里山

自然の哲学(じねんのてつがく)
著 高野 雅夫

▪️第3章 森と農の物語
▪️第4章 水俣と福島から「生国」を学ぶ

*以下は本文を読んで、自分の考えること…

人気のない登山道を走ったとき、野生の鹿に遭遇した…視界に入った時はすでにお尻を向けて走り去るところだった…慌てている感じはなく、珍しい来客を誘導するかのような優雅な動きだった…森は美しさと不気味さを備えた空間だ…特に鹿などと遭遇すると神聖な気持ちになる…その一方で自分が生き方を忘れた余所者のようにも感じる…公園の遊歩道を走っていてヘビに遭うこともある…お互いビックリして逃げるのだけど、そもそも蛇の生活エリアに勝手に公園を作ってるわけで、なんとなく申し訳ない気持ちになる…シロアリが家を食べたり、ゴキブリが台所に出たり、スズメバチが軒に巣を作ったり、虫が畑の作物を食べたり、クマが民家に下りてきたり…彼らは自然の中でただ役割を果たそうとしている…雑草とか害虫とか、それは本当に相応しい言葉なのだろうか…

マドンナさんは欧州人の過去の成果を称えているようなのだけど、コロンブスがインディアンに対して行ったこととか、インディアンの祖先が北米大陸に到達してからサーベルタイガーやマンモスがいなくなったこととか、そこはスルーなのかな? https://www.jiji.com/jc/article?k=2025022200247&g=int

以下に著者が引用している緒方正人さんの言葉を三つ転載させてもらう…緒方さんは水俣病の認定申請をしていたが、31歳のとき申請を取り下げ、補償運動から身を引いている…

「和解」とか「補償」なんて、所詮人間の世の中だけに通用する浅知恵にすぎない。死んでしまった魚や鳥や猫はどげんするのか。金で済ませるわけにはいかんでしょ。消えてしまった藻場は、原生林はどうするのか。圧力をかけて「和解」を押し付けるわけにもいかんでしょうが。キリキリと舞って死んでいった魚の無念というものをどぎゃんすっとか。(p103-104)

俺は権力を許してしまったんじゃないんですよ。捨てちゃったんです。俺は、国家なんて、追いかける値打ちもないのだと思う。国家は所詮、責任は取れないし、また、とろうとしない。制度的な答えはいずれ出すでしょう。でも、俺たちが本当に求めているのは、痛みの共有です。求めている方にはいろんな気持ちが詰まっているけれど、応えるべき方はシステムとしてしか答えない。(p104)

この辺では「そいもこいも、あんた、ぬさりたい」という言い方をします。「ぬさり」、あるいは「のさり」は熊本の方言で、授かりものという意味です。それもこれも縁として、授かりものとして引き受けて生きていかねば…という思いがそこに込められている。「ごたがい」やねといえば、お互い様じゃないか、ということ。…動物や植物とも「ごたがい」の間柄です。「ごたがい」には、海も山も何もかも含まれとっとですよ。「ぬさり」とか「ごたがい」という言葉には、いのちというものが我々人間の領分を越えたところで展開しているということに対する畏敬の念が、またそれを前にして謙虚にひれ伏し、祈る心が込められている。(p105)

緒方さんは「チッソは私であった」と語っている…
文明は、国家は、知性は、私たちが何者なのか語りたがらない…

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