The Practice of the Wild
GARY SNYDER
教育や伝承について語っている…
▪️第3章 自然の知恵
ダンスや音楽は自然の知恵を伝承するもの…それが過去のものとなったとき、完全に再現するのは難しい…
「トウモロコシ、米、トナカイ、サツマイモ…。これで土地と文化が分かる。植物は土壌と降雨量を表し、食料は社会とその生産システムを反映している。そして、もう一つの手がかりが、その土地の「歌とダンス」だ。歌い手、演奏家、物語の語り手、仮面の制作者、そして踊り手が一堂に会す。これは日々の暮らしの花である。踊るのは人間だけではない。ワタリガラス、シカ、ウシ、それに雨や嵐が顔を出す。ダンスの中で多くの人間的本性と非人間的本性が互いに出会い、また場所とも出会う。ダンスは場所の一部となり、場所がダンスの一部となる。芸術と経済はどちらも捧げものの交換に基づくものであり、とりわけダンスは、大昔から果実、穀物、あるいは狩りの獲物に対するふさわしい捧げ物であった。このような行為こそが、がめつくて傲慢になりがちな我々の根性を正すのにも役立っているのだ。」(p98)
アラスカ北西部に伝わるイヌピアクの「祖母の知恵」…人類にとって時代を超えた基本的価値が明記されている…しかしそこに部外者との付き合い方が書かれているわけではなかった…単純に解釈するなら「西洋文明」との付き合い方のことだろう…
「世界の民族には「祖母の知恵」がまだ残っている。(その中にキリスト教の十戒のいくつか、それに仏教の十戒の最初の五つの戒を、私は含めたい)。そしてもう一方では、中央集権化とヒエラルキーをめざす「知恵」がある。今の我々はこの狭間に立たされている。子どもたちは矛盾した教えを耳にしながら成長していく。」(p110)
「祖母の知恵」がなくなることは考えにくい…しかし西洋の侵食に抵抗することはできないだろう…ネイティブ・アメリカンの文化はほぼ消滅し、アマゾンの少数部族も今ではスマホを使っているらしい…
形骸化も警戒すべきだ…
「神話を生きたものにしておくには、その生きた解釈が必要だ。メタファーや儀式の背後にあるものを理解し、物語が生まれる必然性を考えなくてはならない。神話を寓話化したり、理屈づけするのは、神話を殺してしまうことになる。それがのちにギリシャの歴史に起こったことだ。」(p110-111)
ダンス、歌、言葉、そして永久凍土から発見されたバイソンの亡骸も、時を経て蓄積された情報(教義)だ…
「地球上の多様な少数民族の実地調査を通して、「プリミティブ」の真価がわかり始めてきたし、先史学が限りなく豊かな領域であることを発見しつつある。…次に人間のすべきことは、すべての存在を交えての対話であろう。それには生態学的な関係に基づく説得力ある表現法が必要になる。これは人間の面目を失わせるようなものではない。なぜなら、人間であるとはどうゆうことか、それが「然るべき人間研究」となるのだから。我々人間は他のすべての存在と同類である、と考えるだけでは充分とは言えない。あらゆるところでそれを実感しなければ意味がない。そのとき我々は、特権意識をもつことなく、素晴らしい「ヒト」になることができる。道元が言うように、水は水の公案、そして人間は人間の公案である。ハイイログマ、クジラ、アカゲザル、あるいはネズミやリスたちは、人間たちがクマやクジラ目の調査を思い立つ前に、徹底的に「自分自身」を知ってもらいたいと、どれだけ望んでいることだろう。人間が自らを知る時、自然界の他のものたちがそこに存在する。これは仏教徒が「法」と呼ぶものの一部である。」(129-132)
「ソローはこう書いている。「この巨大で、野蛮で吠える「自然」は、素晴らしき美を備えた我々の母であり、いたるところにその姿を現わす。彼女は子どもたちに深き愛情を注ぐヒョウさながらである。しかし、我々は社会へ入るためにあまりに早くその乳房から引き離されてしまう。」では、ただ食べ物を集めるだけという生活に戻ることなく、その社会全体が自然との調和を保つことは可能なのだろうか。ソローはそれに答えて、「スペイン語には、野性のほの暗い知恵を表わすのにもってこいの言葉がある。それは『黄褐色のグラマー』だ。これは先に言及したのと同じヒョウに由来する、いわば『母親の知恵』、自然の知恵を意味する言葉だ」と述べている。言葉だけでなく、文化や文明それ自体にもグラマーはある。それは苔むす森を流れる小川や砂漠の玉石などと同じ自然界の秩序からなっている。」(p144-146)
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