The Practice of the Wild
GARY SNYDER
▪️第9章 サバイバルと祈り
いますぐなすべきこと、そして戦うべき相手は、ほかならぬ自分自身の中にある。大地の女神、ガイアが、人間からの祈りや慰労を大いに必要としていると考えるのは、傲慢というものだ。危機に瀕しているのは、ほかならぬ人間自身である。それは、ただ文明のサバイバルなどといった次元ではなく、もっと本質的な、精神と魂の次元の話なのだ。人間は自分たちの魂を失ってしまう危険に直面しているのだ。我々は、自分自身の本性に無知で、人間であることが何を意味するのかについて混乱している。本書の大部分は、人間たちがどんな存在であったか、何をしてきたか、そして、かつて人間がもっていた、したたかな生きる知恵を思い起こさせるために書かれたものだ。アーシュラ・ル・グィンの『いつも家路に』−本物の教えの本−のように、本書は、人間であることとは何かについての瞑想である。氷河期から1万2千年後と、これからの1万2千年のあいだの、現在のこの時間だけが、人間に与えられたささやかな領分なのだ。このふたつの万年のあいだに、人間が、相互に、また世界とともに、いかに生きたかによって裁かれ、また自らを裁くことになるだろう。もし人間が、何かの目的をもってここにいるとしたら、それは人間を除く自然界をもてなすことだ、と私は思う。霊長類のセクシーな道化役者の一群。人間たちが、いい気分で何か音楽を演奏しようという気になれば、小さな生き物たちがみんな、耳を澄ませて近寄ってくるのだ。(p323-324)
現代人は、もはや狩りをする必要がなくなったが、多くの人々は肉なしではおれない。また、先進国では食料の種類が豊富に出回っており、肉を食べないことも簡単に選択できる。アメリカ市場用の肉牛を飼育する牧場をつくるため、熱帯地方の森林が伐採されている。口にする食べ物の生産される場所が遠く離れたので、表面的には気楽に食べられるが、明らかにその分だけ我々はさらに無知になってしまった。ものを食べることは、宗教儀式である。お祈りを唱えることにより、自分の心を清め、子供達を裁き、客を歓迎する。みんな同時だ。卵を、リンゴを、そしてシチューを見る。それは豊かさの証、過分の証、大変な再生産の証である。何百万もの植物の種子、それが米や粉に変わる。フライになった何百万ものタラは、決して成熟の時を迎えることもなく、また決して迎えない運命にあったのだ。無数の小さな種子は、食物連鎖における犠牲である。地中のパースニップの根は、いわば生きた科学の神秘であり、大地と空気と水から、砂糖分と風味を生み出す、もし肉を食べるとすれば、それは、ピンと立った耳と可愛い目をした、また頑丈な足と脈打つ大きな心臓をもつ注意深く大きな生き物の、その生命、飛び跳ね、ヒュッと飛び回る動き、それを食べているのだ。この事実をごまかすのはやめよう。我々自身もまた、捧げ物になるのだろう。この身体はどこも食べ物なのだ。たとえ一気に飲み込めなくても、人間の身体は、小さな生物たちが、長い時間をかけ、ゆっくり食事をとるだけの大きさは充分にある。大洋の海底、数キロの深さに沈んだクジラの死体は、一五年にわたり、暗黒の世界の生き物たちに食料を提供するのだ。(p335-336)
祈りのためには、自分の伝統の中から選んだ言葉が使える。さもなければ、自己流の言葉を作ればいい。何かの祈りを唱えるのに、不適切なことは決してなく、会話や宣言をそこに付け加えていい。こうした簡単で日常的で、昔ながらの、小さな行為こそ、我々を先祖全体に結びつけてくれるものなのだ。(p337)