スピノザに依れば自由意志など無いわけだけど、ある意味そういう感覚を大事にしたい…答えを失くしている感覚、あるいは勘違いしている感覚…
道徳、普通、常識とは、集団(国家、会社、任意団体、家族、飲み仲間…)が維持される時、構成員の中に自ずと育つものだろう…それは集団が作る社会を肯定、サポートするように働く…具体性を持たず、常に変化しながら、無意識に、社会が持つ「力」をなぞろうとする…尖ったことやはみ出したことは嫌われる…例えば「肉は食べない」と言うと、頭が足りないか陰謀論好きとでも思われるのかもしれない…菜食が正しいと言いたいのではなくて、肉食を支える根拠は案外薄っぺらいものだということ…動物が殺される暴力よりも、肉食が容易に是とされていることに暴力性を感じる…
仏教なら「師を信じるな」「言葉を信じるな」と言うのだろう…キリスト教やイスラム教は違う…「それをしなさい」「それをしてはいけない」と言う…つまり「自分で考える」ことを遠ざける…創始者や預言者を否定するつもりはない…むしろ興味はある…ただ、エルサレムを聖地とするそれら宗教の在り方が好きになれない…宗教の多くは国家と相性がいい…国家は富や権力の効率化のために生まれ、同じ力学の中で今日も維持されている…
子供たちが泣き、騒ぎ、喧嘩し、空気を読まなかったとき、大人は何を感じているだろうか…当然のように上目線に立ち、そして語りかけるのだろう…しかしそれは人社会での生き方を教えているに過ぎない…生きた(活きた)世界のことではない…逆に子供たちの中では大人が失くしたものがまだ息づいているのではないだろうか…子供の世界は虫や動物たちがいっぱいだ…ある意味大人たちは教えることで子供たちの可能性を奪っている…
世の中は常に少し前より便利になっている…そういう社会に生きている…便利になっているはずなのに、時間は「やること」で埋まり身動きがとれなくなり、さらに「やること」がないことは悪いことになってしまった…もっと自分や世の中をじっくり掘り返して考える(ほどく)時間があってもいいのではないだろうか…
吉本隆明が「引きこもれ」と言ったことを思い出す…