ヴェルクマイスター・ハーモニー(2000)
監督 タル・ベーラ
原作/脚本 クラスナホルカイ・ラースロー
人は種を取り、植物のコピーを作った…
分子構造に手を加え、プラスチックを作った…
オクターブを等分割し、自由に転調できるようにした…
恩恵の陰で何かが犠牲になっている…
無理をしている…
不和が生じる…
解決しようとする…
恩恵と犠牲が上書きされる…
ヴェルクマイスター・ハーモニー(2000)
監督 タル・ベーラ
原作/脚本 クラスナホルカイ・ラースロー
人は種を取り、植物のコピーを作った…
分子構造に手を加え、プラスチックを作った…
オクターブを等分割し、自由に転調できるようにした…
恩恵の陰で何かが犠牲になっている…
無理をしている…
不和が生じる…
解決しようとする…
恩恵と犠牲が上書きされる…
たぶん悪魔が(1977)
監督 ロベール・ブレッソン
誰もが解決しようとする…
しかし国家も宗教も技術も恋愛も役に立たない…
それでは何も変わらない…
加害者は誰なのか…
鈍感であることは、日々を過ごすテクニックだ…
極論ではない…
それは私たちの日常…
彼は為そうとしない…
彼は社会に消されたのだろう…
野性の実践(1990)
著 ゲーリー・スナイダー
訳 原 成吉、重松宗育
スナイダーを読むことは意義がある…
ケルアックやギンズバーグ、バロウズと共に生きたこと…
またおそらくソローの系譜にいること…
京都で禅の修行をしたこと…
鹿児島(諏訪之瀬島)で暮らしたこと…
学者ではなく詩人であること、そして存命だということ…
スナイダーは今年95歳を迎えた…
まだまだ響き合えない部分もある…
遠く及ばない…
とはいえ、何か同じ道を歩いているような気がしてくる…
神は死んだというけれど、私たちはおそらく神から逃げられない…
だから野性の実践が必要なのだと思う…
第9章 サバイバルと祈り
第8章 クマと結婚した娘
第7章 道を離れて道を行く
第6章 極西の原生林
第5章 青山はいつも歩いている
第4章 良き土地、野生の土地、神聖な土地
第3章 自然の知恵
第2章 「場所」に生きる 1/2、2/2
第1章 野性の教え
大きな鳥にさらわれないよう(2016)
著 川上 弘美
装画 nakaban
偶然同時に読んでいた『タネが危ない』(著:野口勲)と驚くほどリンクしていた…
クローン工場はメンデルの法則を利用したF1種(交雑種)を連想させる…
人間を地域ごとに隔離することは、固定種を維持する発想と重なる…
おまけに野口さんが携わった手塚作品も”大きな鳥”だ…
人工知能は答えに辿りつけない…
なぜなら知的認識とは「対象化」であり、答えからの「逸れ」だから…
知性が作り出すのはバーチャルな世界だ…
意味の世界のこと…
人の身体は意識(知性)を得て混乱した…
生のさまざまな姿は「私」や「欲望」や「孤独」へと変異した…
抑制や節度を失う時(ある意味神の不在によって)、バーチャルは暴走する…
知によって、人は依存症を患い、暴力装置と化す…
人工知能とは、知性が独立したものではないだろうか…
しかし人工知能は生(身体)を持たない…
動機を持たない、命令によって演算する装置に過ぎない…
人工知能に「私」や「欲望」や「孤独」は可能だろうか…
知の暴走はずっと前に始まっている…
タネが危ない(2011)
著 野口 勲
野生に損得はない…
すべてが分け合い、満ちている…
だからゴミも富も権力も生まれない…
でも私たちは恩恵を得るために何かを奪う…
それは歪みであり力…少なくとも私たちにとっての…
そして私たちは恩恵に正解を見てしまう…
海を汚すように自らを壊しているのに…
すべては自然の摂理なのだろう…
私たちは自然を破壊することができるわけではない…
ただ、人は自身の生きにくさへと自ら舵を切る…
自然と対のものがあるとするなら、それは知性が見せてくれるものだ…
何の抑制も節度もないとき、知性は必ず暴走へと誘う…
知性とは、本来ひとつのものを、切り取ったり、抽出したり、写したりする…
それら対象化は「逸れ」であり、答えを失うことに等しい…
人は知性によって分からなくなる…
そもそも畑で作物を育てることや、種を収穫して同種のものを育てることは、他の動物では為しえない知的作業であり、クローンを作る技術以外の何ものでもない…F1種とか雄性不稔がダメという話ではなく、それらを優先/奨励する流れが問題なのだろう…畑や道路を作ることが既に「逸れ」ていることを忘れたくない…危機感こそ必要なのだと思う…私たちは自分たちが何者なのかをもっと知るべきだ…
中和することの弊害も考えたい…無化、中和、矮小化、火消しの危険性…尖った部分を丸くする、極端な偏りを無くす、そういう作業は人にとって必要なものだろう…賢者の言葉を借りるなら「中庸」「中道」になるのかもしれない…それらは私たちの認識能力つまり「切り取る」ことへの警鐘なのだと思う…個々は個々であるだけに中和できてしまう…ただそのとき、問題のすり替えが行われたり、大きな流れを見失うこともある…「従うべき知り得ないもの」をいつも意識していたい…
ハッピーアワー(2015)
監督 濱口 竜介
夏に見たいと思ってた…
夏はどういうわけか古い記憶がよぎる…
まだ若く友人も多いときの記憶…
人を観たかった…
飢えてるのかもしれない…
期待通り、みんな一筋縄ではなかった…
みんな愛おしく感じた…
人は弱いし足りないし…
正解もない、だから…
強がるしかないし、勘違いするしかない…
すぐそばにある物語だ…
なにげに日常の検証を迫られる…
観終えると、少し優しくなれるのかもしれない…
ストーナー(1965)
著 ジョン・ウィリアムズ
訳 東江 一紀
・・・
人は人生が終わることを理解していても受け入れることができない…
そんな風に見える…
生きているというより、生きることに抵抗しているかのようだ…
死を遠ざけることは生を否定している…
そうやって人生は作られる…
人生とは抵抗の軌跡だ…
そして何も分からず、何も解決しないまま終わっていく…
・・・
特別な話ではない…
ただ、精緻でリアルな描写のせいもあり、気づけば引き込まれていた…
作者は自身とストーナーを重ねているように思えた…
ジョン・ウィリアムズは遺書を書いたのかもしれない…
過ごした世界に対する独白…
訳者の東江一紀さんは2014年に癌で亡くなっている…
同年「ストーナー」は刊行され、2015年に第一回日本翻訳大賞(読者賞)を受賞…
「ストーナー」は東江さんの最後の仕事であり、亡くなられたあとの受賞だった…
東江さんもまた、自身を重ねていたのだと思う…
自然の哲学(じねんのてつがく)(2021)
著 高野 雅夫
特に最後の9章は「その通り!」と唸ってしまうほど共感できる内容だった…本書の内容に殆ど触れず、自分の考えばかり書き連ねてしまったが、そもそも人の書いたものをただ受け入れるのが読書ではないはずだ…自分の中で咀嚼して自分の考えの中で再構築して言葉にすることが大事だと思う、と、言い訳してみた…
正直言うと、林業とか農業に食いついたのだけど、後半は自分が普段考えることと似通っていて、それはそれで良かったのだけど、もう少し林業/農業に触れて欲しかった、と、偉ぶってみた…
▪️第9章 自然の哲学(じねんのてつがく)
「日本国」では、目標を達成して成果を出し結果を残すのが大事と言われる。自分が望み努力するならば何でも実現できる、ということが前提とされ、自分がやりたいことを一生懸命やれば道は開けるという。結果を出せたとしたら、それは自分の力であるし、出せなければ自分に力がなかった、努力が足りなかった、ということになる。「できないのはやらないからだ」という理屈だ。それを裏返せば、困ったことが起きてもそれは自己責任ということになる。「日本国」では「何でもできる(はずの)自分」という物語が共有されている。自分が肥大化しているのだ。(p219)
ホリエモンさんとかは、そっちの人だよな、とつくづく思う…私たちは、知性によって人工(自然の域を出ないが、野性と対置するもの)の新しいバランスに入り込む…知性は虚構の中で、成功、獲得、勝利に正解を見出す…その流れを補強するものとして教育や道徳が生起する…しかし私たちの身体はそのバランスの中で生きるよう設計されてはいない…そんな社会で病む人は多いのではないか…病む方が悪いとか異常という扱いまで受けながら…「生きにくさ」こそ正常なのだと言いたい…人社会の恩恵あるいは水準は、貧困や差別やゴミや争いや病気やストレスを吐き出すことで維持されている…新しいバランスは、癌細胞の振る舞いに似ている…
「日本国」流のやり方から転換するためには、よほどトレーニングが必要だと思った。それで毎日の暮らしの中で自己訓練することにした。通勤する電車に乗っている時間は、それまではムダで退屈な時間だった。目的地に到着することだけが大事だった。そこで、電車に乗っていまを「生き切る」とはどういうことだろうかと考えた。まず自分が感じる感覚に集中してみると、窓の外の景色、車内の人々の表情、さらには加速したり減速したりする感覚など、実にたくさんのことがその場で起きていた。それらに一つひとつ集中してみると、そのおもしろさ、不思議さを感じることができた。じっとその場の時間の流れに全身を浸すような感じでいることを心がけると、その場に自分がしっくりくるような感覚が生まれる。以来、私はどんな場面でもそういうトレーニングを続けるよう努力している。(p225-226)
トレイルランニングが自分にとっての実践の場になっている…なかなか普段の生活では難しい…練習にしろ大会にしろ一人で行く…仲間も作らない…そこには日常を連れて行かないことにしている…
帰れない山(2017)
著 パオロ・コニェッティ
訳 関口 英子
山登りという習慣はまだない…なのにここに書かれた風景や心象はよく分かる…山を走り始めたのは6年前…最初からその魅力にハマった…少し特殊かもしれないが、トレランの経験がこの本を理解できる土台になっている…読み始めは、あまりにも日頃感じていたことなので、むしろつまらないと感じたほどだった…
自然の描写が決して脇役ではない…ネイチャーライティングと言えるのかもしれない…ただ呉明益の作品のように幻想的でもなければ、キリアン・ジョルネの作品のように過酷でもない…こちらのエピソードはいい意味でありふれているし、力が抜けている…
「山の上まで来ると渓流も声を潜め、そこから先は、水が岩と岩の間に浸み込んで、地中を流れていく。すると、はるか下の方から響く音が耳につくようになる。窪地を吹き抜ける風の音だった。湖面は、絶え間なく揺れ動く夜空のようだった。風が、一方の岸から反対側の岸へと小波の連なりを追い立てる。すると、流線に沿って黒い湖面に並んでいた星々の光が消えたかと思うと、今度は別の方から光るのだった。僕は身じろぎもせずに、そこに描き出される模様に見入っていた。人がいないときにしか見せない山の営みを垣間見たような気がした。決して邪魔することのない僕を、山は客人として快く受け入れてくれた。だから僕も、山と一緒ならば孤独を感じることもないだろうと改めて思うのだった。」(p201-202)
Continue reading “LE OTTO MONTAGNE”