RETOUR

それらは不可解だ…
おそらく失くした答えを取り戻そうとしている…

それは野性の発露なのだろう…
身体が喜ぶこと…
あるいは癒し…

それは作品なのだろう…
どう育んで、どう終えるのか…
自分の中で響かせるもの…

それは力を持たない…
役に立たない…
知性は主役ではない…

文学でさえも、知性は主役ではない…
むしろ知性をほどく行為なのだと考えたい…
だからおそらく瞑想の系譜にあるもの…

TRAIL RUNNING

目指しているものがあるわけではなく…
むしろただ感じたい…

ネジが緩んでる?
むしろ緩めるために…

動物は答えを知っている
植物も知っている…
知らないのは私たち人だけ…

答えは私たちにも見えている…
ただ答えに見えない…
分からない…

代わりに意味を求める…
答えが欲しいのに…
意味を受け取ろうとする…

すべては答えでしかない…
私たちの意識がバーチャルなだけ…

身体がバーチャルを振り切ろうとする…
私を振り切ろうとする…

本来過ごすべき場所で…
見て、嗅いで、吸って、吐いて…
身体が求める動きの中で…
自然が与える負荷の中で…
自らを振り解く…

PROGRESS/RIGHT/FORCE

肥大化した脳は意識を作った…
意識は答えの代わりに意味を作った…

意味とは、成功、勝利、達成への道筋のこと…
名前も同じベクトルの中にある…
つまり「それ」という単位が作られる…
恣意的分離、抽出…

バーチャルな世界の誕生…
それは答えを持たない…
常に成功、達成、勝利、獲得、実現、正解を目指す…
それは犠牲を伴う…
犠牲という意味を伴う…
私たちにとっての犠牲…
例えばゴミ、貧困、争い、ストレス…

恩恵は犠牲を伴う…
その構造を暴力と言う…

知性はその本質に暴力性を備えている…
ただしそれもバーチャルなものだ…
私たちにとっての暴力…
動物にとってゴミは、ゴミでもゴミ以外でもない…

進歩も、正解も、力も…
すべてバーチャルなもの…
私たちは常に進歩を手に入れる…
いつも進歩…
森の木々や川や動物になることはない…

なぜ便利になるのか…
元々身の丈でないから…

私たちは変えることができるわけではない…
バーチャルな世界を生きているだけ…
常に求め続ける…

私たちの身体は野性に属している…
身体は苦しんでいる…

取り戻すべきものがある…

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FIT

成功や獲得や達成は私たちに正解を見せてくれる…ただそれは調和とか適応とは違うものかもしれない…手に入れることだけではなく、手放すことも必要なのではないだろうか…できることを少しずつでいい…この社会は元々私たちにフィットしていない…争い、貧困、ゴミのことはもちろん、そもそも身体にフィットしていない…地球と身体に、つまりその能力にフィットしていない…精神的ストレスと環境破壊は同質のものだ…

知性が身体を借りて見ようとする…
知性が身体を侵食し始める…
目は曇り始める…

答えを見失い意味が始まる…
より優位に、より便利に、より刺激を…

バーチャルが始まる…
喪失が始まる…

私たちは無理をしている…
背伸びしている…

恩恵と犠牲は新たな調和なのだろう…
この世にプラスチックが生まれても、
そのうち私たちがいなくなるにしても、
何の不足も余剰もない…

それでも私たちは求める、苦しむ…
フィットしていないから…

私たち動物に本来備わるものがあるとして…
その何かとうまく付き合うべきなのだろう…

まだ覚えているなら…

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ध्यानं

デカルトに倣って精神と肉体の二元論で考えてみよう…すると肉体はまるで無表情であるかのように思えてくる…悲しんだり楽しむのは精神の振る舞いなのだと…自分には精神と肉体は不可分であるように思える…むしろ悲しみ喜ぶのは肉体ではないのか…精神とは身体に属する何かであり、心とか魂も同じ括りの何かだ…それらとは違うもの、つまり身体とは違う別の何かがある…知性(とりあえずそう呼ぶ)は見たり聞いたり悲しんだり喜んだりはしない…無表情だ…それはバーチャルなものを生産する装置…

知性は「私」とともにある…それは身体に備わる自己ではない…身体は常に周囲と引き合っている…「私」は引き裂く…「私」は「死」とともにある…「死」とはバーチャルの属性…「私」が消えるとき「死」も離れていく…

巷では瞑想とかマインドフルネスが流行っているようで、安っぽさに拍車がかかっている…Thích Nhất Hạnh が google 本社で伝えたかったこと、それは本意とは違う方向に向かっているように思えてならない…

心を無にすると言う…そうだろうか? 無にするのは「私」ではないだろうか…おそらく裸の心は完全なのだと思う…「私」が目隠しをしている…閉じ込めている…

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COURIR

何のために走るのか…
「何のために」から解放されたいから…

何が楽しいのか…
身体が喜ぶから…

身体とは何だろう…
それは「私」ではない…
自然と不可分のもの…

ランニングは「私」の麻痺だ…
「私」の緩和が身体を癒す…

心と身体という対比ではなく…
精神と肉体という対比でもない…
心、精神とは、身体のひとつの在り方ではないだろうか…

「私」と身体という対比が馴染む…
「私」との対話ではない…
「私」と向き合っているのでもない…
「私」を消そうとしている…

負荷が必要なのだろう…
「私」を壊すために…

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KIRISHIMA

第11回 霧島・えびの高原エクストリームトレイル – 65.5km(DNF)

昨年同様、最終エイドでリタイヤを決めた…今回は頚椎症(頭痛、吐き気)と腰痛に耐えられなかった…ちょうど1週間前に熱中症らしき症状が出てだるかったのでそっちを疑ったのだけど、レース後の首周りの症状からしておそらく頚椎症の方だろう…腰痛の方は今年に入って一番良い状態だった…いちおう予防でブロック注射してもらったのだけど、注射そのものの痛みが着地の際に響いた…想定外の痛み…いままでは元々の痛みで分かりにくかったのかも…

完走は大会の醍醐味だ…ただ自分がトレイルランに求めているものは違う…完走は最高の特典であり最高のオプションなのだろう…山を気持ちよく走り、程よく負荷を感じたい…そういう要素が大会にもある限りは参加したい…自分で近所の山に行けばいいのかもしれない…しかし走りたい山はそう見つかるものではない…動物や虫の襲来も怖いし、道に迷うリスクもあるし、不法侵入はしたくないし、そもそもいろんな山(或いは知らない山)を走ってみたい…だから大会に出場するのが安全で手っ取り早い…走る契機にもなるし、モチベーション維持のためにもいい…

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WEAKNESS

弱さは決して悪ではない…

そもそも地球上で一番の邪魔者は人類だろう…
人社会に馴染むことが何を意味するのか…

人と家畜の異常発生…
森は焼かれ、山は削られ…
地表は縦横に固められ、硬い構築物が乱立する…
スマホを手放せない…
ミサイルを手放せない…

人社会は強者の論理で動いている…
そうでない社会は衰退する…
恩恵のために犠牲に目を瞑る…
ゴミ、貧困、差別、動物の犠牲…人社会の排泄物…

教育はそういう社会への適応を促す…
ライオンが狩りを教えることとは何かが違う…

一方で、私たちに他の道があるわけではない…
だから教えなくてはならない…
何を…

私たちは答えのない世界に生きている…
そして常に加害者として生きている…
そういう側面を教えているだろうか…

戦争をしなくなったら賢くなったのだろうか…
環境破壊、自殺、ハラスメント…
相変わらず同じことが繰り返されている…
いま、この意識の中で…

より便利に…
より優位に…
より刺激を…
その中に隠れている…

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ABOVE THE CLOUDS

雲の上へ(2018)
著 キリアン・ジョルネ
訳 岩崎 晋也

なぜ山に登るのか…
なぜ山を走るのか…

球磨川を走るだいぶ前に読み始めた…
しばらくトレーニングとか準備で本と向き合うことができずにいた…
読み終えたのはレースの一週間後…
天と地ほどの差があるとはいえ、接点は少なくない…

以下キリアンの言葉…

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STOP MAKING SENCE

STOP MAKING SENCE(1984)
監督 ジョナサン・デミ
音楽/出演 トーキングヘッズ

意味は意味を求める…
いつも何かが足りない…
苦しみ、不安、退屈、不便…
それらと共にある…

動物も同じような行動をするかのように見える…
しかしその世界はすべてが答えなのだろう…
動物はゴミを生まない…
理由を持たない充ちた世界…

意味とは歪みであり力…
私であり答えの喪失…
恩恵と犠牲…

人は常に答えを探している…
やめられない…

意味を和らげること…
有用性、道徳からの解放…

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