ビジテリアン大祭(1934)
著 宮沢賢治
作家はデリケートな問題をオブラートに包んで語ることができる…クッツェーの「動物のいのち」にしろ、この「ビジテリアン大祭」にしろ、多くの人に是非読んでほしいが、読むのはおそらく菜食者だけだろう…相変わらず閉じている…そういう話かもしれない…肉食大国となった今日の日本をもし宮沢が見たらどう思うのだろうか…もし同様の作品を書くとしたら少し違う内容になっていたのかな…
まず菜食者をその理由で「同情派」と「予防派」に分けている…「同情派」は倫理的理由、「予防派」は健康を理由とする…主人公(宮沢?)は「同情派」…実行の方法から分類すると3つに分かれ、第一が完全植物食(ヴィーガン)、第二は乳製品&卵OK(ラクト・オボ・ベジタリアン)、そして第三は引用させてもらう…
「第三は私たちもこの中でありますが、いくら物の命をとらない、自分ばかりさっぱりしていると云ったところで、実際にほかの動物が辛くては、何にもならない、結局はほかの動物がかあいそうだからたべないのだ、小さな小さなことまで、一一吟味して大へんな手数をしたり、ほかの人にまで迷惑をかけたり、そんなにまでしなくてもいい、もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていい、そのかわりもしその一人が自分になった場合でも敢て避けないとこう云うのです。けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだんはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないようにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちをさっぱりすることにばかりかかわって、大切の精神を忘れてはいけないと斯う云うのであります。」(引用終了)
共食いの話になってる?…極論ですね…ただここには集約されている…自分だけ良ければいいのではない…それは肉食社会と相容れないことの表明であり、その振る舞いには(神なき)一神教的な要素がある…細かくこだわる必要もないと言ってるし、厳しい環境では肉食も仕方ないと言っている…大事なことはその精神だと…さすがすべて分かってらっしゃる…スナイダーとも話が合いそうだ…
以下はこの童話から離れて(刺激されて)の自論…
というより作中の登場人物にでもなったつもりで語りたい…
この童話の中でも栄養面の話が繰り広げられているが、確かに学術的資料なり情報はもしそれが唯一正しいものなら食を根底から揺さぶる力があるのだろう…しかし実際は水掛け論にしかならない…ヒトはどんな食事にしろ工夫次第で十分健康的に生きていける…とりあえずそういう結論でも問題ないと思う…健康でないなら工夫が足りないということだろう…世の中が菜食社会になれば知識も食材も容易に手に入ることだろうしハードルも下がるはず…栄養面の議論は前もって用意した結論に都合の良い情報を寄せてるだけ…情報は情報として工夫につなげればいいだけのこと…健康(栄養)の話は食を決定的に左右する理由にはなりえない…(*適応過程、依存性などを吟味する必要もあるがそれはまたいつか…)
問いたいのは何を犠牲にしているかということ…ヒトを食べるのか、他の動物を食べるのか、植物を、果物だけを、鉱物を、という話になる…さらにそれらと健康や環境を天秤にかけるのだろう…ここで大事なのは人は人を食べないだろうということ…よく動物も植物も同じ生物じゃないかという主張を目にするが、それなら人も同じように括ってほしい…ここでは勿論法律無視で考える…文化的な違いにも還元できない心理の根本的な部分への問いだ…極限状態での共食いの話でもない…人も生物なのだし同じように食べていいのではないか…食べられないとしたらそれは何故だろうか…私たちは同胞(コーラ・ダイアモンド参照)に対して「個」を感じ取っている…ペットにも「個」を感じ取っている…それは「代わりのない個」なのだと思う…「個」が明確であればあるほど、それは代わりがありえないものになる…個の消失は死であり、個を奪うことは「殺す」ことになる…身近なヒトに「個」を感じることで世の中の知らないヒトにも「個」を意識することができ、ペットに「個」を感じることで世の中の犬や猫にも「個」を意識するようになる…同じように牛や豚や鶏にも「個」を意識することができる…「個」が比較的曖昧な虫や菌ならその死は特別なものにはならないだろう…そしておそらく植物の在り方とはそれ自体が器官の在り方に近い…大地と大気を繋ぐ器官…主人ではなく主人を構成するもの…あるいは主人を無くした臓器…移植することができるもの…代わりが可能なもの…そこに「個」は存在しない…(*無関心、カーニズムなどは割愛)
自然界の動物と家畜は違うという主張もある…家畜の「いのち」は下等なのだろうか…改良され品種と呼ばれるようになるとその「いのち」は劣化するのだろうか…本質が実存に先立つということなのか…どこかの国が既成事実を作って島を占領する過程を見るかのようだ…奴隷時代に生まれた黒人は奴隷として生きそして死ぬしかないということなのか…殺されて食べられるためにこの世に誕生するという悲劇…人が生きるために家畜が必要な環境ならそれも仕方ない…感謝していただくしかない…しかし今日どれだけの人がそういう環境で生きているだろうか…欲望と結びついた食肉産業は天文学的数字の殺害を日々繰り返している…
美味さは正しさ(つまり自然)だとする主張もあるが、それなら白砂糖やタバコや薬物もオーケーなのだろうか?…菜食になって変化したのは食材や体調だけではない…美味いものを昔ほど追い求めなくなった…食に対し冷静になれている…素朴な味わいで十分になる…(*うちのレオが「*ゅーる」ばかり食べるようになり困っている…大丈夫だろうか…ところでペットのエサが実は大問題であって、ここを論じる方がよっぽど難しい…猫は肉食だ…)
生きるとか死ぬとか、そういう話はずっと繋がっているのだと思う…自分だけとか、自分の周りだけとかではなく、いのちを通じて広がっている話だ。動物を問うことは自分のど真ん中を問うことと同じ…食の考察は、結局こころの問題であり、コステロに言わせれば魂を問うことになるのだろう…
ずっと未来に、昔の人は肉を食べていたと聞かされびっくりする時代がくるかもしれない…歴史はまだ始まったばかりと考えることもできる…
以上、わたくしはかように思うのであります…
[…] それぞれの「個」を大事にしたいだけだ… https://hitkeas.com/2020/12/12/%e3%83%93%e3%82%b8%e3%83%86%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%83%b3%e5%a4%a7%e7%a5… […]
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