ABOVE THE CLOUDS

雲の上へ(2018)
著 キリアン・ジョルネ
訳 岩崎 晋也

なぜ山に登るのか…
なぜ山を走るのか…

球磨川を走るだいぶ前に読み始めた…
しばらくトレーニングとか準備で本と向き合うことができずにいた…
読み終えたのはレースの一週間後…
天と地ほどの差があるとはいえ、接点は少なくない…

以下キリアンの言葉…

それでも僕は生きていると感じるために、たとえ死の危険を冒しても山に登らなくてはならない。(p10)

知らず知らずのうちに、世話をしているつもりでウサギを殺していたのだ。ウサギは捕らわれたまま生きるよりも死ぬことを選んだ。動物の中には、自由を失うと死んでしまうものもいるのだ。(p16)

競技で勝つためにトレーニングをする選手と、トレーニングをするために競技に出る選手がいる。ぼくは後者だ。競技を目標にすることはモチベーションを与えてくれるが、そんな目標がなくてもトレーニングはできる…いや、なくてもまったくかまわない。(p20)

夜、気温が下がるとぎしぎしと音を立てる枝や、飛び立つヤマウズラの羽ばたきで震える空気の音、あるいはヒューヒューと木々を渡る風。こうした音を聞くと、ぼくたちは音を取り戻し、風や動物に挨拶し、しるしを辿って家までもどった。こうした自然なしかたで、ほとんど意識することなく、母から山の一部になることを教えられていたのだ。(p25)*幼少期に妹と…

登山とはただ、命を危険にさらして頂に到達し、そのあと降りてくるというだけのことだ。どう考えても英雄的行為とはみなせない。これはただの愚行だ。(p48)

ぼくはサルダーニャの、登山者やスキーヤー、旅行者が利用する山小屋で育った。放浪者になったのはたぶんそのせいだ。幼いころからすでに、本当は誰のものでもない場所に住んでいたのだから。(p54)

ぼくはひとりでいると、いつも心が穏やかになる。ぼくにとって三人は群衆のようなものだ。(p55)

スポーツには社会的な役割などないと思っているわけではない。…だが現在では、スポーツはその源流である、ローマ時代のサーカスの見世物に戻っているように思える。…競技スポーツも過大評価され…今日の結果による階層化が進んでいる。…スポーツを神格化しないこと、そして表彰台をなくすことだろう。英雄なんてどこにもいないのだ。(p130-132)

この世界には並行したふたつの現実があり、そのそれぞれが観察しあってはいるが、たがいを理解しようとはしない。ぼくたちは朝起きてニュースを見たりツイッターをチェックするとき、まるで自分があらゆる場所にいるように錯覚する。バグダードを攻撃するテロリストやスペインのムルシア州での抗議行動、ギリシャ沖で沈没した難民戦の画像を見る…そして僕たちは誰もが親や子、もしくは移民だから、まるで自分のように感じる。その何秒かあと、その出来事とは関係のない政治家のコメントを読み、讃えたり怒ったりする。その次は拡散された動画に気を取られ、そのくだらなさに腹を抱えて笑う。…僕たちはあらゆるものをバーチャルに体験する。…だがやがて…書かれていることの無意味さに気づいて、はっと驚く。…ふたつの並行した世界は決して交わらない。(p192-193)

多くの人は、自分が「どんな人間か」は、自分が「何を持っているか」で決まると考えている。身体や精神的な機能、衣服、家、夫や妻、子供や友人、さらには評価や仕事、銀行口座。何を持っているかがものの見方を決め、自分が本来どんな人間なのかということへの興味は失われつつある。…ぼくたちはもはや、自分に触れることはできないのだ。こうした観点の変化は、あまり意識されないままに起こった。ぼくたちは観客に見られ、分析されていると分かったうえで行動し、考え、書いている。その結果、何をやるかということも、またその方法も変わりつつある。(p194-195)