The Practice of the Wild
GARY SNYDER
植物にとって「場所」とは直接的であり、その結びつきは強固だ…では私たちは場所から自由なのだろうか…私たちも植物同様、場所に依存している…「場所」は私たちの一部だ…
▪️第2章 「場所」に生きる 1/2
「我々に人間という姿を与えてくれたこの惑星がなかったなら、我々はどうして存在できよう。重力、それに氷点と沸点のあいだにある生存に適した気温、この二つの条件が、我々に体液と肉体をもたらした。我々がよじ登る木、そして踏みしめて歩く地面が、手足に五本の指を与えてくれた。「場所」が遠くを見渡せる二つの目を与えてくれた。川の流れとそよ風が、自由に動く舌と渦巻く耳をくれた。大地は歩くことを、湖は潜ることを教えてくれた。我々に人間の心を授けてくれたのは自然の脅威だ。それに感謝し、謹んで自然の教えを受けるとしよう。」(p61)
「ウィルダネスと個人の小規模な農場。この両極端な土地に挟まれた領域は、穀物の栽培には向いていない。かなり早い時代、耕作に適さないこの土地を、部族や村の人々は共同で使っていた。野性と半野性の入り混じったこの地はきわめて重要な意味を持っている。ウィルダネスを健全な状態に保つためにも、この領域が必要となるのだ。というのも、ここはウィルダネスの植物が過剰に繁殖したときや、動物が避難するための、大きな生息地となるからだ。さらに、農村の経済にとっても欠かすことのできないものを提供してくれる。この変化に富んだ環境が、個人所有の農場では望めない多くの必需品や快適さをもたらし、また、ここで獲れる鳥獣や魚が、菜食中心の食生活をより豊かなものにしてくれる。食料に加えて、この共有地は、薪、家を作るための柱や石、陶器を作るための粘土、薬草、染料となる植物なども提供してくれる。なかでもここが重要なのは、ある季節、あるいは一年を通して、ウシ、ウマ、ヤギ、ブタ、そしてヒツジなどの放牧地として利用できるからだ。」(p63)
ここで語られる「共有地(コモン)」は、斉藤幸平さんの言う「コモン」ともちろん同じ意味だ…アプローチは違うかもしれないが繋がっている…
「いま我々は、大洋、大気、空の鳥たちと、世界的規模の「自然契約」を結ぶ必要がある。犠牲にされた「共有地という共有資源」の世界すべてを、「共有地という精神」へ呼び戻すための挑戦なのだ。このままでは、大阪、ロッテルダム、あるいはボストンの木材買付け業者、油田開発に携わる地質学者の目には、地球上にある管理者の定まらないすべての資源は、解禁された狩猟の対象としか映らない。人口増加の問題、一見揺るぎない(しかし、混迷していて、脆く、本質的に指導者不在の)経済システム、このような状況の中で、ともすれば我々は現状認識を誤ってしまう。経済がどれだけ揺るぎないものか、それを見極める認識力もこれまた錯覚ということもある。…ときには社会全体が賢明な選択を誤ることもあるようだ。しかし失ったものが何であるのか、それすら分かっていない現代にあっては、「共有地の回復」を求めるよりほかに選択の道はない。共有地、それは光によって失われた漆黒の闇と似ている。夜を取り戻すのだ。我々すべてが分かち合えるさらに大きな存在を。」(p73)
国家とはそもそも富や権力の効率化のために生まれたのだと思う…いわば企業と同じベクトルを持っている…そういう国家がコモンを管理するとどうなるか…スナイダーは国家による管理はうまくいかないと言う…実際に活用する地元による管理が理想だと…
コモンとは違う位相を持ったバイオリージョンの重要性も説かれている…「共有地とその役割を、さらに広範囲な地方文化の中に探ることが、経済とエコロジーを総合し融和させる次のステップになる。」(p74)
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