菜食を実践していることを知り興味をもったのだけど、核心にあるのは、自然に逆らうのではなく、受け入れる意識あるいは感覚なのだと思う…きっと、「環境」と「身体」が同じものだということを知っている人だった…
倉上慶大(1985-2024)
「極度に体がダメージを受けたときって、感覚的に研ぎ澄まされてくるのかもしれません。退院した直後は、そのへんの緩やかな坂道を登っただけでうずくまってしまうぐらいでした。そんな弱り切っていたときに、自分が食べたいものにじっと耳を傾けて、そうして食べたのが野菜だったのです。それからは心臓病を治そうとプラントベースに切り替えたのですが、不思議なことにあのとき病院のなかで野菜を食べたいなと思ったあの感覚が、いまでも残っているんですよ」
「たとえば、おいしい酒作りをするために、田んぼから作り直す酒蔵があります。生態系を元に戻すところからはじめるというのは、まさしく環境の連続性だと思うんです。感覚が敏感になって、体にいいもの、自分自身が健康になるものを選び、健康がずっと続くことを選択する。結局のところ、それが環境改善につながるのではないでしょうか。でも、そのシンプルなことをやるのが難しいのは理解しているつもりです」
「クライミングの自由は、まっさらな自然を相手に独自の感性で見いだしたラインを描く過程にこそある。その自由を追い求めることによって、クライマーたちは自由の表現者となり自らの生を謳歌してきた。今を生きる我々はいま一度、クライミングそのものの原点、そして自然環境におけるクライマーの在り方を見つめ直すことが時に必要なのかもしれない。未来の表現者たちから、彼らの自由を奪わないために」
それらは不可解だ…
おそらく失くした答えを取り戻そうとしている…
それは野性の発露なのだろう…
身体が喜ぶこと…
あるいは癒し…
それは作品なのだろう…
どう育んで、どう終えるのか…
自分の中で響かせるもの…
それは力を持たない…
役に立たない…
知性は主役ではない…
文学でさえも、知性は主役ではない…
むしろ知性をほどく行為なのだと考えたい…
だからおそらく瞑想の系譜にあるもの…