Jiddu

The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti

▪️第3章 個人と社会
真理を発見するためには
 あらゆる主義・主張から自由でなければならない 
社会は貪欲と羨望−優越したものに対する
 あなたの羨望を根底にしている

「観念というものは、常に敵意と混乱を生み出します。ですから、もしあなたが左派や右派の思想の本や、あるいは聖典などに依存しているならば、あなたは、仏陀やキリストや、資本主義や共産主義などの単なる「見解」に依存しているのです。…今までに他の人たちが言ったことを捨てることが必要ではないでしょうか。」(p28)

「社会は「あなた」と「他の人」との、「あなた」と「私」との人間関係の働きなのです。それゆえ、この不断の内部の革命と、この創造的な心理の変換がないかぎり、その社会は静的なものになり、活気のある働きを喪失してしまうのです。社会が常に静的で固定化し、そのため繰り返し粉砕されなければならなくなるのは、この内部の革命を欠いているためなのです。…ありのままのあなた自身、あなたの思考や感情、それにあなたが日常生活でやっていることなどが、そのまま外部に投影され、それが世界になっているのです。もし、私たちの心の内部が悲惨で、混乱したり、混沌としていれば、その投影されたものがそのまま世界や社会になるのです。」(p30-31)

「この社会は貪欲と羨望−優越者に対するあなたの羨望−を根底としています。…羨望は、私たちの人間関係の中で最も破壊的な要因のひとつになっています。…「あなた」と「私」の関係には、表面的には尊敬の形を装っていますが、実際には多くの悪意が存在しているのです。…ここから、嫉妬や腹立ちや怒りが生み出され、さらにこのような感情が私たちの人間関係の中に絶えざる闘争を引き起こすのです。…信念というものは、愚かさを示しているのです。なぜならば、信念は人間関係を分離させるもので、結合させるものではないからです。」(p32-34)

「外部の行為は、ひとたび完了して片付いてしまうと、静止してしまいます。そして、もし社会を構成する個人と個人の関係が、心の内部の革命の結果として生まれなければ、その社会機構は静的なものになって個人を吸収し、その結果、個人をも同じように静的で反復的なものに変えてしまうのです。…社会は常に固定化の傾向にあり、常に個人を吸収しようとしていること、また、不断の創造的革命は、社会や外部にではなく、個人の内部にのみ起こりうるということ、これは明白な事実です。」(p35)

「一体なぜ社会は、現在はっきりみられるように、音を立てて瓦解してゆくのでしょうか。その根本的な理由の一つは、個人が、「あなた」と「私」が創造的でなくなってしまったからなのです。…つまり、「あなた」と「私」が模倣的になり、外面的にも内面的にも模倣しているということなのです。…あなたは、創造的な瞬間や、生き生きとした興味を感じるあの幸福な瞬間には、反復や模倣の感じがないことに気づいたことがないでしょうか。こういう瞬間は、常に新しく、新鮮で、創造的で、幸福なのです。このようにして私たちは、社会の分解の原因の一つはこの模倣であり、模倣は権威の崇拝にほかならないということが理解できるのです。」(p37-38)

争いや混乱であれ、その状況を「静的」と表現している…それは躍動する生と、追従できない知性とのギャップなのかもしれない…慌ただしい競争社会も、それは個人が鈍くなっていることの現れなのであり、逆に個々のパフォーマンスが上がることによって、社会はゆとりと平穏を取り戻すと…

ホッブズの自然状態を思い出すが、もっと柔軟に考えるべきだろう…ホッブズの自然状態は、思考を介した状態であり、人間の本来の姿というわけではない…知性によって病的になってしまった人間の姿なのであって、人には別の可能性、本来生きるものが持っている共生の感覚があるように思う…クリシュナムルティに言わせれば、ホッブズの自然状態は「静的」な状態だ…その状態から考えるのか、それとも別の可能性を含めて考えるのか…

今の社会を変えたいなら、政治や宗教や思想ではなく、個人の改革が必要だとクリシュナムルティは言う…こういうとそれは理想に過ぎないと言われそうだが、クリシュナムルティはそれが唯一の道だと言う…目の前のことに取り組むことは確かに必要だが、それによって何かが変わるだろうか…事態は悪化しているようにしか思えない…私たちはこの理想を無視し過ぎている…

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里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第5章 「お金」の物語から自由になる
▪️第6章 解けなくなった人生方程式

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

率直に話せば、SDG’sは茶番と言いたい…「疎外」にしても、それは人が作るあらゆる組織や繋がりが内包するものであり、特別なものではないと思う…また、地球上の人と家畜の個体数は異常なのであって、決してスルーできることではない…

知性は切り取ることができないものを切り取る…つまり勘違いを作り出す…いつも切り取られた恩恵に正解を見て、避けられない犠牲を視界から葬りさる…貧困や戦争や環境破壊やストレスに目を向けたとしても同じことを繰り返す…それが知性だ…知性とはバーチャルな世界を作る装置…国家も会社もお金も虚構…そして「私」や「あなた」や「神」も虚構なのだろう…神や自然への信仰が薄れ、無意識に知性信仰へと移行していった…抑制を失い、競争社会への拍車がかかった…ただそれは遥か昔から準備されていたものだ…野生には、エネルギーも、食べ物も、自由も、平等も、善悪もない…私たちはバーチャルな世界で富や得や力を作り出し振り回されているにすぎない…自然環境や動植物が蚊帳の外になるのは自明のこと…ヒト中心世界で、それらは利用するものでしかない…教育の最大の問題点は昔も今も国内も海外も変わらない…それは私たちが何者なのかを教えないこと…人社会での生き方を教えながら、自分で考えないよう訓練していること…誰も私たちが「チッソ」だとは教えない…

オフグリッドは「里山」の理念と呼応するものがある…スナイダーの「場所に生きる」ことにも通じるのではないだろうか…人は答えを失くした動物…辿り着けないことは分かっている…要はどこを向いているかだ…どこに答えを求めるのか…人社会に求めるのか、自然に求めるのか…

自分で考えること

スピノザに依れば自由意志など無いわけだけど、ある意味そういう感覚を大事にしたい…答えを失くしている感覚、あるいは勘違いしている感覚…

道徳、普通、常識とは、集団(国家、会社、任意団体、家族、飲み仲間…)が維持される時、構成員の中に自ずと育つものだろう…それは集団が作る社会を肯定、サポートするように働く…具体性を持たず、常に変化しながら、無意識に、社会が持つ「力」をなぞろうとする…尖ったことやはみ出したことは嫌われる…例えば「肉は食べない」と言うと、頭が足りないか陰謀論好きとでも思われるのかもしれない…菜食が正しいと言いたいのではなくて、肉食を支える根拠は案外薄っぺらいものだということ…動物が殺される暴力よりも、肉食が容易に是とされていることに暴力性を感じる…

仏教なら「師を信じるな」「言葉を信じるな」と言うのだろう…キリスト教やイスラム教は違う…「それをしなさい」「それをしてはいけない」と言う…つまり「自分で考える」ことを遠ざける…創始者や預言者を否定するつもりはない…むしろ興味はある…ただ、エルサレムを聖地とするそれら宗教の在り方が好きになれない…宗教の多くは国家と相性がいい…国家は富や権力の効率化のために生まれ、同じ力学の中で今日も維持されている…

子供たちが泣き、騒ぎ、喧嘩し、空気を読まなかったとき、大人は何を感じているだろうか…当然のように上目線に立ち、そして語りかけるのだろう…しかしそれは人社会での生き方を教えているに過ぎない…生きた(活きた)世界のことではない…逆に子供たちの中では大人が失くしたものがまだ息づいているのではないだろうか…子供の世界は虫や動物たちがいっぱいだ…ある意味大人たちは教えることで子供たちの可能性を奪っている…

世の中は常に少し前より便利になっている…そういう社会に生きている…便利になっているはずなのに、時間は「やること」で埋まり身動きがとれなくなり、さらに「やること」がないことは悪いことになってしまった…もっと自分や世の中をじっくり掘り返して考える(ほどく)時間があってもいいのではないだろうか…

吉本隆明が「引きこもれ」と言ったことを思い出す…

The One Straw

「子供は無知にして明晰、仏に近く、大人は学び知恵多くして昏迷、仏に遠い馬鹿となる」(p184)

わら一本の革命
著 福岡正信

第4章 緑の哲学 – 科学文明への挑戦

「人間の知恵は、いつも分別に出発してつくられる。したがって人知は分解された自然の近視的局部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることはできないので、不完全な自然の模造品を造ってみて、自然がわかってきたと錯覚しているにすぎない。」
「人間は本当に知っているのではないということを知ればよい。人知が不可知の知であることを知れば、分別知がいやになるはずである。分別を放棄すれば、無分別の知が自ずから湧く。知ろう、わかろうなどと考えなければわかるときがくる。緑と赤を分ければ、その瞬間から真の緑や赤は消える。天地を分別すれば、天地はわからないものになる。天地を知るためには、天地を分けず、一体としてみるしかない。天と人の融合である。統一、合体するためには、天地と相対する人間を捨てる、自己滅却以外に方法はない。」(p153)

走ることは自分を緩める方法だと思っている…
「自分を緩める」とはいわゆる「瞑想」ではないだろうか…

「人類の未来は、何かをなすことによって解決できるのではない。自然はますます荒れ果て、資源が枯渇し、人心が不安におののき、精神分裂の危機に立つのは、人が何かをなして来たからである。なにをすることもなかった、してはならなかったのだ。人類救済の道は、何もしないようにしようという運動でもする以外に方法がないところまで来ている。発達より収縮、膨張より凝結の時代にきている。科学万能、経済優先の時代は去り、科学の幻想を打破する哲学の時代が到来している。なんて言い出すと、達磨さんが黙ってにらんでいるようだ。達磨さんとにらめっこするしかない。笑った方が負けである。笑い事ではない。」(p157-158)

「神」が力を持っていた時代を経て、いま「知」が力を持っている…人はいま「知」を絶対視し崇拝している…それはただ、神が知に変わっただけのこと…いわゆる宗教に冷めた視線を送りながら、実際は気づかないうちに新しい宗教に染まっている…

「胃の弱い人間を作っておけば、消化しやすい白米がありがたがられる。消化しやすい白米食(粕)を常食にしておけば、栄養が不足してバター、ミルクという栄養素が必要にもなる。水車や製粉工場は人間の胃腸の働きの代わりをして、胃腸を怠け者にすることに役立っただけである。」(p166)

人はいつから多品目食になったのだろうか…なにかと「何でも食べろ」という言葉が幅を利かせている…他の動物は粗食でありながら栄養の偏りや不足はない…そういう意味で何かが退行しているのではないか…国や地域で自給ができなくなるのと同じように、ヒトは粗食から遠のいてしまっている…なんでも食べろと言う前に、土壌や腸内環境を含め精査し、粗食の可能性をもう一度見直すべきじゃないだろうか…「何でも食べろ」は、病や環境破壊を肯定(つまり思考停止)している…

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Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

教育や伝承について語っている…

▪️第3章 自然の知恵

ダンスや音楽は自然の知恵を伝承するものそれが過去のものとなったとき、完全に再現するのは難しい

「トウモロコシ、米、トナカイ、サツマイモ。これで土地と文化が分かる。植物は土壌と降雨量を表し、食料は社会とその生産システムを反映している。そして、もう一つの手がかりが、その土地の「歌とダンス」だ。歌い手、演奏家、物語の語り手、仮面の制作者、そして踊り手が一堂に会す。これは日々の暮らしの花である。踊るのは人間だけではない。ワタリガラス、シカ、ウシ、それに雨や嵐が顔を出す。ダンスの中で多くの人間的本性と非人間的本性が互いに出会い、また場所とも出会う。ダンスは場所の一部となり、場所がダンスの一部となる。芸術と経済はどちらも捧げものの交換に基づくものであり、とりわけダンスは、大昔から果実、穀物、あるいは狩りの獲物に対するふさわしい捧げ物であった。このような行為こそが、がめつくて傲慢になりがちな我々の根性を正すのにも役立っているのだ。」(p98

アラスカ北西部に伝わるイヌピアクの「祖母の知恵」人類にとって時代を超えた基本的価値が明記されているしかしそこに部外者との付き合い方が書かれているわけではなかった単純に解釈するなら「西洋文明」との付き合い方のことだろう

「世界の民族には「祖母の知恵」がまだ残っている。(その中にキリスト教の十戒のいくつか、それに仏教の十戒の最初の五つの戒を、私は含めたい)。そしてもう一方では、中央集権化とヒエラルキーをめざす「知恵」がある。今の我々はこの狭間に立たされている。子どもたちは矛盾した教えを耳にしながら成長していく。」(p110

「祖母の知恵」がなくなることは考えにくいしかし西洋の侵食に抵抗することはできないだろうネイティブ・アメリカンの文化はほぼ消滅し、アマゾンの少数部族も今ではスマホを使っているらしい

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The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

スピノザ、般若心経、レヴィ=ストロース、ソロー…もし読んだことがあり腑に落ちるものを感じたのなら、福岡氏の言葉もおそらく届くのではないだろうか…一般的には距離を置きたくなるような話だ…なのに自然農法あるいは自然農に惹かれる人は多い…農法が多くの人を惹きつけるツールになっている…

第1章 自然とは何か(無こそすべてだ)

「人間というものは、何一つ知っているのではない、ものには何一つ価値があるのではない、どういうことをやったとしても、それは無益である、無駄である、徒労である。」(p8)

「今まである、ある、と思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ、ということがわかったような気がしたんです。私はまさに狂喜乱舞というか、非常に晴れ晴れとした気持ちになって、その瞬間から生き返ったような感じがしました。とたんに、森で鳴いている小鳥の声が聞こえるし、朝露が、のぼった太陽にキラキラ光っている。木々の緑がきらめきながらふるえている。森羅万象に歓喜の生命が宿るというか、ここが地球の天国だったということを感じたんです。自分の今までのものは、一切が虚像であり、まぼろしであったのだ、そして、それを捨て去ってみれば、そこにはもう実体というものが厳然としてあった、ということだったんです。」(p13)

バーチャルという言葉を使いたい…抵抗を感じる言葉だとは思うが自分にはとてもしっくりくる…人の知的認識の在り方を説明している…偽物だと(他に本物があると)言ってるのではなくて、作り物ということ…国家やお金や食べ物やエネルギーや道徳…それらは私たちの作り物であり、その世界の中で私たちに対してのみ力を持つもの…

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DÉSIR

動物の世界に競争はない…動物、植物、鉱物、大気、海洋…それらは野性の摂理を体現しているに過ぎない…人はいつからか野性から逸脱した恩恵の奴隷となり、相応の犠牲を生産するようになった…

競争は「私」が生まれたことに起因する…肥大化した脳は「私」を作った…それは身体に備わる自己ではない…つまり動物の反応とか縄張りを語るときの自己ではない…「私」は他者との間に差異を認め、損得や優劣を感じ取る…所有や権利や道徳が生まれる…

私たちは答えを失くした動物だ…バーチャルな世界を生きている…答えではなく意味を求めている…より優位に、より便利に、より刺激を…最初は極めてゆっくり且つ希少なものだった…しかしその中で今日の競争社会の準備は進んでいたのだろう…

違う道を歩んだ人たちもいる…現存する少数部族やネイティブ・アメリカンなど…ただ、いま彼らは西洋の影響の中にあり、すでに屈してしまったケースも多く見られる…西洋は「私」が主導権を握った文明だ…周りのものを飲み込む力を持っている…その強さは暴力の本質でありハラスメントなどと同種のものだ…

競争社会は是だと考えるのは当然のことだろうか…人社会は恩恵と犠牲を作り出す…蛇口を撚れば水が出るということは、何かを犠牲にしているということ…再生可能エネルギーも例外ではない…人類が少数だったころは問題ではなかったかもしれない…しかし今分岐点にいることは否定できないだろう…争い、ストレス、貧困、差別、病気、ゴミ、環境破壊…自分の或いは誰かの首を絞めている…

だからこそ必要なものがある…それは何らかの節制に関わるものだ…規律かもしれないし、教訓かもしれないし、神話かもしれない…仏教やネイティブ・アメリカンの世界にあったもの…

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WEAKNESS

弱さは決して悪ではない…

そもそも地球上で一番の邪魔者は人類だろう…
人社会に馴染むことが何を意味するのか…

人と家畜の異常発生…
森は焼かれ、山は削られ…
地表は縦横に固められ、硬い構築物が乱立する…
スマホを手放せない…
ミサイルを手放せない…

人社会は強者の論理で動いている…
そうでない社会は衰退する…
恩恵のために犠牲に目を瞑る…
ゴミ、貧困、差別、動物の犠牲…人社会の排泄物…

教育はそういう社会への適応を促す…
ライオンが狩りを教えることとは何かが違う…

一方で、私たちに他の道があるわけではない…
だから教えなくてはならない…
何を…

私たちは答えのない世界に生きている…
そして常に加害者として生きている…
そういう側面を教えているだろうか…

戦争をしなくなったら賢くなったのだろうか…
環境破壊、自殺、ハラスメント…
相変わらず同じことが繰り返されている…
いま、この意識の中で…

より便利に…
より優位に…
より刺激を…
その中に隠れている…

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