The One Straw

わら一本の革命
著 福岡正信

反自然なるものがあるとは思わない…そう見えるだけ…すべては自然なのだから…ただ今までになかった新しいバランスが生成される…それが人口増加であり、今日の農業であり漁業であり、ゴミであり、精神的ストレスであり、争いなのだろう…人はそのバランスから抜けだせなくなっている…

第3章 汚染時代への回答

「いわゆる汚染の根本原因というものは、人間のあらゆる行動、知恵から出発して、それが価値あることのように思っているところにあるんです。結局、その価値観という、人間の根本的な頭が改革されない限りは止まらない。まあ、何をやっても、やればやるほど悪くなるというのが実状だと思うんです。対策を立てれば立てるほど、かえって問題は、悪質化し、内攻していく。」(p93-94)

知性は切り取ることしかできない…理解、思索、解釈、評価、すべてにおいて切り取ることを前提にしている…全体?を見るためには感じるしかない…知性を一旦手放す必要がある…

「何かをなすことによって、世の中がよくなるんでなくて、むしろ、しないように、しないようにすることが、大事なこと…」(p99)

「結局、本当の味っていうものは、人間の体にいいものということになる。食べ物と薬というのは二物ではなく、表裏一体のものです。現在の野菜は、食べ物であっても薬にはならないが、改良されなかった昔のものは、食用にも薬にもなるというのが本来だったのです。」(p108)

「とにかく一般に、自然を離れたものをおいしがるのは、結局ものの本当の味がわからないんです。本人の好きずきだ、なんて言って、ふつう、ごまかしてしまうんですが、そうではなくて、ですね、一口で言ってしまえば、人間の体が反自然になればなるほど、反自然のものをほしがるということなんです。で、そうなると結局、反自然のところでバランスをとらなきゃいけなくなる。」(p111)

「で、一番簡単なのは、私のところの山で原始生活をしている連中のように、玄米や玄麦食って、アワやキビ食って、そして四季その時、その時の原野の、あるいは野草化された野菜を食っている。これが一番動かなくて、生きる手段になってしまう。ところが、これが生きる手段というだけではなく、そういう生活をしていると、それが最高のごちそうになってくるんですね。味がある、香り高い、おいしくって、しかも体によくて、動き回らなくてすむ。三拍子そろっていいことになる。その反対に間違った食べ物をとるとですね、おいしいように錯覚して舌におぼれ、人工的な果物、魚、野菜、メロン、ブドウ食って、遠方のマグロ食ってね、牛肉まで食う。まさに、これ最高のごちそうに見えるんですね。ところが、体は一番危険な状態になってくる。しかも、そのために、どれだけ難儀をしておりますかね。」(p113-114)

「人間の食生活は、高たんぱく質のものでなきゃいけない。でんぷんでも、日本の米は、どうもおもしろくない。アメリカの小麦の方が上品で、栄養価が高い、というようなこともずいぶん言われたんです。そして日本人を米食人種からパン食人種にしたら、生活向上だという、とんでもない思想も吹き込まれたわけなんですよ。ところが、実はそうじゃなくて、玄米、菜食が一番粗食のように見えて、むしろ、栄養的にも最高の食であるし、人間の最高の生き方をするのに、一番近くて楽なやり方だったわけですね。」(p115)

肉食を頭から否定しているのではなくて、現代の畜産業や漁業における労力の不自然さを問題にしている…これは農業についても同じ…それは味覚や食欲までも書き換えてしまうと…「*ゅーる」ばかり欲しがる猫と同じこと…

「国際分業っていうのが、現在の農政経済学者あたりの、支配的な考え方なんですが、農業というのは、本来、分業で、特殊な地域で少数のものがやるべきというんじゃなくてですね、すべての人間が、自分の生命の糧を自分で作って、自分で生きるということをかみしめて、日々生きていくというのが本来であって、他人にまかせ、一部の者に作らす、あるいは、肉は、どこそこの国で作り、果物はどこそこの国で作り、魚はどこで獲ればいいという、国際分業論的な考え方っていうのものは、全く人間の生活の原点ということを忘れた政策だと言わざるをえないと、私は思うんですね、」(p133)

「そこで今度は、ものの発展ということじゃなく、人間を主体にして、遠心的な拡大の方向から、求心的な凝結方向に向かっての、収斂といいますか、そういう方向に向かっての進展というものを目指さなきゃいけない時期にきている。いわゆる物質を追いかけて、物欲を満足させていくという方向から、物欲は犠牲にしても、求心的に、精神的な向上、発達というものを目指す、いわゆる収斂の時期に入ってきているということが言えるわけです。農業の方面でも、ただ拡大すればいいんじゃなくて、むしろ、小面積のところで、楽な百姓をやって、生命だけをつなぐ。物質生活や食生活は、最小限の簡素なところにおいておく。そうすると、人間の労働も楽になり、時間的にも余暇が増え、精神的、肉体的な余裕ができてくる。その余裕を、物質文明ではなく、本当の文化生活というものに、高い次元の精神生活に結びつけなければいけない。そういう時代に入ってきてると思います。」(p134)

「だいたい私は、労働という言葉が嫌いなんです。別に、人間は働かなきゃいけないという動物じゃないんだ。働かなきゃいけないということは、動物の中でも人間だけですが、それはもっともばかばかしいことであると思います。どんな動物も働かなて食っているのに、人間は働いて食わなきゃいけないように思い込んで働いて、しかも、その働きが大きければ大きいほど、それがすばらしいことだと思っている。ところが、実際は、そうではなくてですね、額に汗をして勤労するなんてことは、一番愚劣なことであって、そんなものはやめてしまって、悠々自適の余裕のある生活を送ればいい。まあ、熱帯にいるナマケモノのように、ちょっと朝晩出て行って食べ物があったら、あとは昼寝して暮らしている、こういう動物の方がよっぽどすばらしい精神生活をしてるんじゃないかと思うんですね。」(p136-137)

働かない生活の仕方を忘れてしまっているのも問題だけど、働く生活が道徳によって強く守られているのも問題なのだと思う…「努力は実る」とか、「夢は叶う」というのは、一種の宗教的暗示のように聞こえてくる…そして実質的な成功に正解を見てしまうことも問題なのだろう…そういう宗教的誘惑があらゆる場面で幅を利かせている…成功とは人社会の切り取られたひとつの側面にすぎない…どこかで誰かが苦しみ、環境は破壊され、身体も苦しみ、動物が犠牲になっている…

1 thought on “The One Straw”

Comments are closed.