わら一本の革命
著 福岡正信
スピノザ、般若心経、レヴィ=ストロース、ソロー…もし読んだことがあり腑に落ちるものを感じたのなら、福岡氏の言葉もおそらく届くのではないだろうか…一般的には距離を置きたくなるような話だ…なのに自然農法あるいは自然農に惹かれる人は多い…農法が多くの人を惹きつけるツールになっている…
第1章 自然とは何か(無こそすべてだ)
「人間というものは、何一つ知っているのではない、ものには何一つ価値があるのではない、どういうことをやったとしても、それは無益である、無駄である、徒労である。」(p8)
「今まである、ある、と思って、一生懸命に握りしめていたものが、一瞬の間になくなってしまって、実は何もないんだ、自分は架空の観念を握りしめていたにすぎなかったのだ、ということがわかったような気がしたんです。私はまさに狂喜乱舞というか、非常に晴れ晴れとした気持ちになって、その瞬間から生き返ったような感じがしました。とたんに、森で鳴いている小鳥の声が聞こえるし、朝露が、のぼった太陽にキラキラ光っている。木々の緑がきらめきながらふるえている。森羅万象に歓喜の生命が宿るというか、ここが地球の天国だったということを感じたんです。自分の今までのものは、一切が虚像であり、まぼろしであったのだ、そして、それを捨て去ってみれば、そこにはもう実体というものが厳然としてあった、ということだったんです。」(p13)
バーチャルという言葉を使いたい…抵抗を感じる言葉だとは思うが自分にはとてもしっくりくる…人の知的認識の在り方を説明している…偽物だと(他に本物があると)言ってるのではなくて、作り物ということ…国家やお金や食べ物やエネルギーや道徳…それらは私たちの作り物であり、その世界の中で私たちに対してのみ力を持つもの…
「普通の考え方ですと、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか、といって、ありったけの技術を寄せ集めた農法こそ、近代農法であり、最高の農法だと思っているのですが、それでは忙しくなるだけでしょう。」(p19)
少し前より便利になったように思えるかもしれない…でもおかげで前より忙しくなってないだろうか…効率化のおかげで余裕がなくなっている…ところで10年前、私たちは不便と思って生きてただろうか…1000年前の人たちはインターネットや車が無くて不便だっただろうか…
「人間が、医者が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病弱になる環境を作り出しているから必要になるだけのことであって、病気のない人間にとっては、医学も医者も必要ではない。」(p20)
健康とはもはや人の本来の姿ではない…文明の中で薬を手放すことができず、効かなくなると新しい薬を求める…そうやって維持されるのが健康だ…
「たとえば教育というものは、価値のあるものだと思っている。ところが、それはその前に、教育に価値があるような条件を人間が作っているんだということにまず問題がある、と私は言いたいんです。教育なんて、本来は無用なものだけれど、教育しなければならないような条件を、人間が、社会全体が作っているから、教育しなければならなくなる。教育すれば価値があるように見えるだけに過ぎないということです。」(p20-21)
そもそも大人は知っているのだろうか…私たちは囲いを作ってその中で生きている…そこで生きるための教育(つまり矯正)をしているに過ぎない…大人は子供の可能性を奪っている、そういう側面を拭うことはできない…もっと他に伝えるべきことがあるのではないだろうか…例えば囲いのこととか、すべての恩恵は相応の犠牲の上になりたっていることとか、大人だって何も知らないこととか…
「結局、人間が、その知恵と行為でもって、何か悪いことをする。悪いことをしておいて、それに気づかないままに放っておいて、その悪いことをした結果が出てくると、それを懸命に訂正する。そしてその訂正したことが成果をあげると、いかにもそれが価値あるりっぱなもののように見えてくる、というようなことを、人間はあきもせずやっているわけです。」(p23-24)
成功や獲得や達成は私たちに正解を見せてくれる…ただそれは調和とか適応とは違うものかもしれない…手に入れることだけではなく、手放すことも必要なのだと思う…
このような思考を宗教的だと言う人もいるだろう…しかし現在の科学、経済、政治、軍事力を絶対視する思考も十分に宗教的だと言いたい…昔と何も変わらない…神様が知性にすり替わっただけ…
否定の話ではなくて…
依存を警戒している…
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