Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

▪️第7章 道を離れて道を行く

道にはふたつの意味がある
ひとつは手がかり、或いは型としての道…
もうひとつは道が解かれたあとの無為の世界

道を歩くとは、
積み上げることではなく、
無駄なものを手放すことではないだろうか
言葉や道具や私を手がかりにするしかないが、
その呪縛から解かれるとき、
本当の道の中にいる

努力を少しでもすれば、学問も、実力も、表面的な成功も得られる。先天的な能力は、訓練により育ってゆくかもしれないが、訓練だけでは、荘子のいう「逍遥」の境地には至らないだろう。自分の心に潜む自己鍛錬とか頑張りへの指向の犠牲にならぬよう気をつけなければならない。ちっぽけな能力により技術やビジネスで成功しても、それでは、もっと自由な本来の遊戯三昧能力の何たるかを、決して知りえないだろう。道元は『正法眼蔵』で言う、「自己の探究とは、自己を忘れることである」と。「自己を忘れるとき、万物と一体になる」と。ここでいう「万物」とは、現象世界の全存在のことである。心が開かれると、我々の中に万物が満ちてくるのだ。(p272

『道徳経』は、「道」の意味について、最も見事な解釈をしている。この本は、こう始まる。「跡をたどれる道は本物の道ではない」と。「道可道非常道」と。これが第1章の冒頭にある言葉である。「跡をだどれる道は、『精神的な道』ではない」のだ。ものごとの実態は、道路のような直線的なイメージだけではない。修行の目的は、その「求道者」の努力の意識が忘れられたとき、初めて完成するのだ。道は難しいものではない。邪魔するものは何もないし、全方向に開かれている。にもかかわらず、我々は、自分で自分の道の邪魔をする。だから老師は言うのだ。「精進すべし!」と。(p273

登山家が山頂を目指すのは、雄大な眺めや、仲間同士の協力や友情や困難を克服する実感を求めるからだ。しかし、主な理由は、登山が、人を、未知の出来事の起こり、驚きに出会える「その場所へ連れていってくれる」からである。(p277

人間の技術や仕事などは、ゆるやかな秩序をもつ本来の野性の世界を、ほんのわずか反映したものに過ぎない。道路から飛び出して、分水嶺にある未知の場所へ出かけてみるのが一番だ。新しさを求めてではなく、人間の本来の場所へ帰ってゆくという感覚をもつためだ。「山道を離れて」という言葉は、「大道」の別名でもある。山道からぶらりと離れることは、野性の修行である。逆説的だが、その場所こそ、我々にとって最もいい仕事場なのだ。しかしながら、人間には小道や山道が必要で、これからも守り続けてゆくことだろう。誰でも、初めは道の上を歩かなければならない。脇にそれて野性の世界に入るのは、そのあとのことだ。(p280

1 thought on “Snyder”

Comments are closed.