フルータリアン・ダイエット

フルータリアン・ダイエット
著 池田 悟

「本来」は現状を否定しようとする…すでに無視できるケースもあるだろう…しかし逆に見えにくくなってはいても、まだ私たちの内外でしっかり息づいているケースもあるはずだ…

完全な再現は難しいのかもしれない…例えば果実食とはいえ、近場に実っているものを採集して食べるわけではない…アボカドも現代の流通のおかげで手に入れることができる…ベアフットランニングにしても、それはシューズありきのものであって、本当の裸足によるものではない…それでも私たちは「本来」を無視するわけにはいかない…無理や苦しみは嫌いだから…そして知りたい(知らない=知ることができない)から…

「本来」は何を指標にしたらいいのだろう…身体のことに関して考えるなら、それは「自然」ではないだろうか…ただその「自然」が何なのか分からない…遠い過去に原型があるとしたら、いつまで遡るのかという話にもなる…水中から地上に生活を移行したあとの話と考えていいのだろうか…二足歩行以降の話だろうか…とりあえず現在を見て、病気になりにくいとか、怪我をしにくいとか、そういう傾向が指標になりえるのだろう…そこから「本来」を逆算して導き出す…「本来」は過去と現在の会話がベースになっている…

「本来」は私たちの「切り取り方」に依存している…「自然」を装った強い言葉だが、「自然」の追求において消費されるべきものではないだろうか…決して答えではない…私たちは答えを失っている…「自然」は答えだが、「本来」は答えを装ったもの…

加熱食も間違いではないのだろう…道路を作って車で遠くに移動することも間違いではない…それらは新しいバランスを見せてくれる…ただし得られた恩恵に隠れて何かが犠牲になっている…人による操作は必ず歪みを生む…私たちにとっての歪み…無理や不快や病気や破壊やゴミ…すべては変わらぬ自然の仕業なのだけど…

すべては「自然」だと言いたいが、唯一免れているものがある…それは知性が作り出すもの…言わばバーチャルな世界…バーチャルであることは「自然」の仕業だが、その具体的中身は「自然」ではない…ある種の勘違いみたいなもの…「ありのまま」はフィルタリングされ意味(認識)となる…意味に振り回されている限り歪みから解放されることはない…私たちはバーチャルな世界に依存している…切り取り、積み上げることから抜け出せない…求められるのは、むしろ手放すことではないだろうか…

完璧でなくてもいい…
できることを少しずつ…

農業に「自然農」という言葉があるように、食には「自然食」という言葉がある…同じコンセプトの別の姿なのだろう…それらは繋がっている…可能な限り手を加えないことでこの世界にフィットすることを探っている…

動物や植物は答えを知っている…
知らないのは人だけ…