味神の不在によって)、バーチャルは暴走する…
知によって、人は依存症を患い、暴力装置と化す…

人工知能とは、知性が独立したものではないだろうか…
しかし人工知能は生(身体)を持たない…
動機を持たない、命令によって演算する装置に過ぎない…

人工知能に「私」や「欲望」や「孤独」は可能だろうか…
知の暴走はずっと前に始まっている…

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タネが危ない

タネが危ない(2011)
著 野口 勲

野生に損得はない…
すべてが分け合い、満ちている…
だからゴミも富も権力も生まれない…
でも私たちは恩恵を得るために何かを奪う…
それは歪みであり力…少なくとも私たちにとっての…
そして私たちは恩恵に正解を見てしまう…
海を汚すように自らを壊しているのに…

すべては自然の摂理なのだろう…
私たちは自然を破壊することができるわけではない…
ただ、人は自身の生きにくさへと自ら舵を切る…

自然と対のものがあるとするなら、それは知性が見せてくれるものだ…
何の抑制も節度もないとき、知性は必ず暴走へと誘う…

知性とは、本来ひとつのものを、切り取ったり、抽出したり、写したりする…
それら対象化は「逸れ」であり、答えを失うことに等しい…
人は知性によって分からなくなる…

そもそも畑で作物を育てることや、種を収穫して同種のものを育てることは、他の動物では為しえない知的作業であり、クローンを作る技術以外の何ものでもない…F1種とか雄性不稔がダメという話ではなく、それらを優先/奨励する流れが問題なのだろう…畑や道路を作ることが既に「逸れ」ていることを忘れたくない…危機感こそ必要なのだと思う…私たちは自分たちが何者なのかをもっと知るべきだ…

中和することの弊害も考えたい…無化、中和、矮小化、火消しの危険性…尖った部分を丸くする、極端な偏りを無くす、そういう作業は人にとって必要なものだろう…賢者の言葉を借りるなら「中庸」「中道」になるのかもしれない…それらは私たちの認識能力つまり「切り取る」ことへの警鐘なのだと思う…個々は個々であるだけに中和できてしまう…ただそのとき、問題のすり替えが行われたり、大きな流れを見失うこともある…「従うべき知り得ないもの」をいつも意識していたい…

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食べられることと…

私たち生き物は生き物を食べて生きている…
人間も、本来食べられる存在なのだろう…
すべてはそうやって環っている…

動物たちは襲う、逃げる…
彼らは唯一の手段を生きている…
答えを体現している…
彼らに死は訪れない…

死とは、人の発明品だ…
私たちは生を否定する…
食べられること、分解されることを否定する…
生き方を忘れてしまった…

人は動物を食べたいのだろうか…

人を食べたくない…
犬や猫を食べたくない…
牛や豚や鳥を食べたくない…

彼らはきっと私を私として認識できる…
私も彼を彼として認識できる…
同じ記憶を共有することもできる…

私たち人間や彼ら動物には主人を感じる…
代わりはありえない…

食べるのは最後の手段でありたい…
そのわりに人は、毎日圧倒される量を食べている…
笑いながら…

ハッピーアワー

ハッピーアワー(2015)
監督 濱口 竜介

夏に見たいと思ってた…
夏はどういうわけか古い記憶がよぎる…
まだ若く友人も多いときの記憶…

人を観たかった…
飢えてるのかもしれない…
期待通り、みんな一筋縄ではなかった…
みんな愛おしく感じた…

人は弱いし足りないし…
正解もない、だから…
強がるしかないし、勘違いするしかない…

すぐそばにある物語だ…
なにげに日常の検証を迫られる…
観終えると、少し優しくなれるのかもしれない…

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