Supplément

人の自然な走法はベアフットランニングだろう
足底筋や足首関節は、自然のクッション機能を持っている
裸足でジャンプしたら前足部で着地するはずだ
四足動物や鳥のカカトは地面に触れることすらない
短距離選手は前足部で着地している
しかし長距離となると、ほとんどのランナーが踵着地になる
クッションを効かせたシューズが踵着地を可能にしている
身体に備わったクッションではなく、シューズのクッションが長距離走破を可能にしている
いま、自然な走法が見直されている…

人の本来の食性は果食だろう…果物や木の実を食べていた
人の身体構造は肉食ではなかったことを物語っている
咀嚼を可能にする歯や顎…
弱い胃酸や長い腸…
しかし人間は生きるために肉食を選択した
それに見合った進化もしているのかもしれない
ただ幸い食性に大きな変化はなかったようだ
いま、人は本来の食性に見合った食生活が可能だ
動物たちとの共存の仕方も考え直す必要があるのではないか…
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Différance

西洋思想は同一性を警戒している
形而上学、ロゴス中心主義、音声中心主義を避けたいからだ

「差延」「差異と反復」という言葉は「コマ送り」を連想させる
他との差異だけではなく時間的にも差異化する様子が窺える
しかし難しく考えなくとも「変化」と言えばいいことではないか…
言葉の世界は違いの世界であり、興味や関心で編まれた世界だろう
同一に見えるということは、観察者にとって極めてゆっくり変化していることを意味している
観察者の興味関心の範囲において同一に見えているに過ぎない
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PURE / NATURAL

いかなるものも在っていい
トランス脂肪酸
大麻
覚せい剤
放射性廃棄物

プラスティックが不純物に見えるのは人間だけだろう
放射能の脅威を知っているのも人間だけだ
地球は特に困ってはいない
地球に生物が住めなくなっても大したことではない
なるようになるだけだ
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SOMETHING

人は何となく「変化しないもの」を想定してるものだ
変化しない源泉である「何か」が「現れ」る
人に見えるのはいつも流動的な「現れ」だけだ
「何か」は不動でなくてはならず、人はそれを知り得ない…
在るのか無いのかさえ語れない…
可聴域や可視光線の範囲内でしか見聞きできない
ある視点から見ることしかできない
仮に視点を増やしたり、中に入ろうが同じことだ
結局、世界がどうなっているかではなく、認識のあり方であって…
つまり分かるものと分からないものが前もってあるのではなく…
分かるということは世界を創ることと同じだということ
人には創ることしかできない
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Parole / Écriture

話し手は同時に聞き手であり、
聞き手は同時に話し手である
奏者は自らの演奏を聞いているし、聞き手も独自の理解で奏でている

パロール的なもの(言葉、音楽、舞踏、映像…)
記録媒体を伴わない記号
発信者から受信者にダイレクトに伝わる何かだ
その場の空気や光や回線等を介して伝わるものだ
ライブ演奏などの音楽も同じことではないだろうか
電話やテレビなどを介していても同じだろう
人間の感覚の範疇でほぼ同時であること
なかでも言葉においては主従関係が強い
なかでも音楽などの場合は共振要素が強い
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Foucault

『性の歴史』ほか講義集成
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1『知への意志』

ヴィクトリア朝時代、正当な性とは夫婦間の性であり、それ以外の性は抑圧されていると思われた…果たしてそうか…
16世紀以降、キリスト教においては欲望すら戒めるべきものとされ、告解での告白が強要されていた…17世紀に入り、性の告白は教会から権力を行使する場(家族、学校、病院…)へと広がり、自然と家族友人隣人はお互い監視し合うようになる
性の知識と関心は子供達をも巻き込み自慰や性倒錯の発見と抑圧へと導かれる
様々な性のあり方がコード化(分類)され、生殖とは異なる性倒錯が区別され、矯正されるべきものとして認知されるようになる
性に対する言説は抑圧されていたわけではなく、むしろ扇動され管理されていた…
権力によって隠されるものを暴く快楽、逆にくぐり抜ける快楽…
そこには社会全体としての必然性もあった
性の問題は優秀な種の保存と結びつく
また、国力に結びつく出生率にも関係してくる
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Foucault

知のあり方は社会のあり方
社会のあり方は権力のあり方
権力を問うことは知を問うこと

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『監獄の誕生』

歴史を振り返ると、例えばローマのコロッセオでは公開処刑が娯楽となっていた…ルイ15世暗殺未遂のダミアンもノートルダム教会前で公開処刑になっている
公開処刑は権力側の見せしめだろうが、観客や見物人が大勢いるという事実は現代の感覚では計り知れないものがある
19世紀に入りフランスで公開処刑が無くなる
変わって「監獄」が誕生する……なぜか
公開処刑という行き過ぎた行為に対する妨害や、同情からか死刑囚を聖人扱いする事態となり、もはや見せしめが意味を失ってしまう……
さらに以前より多発、多様化する犯罪に対し、処罰するだけではなく教育する必要性が生じる……「見せしめ」から「教育」へ
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Foucault

歴史は視点によって違う顔を見せる
しかし例えばルネサンス期の当時の視点で当時の世界を見ることはできないと考えていいだろう
フーコーは文献から当時の知(認識)を読もうとした
その解読は現在の読み替えをも要求する……なにか進化論か地動説

分割できない世界から「それ」を浮かび上がらせるとき「それ以外」も同時に明確になる
「以外のもの」を作ることで「それ」を成立させている
人間の認識能力に関わることでもあるけど
どこで線引きするかは時代や社会の要請であることも…
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