Snyder

The Practice of the Wild
GARY SNYDER

國破山河在(国破れて山河あり)…
なんてアナーキーな言葉だ…

▪️第2章 「場所」に生きる 2/2

「昔、人々は小さな部族単位で、自然の基準に適合した範囲で暮らしていた。北アメリカの主な先住民の文化領域は、そのほとんどが主なバイオリージョンと一致している。そういった古い時代の文化領域は流動的で明確ではないが、真の居住地と呼べる場所である。しかしながらその領域は恣意的、ときに暴力的に国境という境をもたらす「国家」にしだいに取ってかえられていった。この強いられた領域は、ときには動植物の生態域や民族ごとの区域も同様に分断してしまった。住民たちは、生態学的な知恵だけでなく、コミュニティの連帯責任、共同利益という知恵も失ってしまったのだ。昔ながらの方法では、植物相、動物相、そして地形も「文化の一部」であった。文化と自然の世界、これは現実に存在しているが、いまではほとんど影の世界となっている。そして政治的権力やエリート経済といった非現実的な世界が、現実のものとしてまかりとおっている。我々は本来あるべき世界とは逆さまの時代に生きているのだ。国、州、群といった恣意的な境界線を越えた地形上の特徴を見出し、その土地の「身体つき」を辿ることで、文化と自然が昔持っていた仲間意識をいま暮らしている地域に、少しは取り戻すことができるだろう。」(p75

「アメリカ先住民に生まれなかった者が、この大陸を自分の「家」にするためには、男も女も、この半球、この大陸、正しくは「亀の島」で、生まれ変わらなくてはならない。」(p80

「合衆国、カナダ、メキシコといった名称はつかのまの政治的存在を示しているにすぎない。そう呼ぶことは確かに合法的ではあるが、このまま土地を虐待し続けるなら、その委託統治権を失うことになる。「国破れて山河あり」だ。」(p81

「人は小さな社会を危ぶみ、国家を批判すること恐れるのである。本質的に貪欲で、安定を嫌い、無秩序を求め、勝手気ままで、しかも非合法な存在、それが国家の正体だ。しかしそのような状況下で育てられた人が、国家の実態を理解するのは容易ではない。そうした人々は、地域中心主義の欠点として、偏狭主義、地域同士の衝突、文化の違いなどから生まれる「受け入れられない」表現などを引き合いに出す。さまざまな哲学、世界の各宗教、そして異なる歴史が、偏見によって、画一化、普遍化、そして中央集権化へと向かう。要するに、イデオロギーとしての一神論である。確かに、当別な状況下で隣人同士のグループが、何世紀にも渡って論争している例もある。果てしない記憶と数々の戦闘、それらが放射性廃棄物のように放射能を出している。中東ではまだ続いている。ヨーロッパや中東各地で進行中の民族的・政治的苦難の歴史は、ときにはローマ帝国の時代まで遡る。しかしこれは、「人間の本性」それ自体にある闘争心に起因するようなものではない。初期の帝国が誕生する以前は、部族や原始国家間の偶発的な紛争のほとんどは、ささいなことに端を発していた。国家の成立に伴って、戦争のもたらす憎悪や破壊行為のスケールは急激に増大する。」(p82

「多元文化主義、そして多言語主義は地球のノルマだ。コスモポリタン的な多元主義と地域に深く根ざした意識、この二つの調和こそ重要である。何世紀にもわたる権力のヒエラルキー、そしてまた中央集権によって奪われてきた人類が自ら場所を選択する権利、それをどう取り戻すことができるかがいま問われている。これは「ナショナリズム」とは訳が違う。まさにそれとは対照的なものだ。国家の詐欺師、操り人形、失われた共同体のニタニタ笑う亡霊などと混同してはいけない。」(p84-85

「バイオリージョンから始めれば、はかない存在である国家が、もっとふさわしく定義されるであろうし、また青い地球の姿が、いまの政治の在り方を変えることにもなる。必要条件は、生存可能で無駄のない経済、生態学的バランスのとれた農業、生命力にあふれたコミュニティ、野性の生息環境、そして熱力学の第二法則だ。それは生態学的政治であり、また一種の演劇空間でもある。ただのストリート・シアターではなく、幻想的な山河の織り成す演劇君間なのだ。」(p85

国家とは法のことだ…
ただし、その根本は暴力なのだろう…
そうベンヤミンが言っている…

スナイダーは国家や肉食を否定しているわけではない…
今のやり方が相応しいかどうかを問うている…

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