「子供は無知にして明晰、仏に近く、大人は学び知恵多くして昏迷、仏に遠い馬鹿となる」(p184)
わら一本の革命
著 福岡正信
第4章 緑の哲学 – 科学文明への挑戦
「人間の知恵は、いつも分別に出発してつくられる。したがって人知は分解された自然の近視的局部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることはできないので、不完全な自然の模造品を造ってみて、自然がわかってきたと錯覚しているにすぎない。」
「人間は本当に知っているのではないということを知ればよい。人知が不可知の知であることを知れば、分別知がいやになるはずである。分別を放棄すれば、無分別の知が自ずから湧く。知ろう、わかろうなどと考えなければわかるときがくる。緑と赤を分ければ、その瞬間から真の緑や赤は消える。天地を分別すれば、天地はわからないものになる。天地を知るためには、天地を分けず、一体としてみるしかない。天と人の融合である。統一、合体するためには、天地と相対する人間を捨てる、自己滅却以外に方法はない。」(p153)
走ることは自分を緩める方法だと思っている…
「自分を緩める」とはいわゆる「瞑想」ではないだろうか…
「人類の未来は、何かをなすことによって解決できるのではない。自然はますます荒れ果て、資源が枯渇し、人心が不安におののき、精神分裂の危機に立つのは、人が何かをなして来たからである。なにをすることもなかった、してはならなかったのだ。人類救済の道は、何もしないようにしようという運動でもする以外に方法がないところまで来ている。発達より収縮、膨張より凝結の時代にきている。科学万能、経済優先の時代は去り、科学の幻想を打破する哲学の時代が到来している。なんて言い出すと、達磨さんが黙ってにらんでいるようだ。達磨さんとにらめっこするしかない。笑った方が負けである。笑い事ではない。」(p157-158)
「神」が力を持っていた時代を経て、いま「知」が力を持っている…人はいま「知」を絶対視し崇拝している…それはただ、神が知に変わっただけのこと…いわゆる宗教に冷めた視線を送りながら、実際は気づかないうちに新しい宗教に染まっている…
「胃の弱い人間を作っておけば、消化しやすい白米がありがたがられる。消化しやすい白米食(粕)を常食にしておけば、栄養が不足してバター、ミルクという栄養素が必要にもなる。水車や製粉工場は人間の胃腸の働きの代わりをして、胃腸を怠け者にすることに役立っただけである。」(p166)
人はいつから多品目食になったのだろうか…なにかと「何でも食べろ」という言葉が幅を利かせている…他の動物は粗食でありながら栄養の偏りや不足はない…そういう意味で何かが退行しているのではないか…国や地域で自給ができなくなるのと同じように、ヒトは粗食から遠のいてしまっている…なんでも食べろと言う前に、土壌や腸内環境を含め精査し、粗食の可能性をもう一度見直すべきじゃないだろうか…「何でも食べろ」は、病や環境破壊を肯定(つまり思考停止)している…
「白紙の童心の立場に立てば、明暗、強弱の二相があって、二相は消える。子供には蛇と蛙があっても、強弱がない。地上に大小、多少、強弱があっても、大人が一喜一憂する勝敗、貧富の優劣、喜悲、愛憎、傲岸、卑賤は無用の感情であり、世に遅速、軽重、増減があっても苦楽の対象とすべきものではなかった。狂喜の生も、懊悩の死も、大人が虚像の上に画いた虗想と言える。子供には自然本来の生命の歓喜があっても死の恐怖はない。優劣がなければ、勝者も敗者もない。矛盾対立のない世界に安住するのが子どもである。」(p174)
小さい子どもも、早いうちに大人の価値観に染まっていく…物心ついたときは自身の知性の洗礼を受け、その後おそらく小学生のころまでに社会の価値観の下地が植え付けられる…人に何が分かるのだろう…実際人は何も知らずに死んでいくのではないだろうか…人が教えるのは人社会での生き方…例えば椅子取りゲームの残り方とか、環境の壊し方とか、言い訳したり要求したりすること(つまり道徳のこと)とか…人がいなくなればきっと地球は喜ぶのだろう…大人は教育によって子どもの可能性を奪っている…そういう意識を持っている大人がどれだけいるのだろうか…
「本物の医者と坊主はもういない。医者知らずの健康人間、迷いのない妙好人、疑問の雲一つない賢人を造る役目の医者や坊さん、先生は絶滅した? 先生は何をしてきたのか、学生に勉強させて、寄せ集めの知識を切り売りすると、疑問がますます増えるから、それを解くため、ますます多くの大学や教授を造らねばならなくなる。大学は膨張しマンモス怪物となった。坊さんが宗教活動を盛んにして、人心を混乱させて、迷う人を増やしていけば、信者が急増し、寺はますます繁昌する。医者が病人の生命の引きのばしをすると、病人と老人が地上に満ち、収容施設の病院ホームの拡充発達が行われ、医者は儲けて儲けてということになる。学問は学校経営に役立ち、宗教は社寺に役立つだけで、どれもしもじもの人間のためには何 の役にも立っていない」(p182-183)
医者も住職も教師も現代社会の流れに従順な存在になっている…医者は専門外の患者のことは全く分からないし、患者を薬漬けにしようとする…お寺は一般に、学びではなく、死に纏わる儀礼の場所になってしまった…学校は社会に馴染むよう、自分で考えないことを教えている…
「自然は部分もなければ全体もない。全くつかみどころのないヌエである。人間の認識の手段である分別は、部分的把握である。したがってどこまでも部分的知識の集積にすぎない科学的知識や学問は、この自然を知り支配する手段には全くならないのみか、人間が知ろうとすればするほど、人間は自然の本体から遊離し、自然がわからなくなるだけである。学問がなしえたことは自然と人間の離間であり、人間が自然を征服したと思った時、人間は自分の住み家に火をつけて壊しただけである。それにも関わらず人間は、わざわざ大学まで行って自然と人間を研究し、分析したり分解や解剖をやって自然破壊を平気でやる。」(p183-184)
そもそも「私」は自然と対立している…
動物が持っている自己とは違う…
なわばり意識や防衛本能の閾を超えたものだ…
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