私や自己と呼べるようなものは、人だけではなく動植物にもあるように思える…ただ人の意識/思考は、対象化によって、他とは区別できる自我を作り出す…それは環りにくさ、あるいは鈍さの現れなのかもしれない…クリシュナムルティは創造的であるべきだと言う…自我を緩める必要がある…その先には、もう少し広い視野と謙虚さがあるのだと思う…
The First and Last Freedom
Jiddu Krishnamurti
▪️第4章 自己認識
あるがままの自己を知ること−自己変革こそ
真の革命と呼ぶことができる
「世界は私たちから独立した存在ではなく、私たちが世界そのものなのです。…私たちの精神の働きがあまりに鈍重なので、世界の問題は私たちに関係ないし、そういう問題は、国際連合とか新しい指導者が解決するべきものだと考えてしまうのです。こういうものの考え方をするのは、その人の精神があまりに鈍感だからです。」(P40)
例えばガザの悲劇を私たちはどう捉えているだろうか…私たちは悲劇が作られる社会の一員として日々過ごしている…そういう社会を作り育てている…それは大袈裟な解釈ではない…大袈裟(そして都合がよい)なのは私たちの日頃の行いの方ではないだろうか…お金を稼ぎ使うことに明け暮れる…ゴミを出し、車を運転し、道徳で武装し、便利や優位を追求する…身体で生きないといけない…場所に生きないといけない…身の丈でないといけない…
「生きるということは、私たちがお互いに関係を持っていることであり、孤立して生きることではないのです。…この世界に対立や悲惨や闘争が起こるのは、私たちが正しい人間関係を欠いているということが分かります。…私たちがその窮屈な世界の中でお互いの人間関係を変えることができたなら、この新しく生まれた人間関係は、ちょうど波が波紋を描くように、絶えず外へ外へと広がっていくことでしょう。」(p41)
「私たちはたいてい、常に不満を持ち、その状態から急激な変化が現れることを望んでいるのですが、結局、私たちは何かある目に見える結果を得ることで、この不満にたやすく捌け口を与えてしまうのです。…その結果、私たちは骨の髄まで凡庸に堕して、私たちの存在の全体の意味を発見しようとする気迫も熱意も失ってしまうのです。」(p42)
「変革することができるのは、あるがままのものだけであり、こうありたいと望んでいるものではないのです。しかし、このあるがままの自分を知るには、非常に敏捷な精神を必要とします。…あるがままのものは絶えず変化や変質を受けているので、その動きを迅速に追っていくためには、精神はいかなる教義や信念や行動様式にも拘束されてはならないからです。」(p45)
「創造的状態の中には自我というものがなく、もはや精神は、私たちの経験、野心、快楽の追求、欲望の中心、あるいは要ではなくなっているのです。創造力は持続的状態ではなく、一瞬一瞬の新しい、一つの動きなのです。しかもこの動きの中には、「私」とか「私のもの」といったものは存在せず、またそこでは、思考は特定の体験、野心、功績や、目的とか動機といったものに囚われなくなっているです。」(p50)
勝手に生きて何が悪い…その通りだと思う…どちらかというと勝手に生きることをクリシュナムルティは推奨している…ただ何の観察もなしに勝手に生きても、人社会に飲み込まれて勝手に生きることはできないだろう…
できるだけお金に頼らないようにするとか、可能なら自分で作物を育てるとか、そういう試みや規範こそ生きる者に相応しい…