菜食者だがヴィーガンではない…
ピーター・シンガーの動物倫理に同意するわけでもない…
論旨を項目別に要約してみた…
以下目次…
・「いのち」「生物」「動物」「植物」という括りではない…
・「倫理」でも「健康」でも「環境」でもない…
・ 理由、条件、順番…
・ 牛乳、鶏卵、羊毛、皮革、羽毛…
・ 動物愛護、絶滅危惧…
・ 家畜、野生動物…
・ 味、幸福、依存…
・ 誤解…
・ 自己満足、提案、実践、期待、我がまま
・ 歴史、食性、栄養、工夫…
・ 肉食社会、態度…
・ 経緯、影響…
・ 菜食に関して出会えた共感できる人たち…
■「いのち」「生物」「動物」「植物」という括りではない…
「代わりのない個(孤)」を意識している…相手側のことではなくこちら側のこと…自分の「想い」や「痛み」に関わること…普段私たちヒトはお互いを「代わりのない個」(以下「個」とする)として認識している…それは人と多くの動物たち(牛、豚、犬、猫、鶏、馬、イルカ、鯨…)の間でも同様なのではないだろうか…仮に一緒に過ごすなら、それぞれお互いを他と区別して認識し、同じ記憶(厳密には違う)を共有することもできるように思われる…そういう存在を「同胞」と呼びたい…コーラ・ダイアモンドの言葉を借りた…「個」の意識あるいは感覚は極めて一方的で勝手な思い込みと言えるが、それは動物に対してだけではなく実際は人に対しても同じなのだと思う…相手側が抱く「個」の感覚は動物であれ人であれ「痛み」と同じように知り得ないものだ…客観的に計れる知的領域のものではない…一方的であれ、その感覚、意識を大事にしたい…家族や友人を大切にするように…小魚や昆虫になるとどうだろう…彼らに対する「個」の意識、感覚は曖昧なもので、それだけにグレーな存在と言える…極力いのちを奪わないようにと意識しているが強い拘りを持っているわけではない(悩む部分…聞かれてイライラする部分)…植物や菌になればもうそこに「個」を意識することはないだろう…境界はハッキリしたものではないし個人差もある…おそらく誰にでも共通しているのは、同種であるヒトは食べたくないということであり、それが最初の線引きになる…逆にウイルスや菌や植物に「同胞」としての感覚はないだろう…「死」とは「個」が絶えるときに感じるものであり、「個」を消すことを「殺す」ことと感じる…「同胞」に対する感覚は厳かなものだ…遠い昔から受け継がれてきた動物や自然への厳かな感覚…それは今、失われようとしているように思えてならない…人も動物もかつては供儀を通して神に捧げられた…供物より、もっと神聖で、もっと重い犠牲だった…
「同胞」への態度には残念ながら本来の姿と言えるものが見当たらない…それは環境に依存し、ヒトに於いては矛盾を含んだ多様さも見せる…基本的に同種に対する「同胞」の感覚は揺るがないものと考えていい…さらにそれは極く小さな集団内での感覚と考えるべきかもしれない…狩猟採集時代のヒトや多くの動物の場合、身近なグループだけが助け合う対象であり、状況によっては同種も奪い合う存在になった…「2001年宇宙の旅」のオープニングのようなことも想定できる…逆に現代人が持つ同じ人類すべてに対する「同胞」の意識は知性を伴った特殊なものであり、ハラリの言う虚構によるものだろう…菜食者が会ったこともない牛の加工品を食べようとしないのも知性によるものだ…一方で現代人は戦争を繰り返し、動物愛護を唱えながら肉を食べ、愛情を注いだという家畜を食肉加工業社に売る…それらが間違いとは言い切れない…ヒトは文明(意味)の暴力とともに答えを失っている…
「私」と「個」は違う…「私」とは、理性、意味、恩恵と犠牲、歪み、力、答えの不在、文明、依存、所有、勘違い…それらと共にある…今のところ人間特有のもの…人の態度が多様であることの根本にあるもの…
「いのち」「生」とは特別なものではない…
生物も鉱物も空気もプラスチックも思考もイメージもすべてが「いのち」を構成している…
■ 「倫理」でも「健康」でも「環境」でもない…
倫理(モラル、道徳)とは純粋な感情や感覚そのものではない…自分や他者に要求すること、あるいは課すことだ…動物にもし「権利」があるなら倫理を発動してもいいが、そんなものがあるとは思えない…倫理とは損得が聖域を装ったものだ…
https://hitkeas.com/2020/12/07/stille/
https://hitkeas.com/2019/07/02/speciesism/
https://hitkeas.com/2017/09/22/animal-liberation/
健康とは本来のヒトの状態ではない…本来の機能を失ったヒトが文明の中で維持しようとするもの…原発で生活を維持することと同じ…特別な運動(ランニングとか)やストレッチや多品目食事や薬やサプリで維持されるもの…健康は薬を捨てる(自然に還る)のではなく、新しい薬を求めようとする…
環境とは地球や動植物との調和とか共生の感覚とは関係ない…ヒトの住みやすさのことだろう…おそらく地球と同じ環境の星が見つかって移住が可能になればSDGsはすぐに忘れ去られる…環境とは極めてわがままな概念だ…
これらのことが理由なのではない…
これらは文明の暴力とともに語られるものだろう…
理由は純粋な感覚の中にある…
知性や環境が広げたり複雑にするものであれ、その根本にあるもの…
■ 理由、条件、順番…
同胞を食べることは容易ではない…抵抗を感じる…だから食べない…それが自分にとっての唯一の理由…身体への影響は、理由を支える「条件」なのだろう…菜食を可能にしているもの…肉を食べないと生きていけないとか、工夫しても調子が悪いなら菜食を考え直す必要がある…もし問題ないなら菜食を続ければいい…
かつてヒトは肉を食べ、皮をまとい生き延びた…そうするしかなかった…しかし今、技術の進歩は動物の犠牲から理由を奪い続けている…馬は車へ…番犬はホームセキュリティへ…サッカーボールは人工皮革へ…いま先進国に於いて肉を食べる理由は栄養ではない…さらに培養技術は家畜を終わらせるかもしれない…まだまだ動物の犠牲の上に成立しているものは多い…常に検証し減らせるものは減らす作業が必要なのだと思う…動物の犠牲には理由が必要だと思う…
伝統的狩猟採集生活を続ける少数部族に農耕を勧めるとか、そんな馬鹿な話はない…彼らは自然と調和した生活を送っているし、動物や自然に対して畏敬の念を持っている…現代の文明人がココに戻ることはできない…しかしある意味ココには理想がある…
草花の育たない寒冷地や高地では家畜は貴重な栄養源になるだろう…
もし災害時に動物の肉しか手に入らないのならそれを食べるしかない…
とりあえず私たち人に近い動物たちなのだから、肉を食べることに抵抗を感じたり、感謝したり、それが人らしさじゃないだろうか…まだまだ世の中は動物の犠牲で成り立っている…できることを少しずつやるしかない…それをやらない理由はないだろう…どうせ完璧にはできないのだからすべて無駄だとか、そういうことにはならないはず…何を大切にしたいのか…どれだけ捨てられるか…
■ 牛乳、鶏卵、羊毛、皮革、羽毛…
特に牛や鶏などは殆どの場合、過酷な労働を経て消耗し、生産性が落ちると食肉加工業社などに売られる…その間、親子や異性との自然な営みも奪われている…牛乳や卵は殺すわけではないのだからと言う人がいるが、どちらかと言えばこちらの方が深刻だろう…彼らは能力の限界まで搾り取られて、その後食べられるか殺処分かペットフードにでもなるのだろう…飼い主は最期まで面倒をみない…もし家族として家畜を迎え入れて、卵や乳を家族や近所の人の分だけ少しいただいて、そして死ぬまで面倒を見るのなら何の問題もない…そんな環境は稀だろう…羊も品種改良のせいで毛を刈らないと重さで潰されるらしい…人の操作の悍ましさ…羊も年を重ねて毛が伸びなくなると売られるらしい…
野球のグローブやボール、サッカースパイク、バドミントンシャトル…動物に感謝しているアスリートがどれだけいるだろうか…例えば野球のグローブを作るために仔牛が犠牲になっている…何の躊躇いもなく最高級の革と宣伝される…車のシートやハンドル、ソファー、手袋、財布、ベルト、革靴、ダウン…同じこと…どうしても必要なら、培養技術をつかった製品の生産が待たれる…主人不在の培養技術…身体なき器官…
■ 動物愛護、絶滅危惧…
動物愛護?…どちらかといえば動物には関わらない方がいい…動物は基本的に人社会ではなくそれぞれに相応しい環境で生きれるよう配慮すべきだ…コスタリカが動物園を廃止したように(コスタリカの政策はいちいち凄い…偉い…)…可愛がる必要はない…もしペットを飼うなら、それは家族として迎え入れることであり、最期まで面倒を見るということだろう…
絶滅危惧種を救う必要もない…淘汰されるのは自然なこと…種という括りは、人が知性によって抽出し区別しているものにすぎないのだし…ただし人の活動が影響して動物が苦しんでいるのなら、そのときは救うべきだろう…
基本的な態度は関わらないことだ…
■ 家畜、野生動物…
自然界に「食べ物」は存在しない…食べる行為があるだけだ…食べ食べられることに優劣もない…そこは水の中の水のような世界だ…人が抽出、加工することで「食べ物」は生まれた(それは「エネルギー」にしても同じ…)…自然界で、食べられる動物が食べ物であったことは一度もない…しかし家畜は食べ物として生まれた…それ自体が悲しい事態だ…本質が実存に先立っている…かと言って彼らの「個」は野生動物に比して劣っているとは考えられない…隅々まで同じ生であることに変わりない…
仮に菜食が広まれば家畜は用済みになる…それを理由に菜食者を責める愚かな人もいるが残念でならない…まるで勝手な実効支配による領有宣言みたいだ…現実的な問題であることは確かだが、現在の異常な家畜の個体数を招いた要因こそ問題視するべきだろう…今後菜食でなくとも培養肉が主流になることも考えられる…家畜を計画的に減らすことも必要になる…大きな視野と長いスパンでの手続きが必要だ…ペットと同じ様に最後まで面倒を見ないといけない…同時に家畜業のケアも考えないといけない…
■ 味、幸福、依存…
おいしいものを食べて幸せを感じることも大切なことだと思う…そのひとつひとつが人生に意味を与えてくれる…ただ、肉を食べることは自分にとって幸せなことではない…それは最後の手段でありたいと思っている…まず心穏やかではいられない…そして肉はタバコや酒や大麻や甘いものと変わらない要素を持っている…菜食に変えてから、食に対して冷静になれている…自然な?味わいで十分になった…おそらく肉は依存性が高い…タバコや酒に似ている…薬になることもあれば毒になることもある…依存性のあるものは今日の資本主義社会において重要な役割を担っているのかもしれない…車やスマホにしても同じだ…それらすべてを否定するつもりはない…しかし手放しで受け入れ続けていいとも思わない…
■ 誤解…
我慢している?
菜食は我慢しなかった結果だ…肉を食べることは苦痛だ…「死」つまり「個」が絶えることにまつわる感覚がある…「悲しい」「怖い」「気持ち悪い」「汚ない」「臭い」…だから食べない…バーベキュー時の肉が焼ける匂いは苦痛だ…タバコをやめたらタバコの匂いが苦痛なのと同じだろう…菜食者の中には肉を我慢している人もいるかもしれない…ストレスが貯まるなら少しずつ菜食に切り替えるとか、単純に肉を減らすだけにするとか、そういう工夫でいいのでは?
結局、肉もどきを食べている…
本当は肉を食べたいのに我慢しているとか、本来の食性が肉食であることを裏付けているとか、そういうことを言いたいのだと思う…確かにそういうものが食べたくなる時はある…しかし元々肉食文化の中でさまざまなメニューや味覚が育っているので、そこから抜け出そうとしても似てくる確率は自ずと高くなるように思う…それと肉は依存性が高い食材だ…タバコや酒や甘いものに似てる…菜食者でも食べたいときはあるのだろう…その程度の話だ…
菜食者が病気になると…
菜食者が病気をすると必ず菜食のせいと思われる…菜食を始める前から患っていることも菜食のせいになってしまう…この事実は悩ましい…逆に肉食者が病気になっても肉食のせいにはならない…心臓病や多くの癌が肉食の影響という報告をよく見るが…
周りに強制しないならOK?
健康とかダイエットが理由ならそれも考えられる…しかしそれ以外の菜食者は、世の中から肉食が減ること或いは無くなることを期待している…強制しないのは、それが最善ではないと思っているからであり、肉食者との関係や自分の立場を大事にしているからだろう…「強制しないヴィーガン」を容認する肉食者は「趣向でやってるだけならいい」とか「害がないならいい」というニュアンスで言っているのかもしれない…しかしヴィーガンは肉食者と相容れない立場だ…自分だけよければいいというヴィーガンはヴィーガンではない…黙っていても、ヴィーガンは常に願っている…諦めている訳ではない…自分はヴィーガンではないが、この点はヴィーガンと同じだ…
食べていいものと悪いもの…
ヴィーガンなら厳密に分けてるのだろうが、自分みたいな偽ヴィーガンというかヴィーガンもどきはグレイゾーンにあるものをさほど気にしていない…一般に売られているアイスとかパンも普通に食べている…アイスとかパンもすべて植物性で作れる(酵母とかどうでもいい)ので、もしそういう商品がスーパーに並べば迷いなくそちらを選ぶだろう…ネットでヴィーガンOKのカップ麺なども買うが、やはりまだまだ不便だ…外食では魚系の出汁まではOKとしてるのでうどん等は食べる…肉食社会では難しいことも多く、テキトーなルールを作ってあまり神経質にならないようにしている…菜食者寄りの選択肢が増えることを願う…培養肉を食べるかどうかはまだ分からない(ヨーロフスキーは後退だと言ってたが…)…宗教でも特定の動物を食べてはいけないとかあるが、こじつけ感を拭えない…後ろめたさの表れなのだろうけど…
■ 自己満足、提案、実践、期待、我がまま…
自分だけ満足していればいいという話ではない…家畜の悲鳴が消えることはないのだから…宮沢賢治が『ビジテリアン大祭』の中で言った様に「自分ばかりさっぱりしていると云ったところで、実際にほかの動物が辛くては、何にもならない…」…かといってどこかに正しさや善があるとも思っていない…世の中が少しでも動物の犠牲を減らすことを期待している…そのための実践であり提案…
マイノリティーの態度が我がまま扱いを受けることはあるだろう…「協調性がない」ということなのか、「自由が許容を超えている」ということなのか…自分には、肉を食べることの方が「我がまま」であり調和や共生の感覚から遠い行為のように思えるが…
自己満足は徹底すべきだ…きっと自分だけの満足では満足できなくなる…
■ 歴史、食性、栄養、工夫…
ヒトの祖先は果食動物だった…つまり果物とか木の実を食べていた…しかし狩猟採集時代も長かった…そのころ脳の発達が見られる…歴史を理由に食性を語ることもできる…ただ、そういう歴史マウントに意味があるだろうか…きっと未来には別の報告や解釈が出てくる…歯や腸や消化酵素の話にしても同じ…歴史や体の構造や栄養の話はほぼ着地点の見えないカオスであり、決め手になっているのは考える以前の立場だと言っていい…その立場が都合のいい情報を集めて都合のいい解釈をする…多くのヴィーガン、反ヴィーガンが陥っているように見える…大事なのは実際の体への影響を確かめることじゃないだろうか…トップアスリートがプラントベースの食事にする事例が増えている…ジョコビッチ、ハミルトン、メッシ、三笘…病気に強くなり、怪我もしにくく、怪我をしても回復が早いという…自分も実践してみて同様の感想を持っている…最も信頼できる情報と言ってもいい…問題は工夫ができているかどうかだろう…肉食社会での肉食も、注意、工夫が必要なように…
以下の内容は栄養素に関する雑資料…
どう読むかは別として…
ビタミンB12
海苔とかスピルリナとかニュートリショナルイーストとか、とりあえずB12を補えるとされるものはある…しかし体内で合成できないとされているB12だが、そもそも健康とされる腸内環境と昔ながらの土壌さえあれば問題ないのではないだろうか…健康な腸内環境では細菌がB12を作ってくれるらしい…また、近代農場が出現する以前は土壌にB12を作る細菌が含まれていて、野菜や果物からB12を摂ることができたらしい(https://vegan-kosodate.jp/nutrition/vitamin12)…肉食で腸内環境が悪くなり、農薬で土壌も劣化した…菜食に根本的欠陥があるわけではない…
ω3脂肪酸
くるみや亜麻仁油などから摂れるALA(α-リノレン酸)だけでも十分かもしれないが、その変換率では心配というならミドリムシ(ユーグレナ/動物という人もいるかもしれないが)の加工食品(パウダーやタブレット/栄養を抽出したサプリメントではない)を摂るのもいいかもしれない…魚に含まれるDHAやEPAも起源を辿れば藻にたどり着く…魚も人間と同じくDHAやEPAを体内で合成できないため、藻類や微生物から取り入れて濃縮している…
タンパク質
野菜類のアミノ酸スコアは確かに単品で見れば低いかもしれない…しかし含まれるアミノ酸量は世間の認識をはるかに上回っていて、組み合わせで必須アミノ酸も賄える…菜食の方がタンパク質の摂りすぎによる弊害に苦しむこともない…特に日本は大豆製品が豊富であり諸外国に比べて菜食には恵まれた環境だ…
(*1985年から大豆のアミノ酸スコアは100という評価らしい…Wikipediaにも記述がある…なぜ古い数値が今だに流布しているのか?)
■ 肉食社会、態度…
現代社会は動物の犠牲で成り立っている…特に食肉産業はその中心にあると言っていい…ある意味、ヒトは栄養や味とは関係なく、生活を維持するために動物の犠牲を必要としている…そういう社会(時代)に生きている…自分も天然皮革を使った商品を扱っている…お金を得るために…食肉加工場で働く隣人を責める気は一切ない…
また、肉食社会における完全菜食や100%ヴィーガン化粧品しか使わないこととかに意味があるとも思えない…ある程度自分の納得できる範囲で実践できれば十分としたい…細かい徹底に何の意味があるだろうか…食材の調達だけではなく周囲の理解も含めて困難は尽きない…ゴミゼロを徹底するよりもできる範囲で実践する方が今は現実的だ…無理なく、そして仲間との関係が穏やかでいられるようバランスをとることが最も大事なことだろう…
必要なのはヴィジョン…
今すぐすべてを変えることではない…
少しずつでいい…
■ 経緯、影響…
人物や作品や宗教の影響で菜食を始めたわけではない…ある日、肉が気持ち悪くなりしばらく食べることができなくなった…調べたらトレイルのトップランナーがヴィーガンだということを知った…トップアスリートが問題ないなら大丈夫…気持ちよく菜食に移行した…新しい試みが楽しかった…様々な本、人物、映画などが理解を深める手助けになったと思う…
■ 菜食に関して出会えた共感できる人たち…
コーラ・ダイアモンド(哲学者)
メラニー・ジョイ(社会心理学者)
ユヴァル・ノア・ハラリ(歴史学者)
ゲーリー・ヨーロフスキー(活動家)
宮沢賢治(詩人・童話作家)
ジョン・マクスウェル・クッツェー(小説家)
ジョナサン・サフラン・フォア(小説家)
オルガ・トカルチュク(小説家)
フランツ・カフカ(作家)
ビリー・アイリッシュ(アーティスト)
アリアナ・グランデ(アーティスト)
モリッシー(アーティスト)
ルイス・ハミルトン(F1レーサー)
スコット・ジュレク(トレイルランナー)
ステフ・デイヴィス(クライマー・ジャンパー)
キリアン・ジョルネ(トレイルランナー・クライマー)
ゲーリー・スナイダー(詩人・自然保護活動家)
ティク・ナット・ハン(禅僧・詩人)
ヴァンダナ・シヴァ(哲学者・環境活動家)
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(作家・思想家)
クロード・レヴィ=ストロース(社会人類学者・民俗学者)
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人類の歴史はまだ始まったばかりと考えることもできる…ずっと未来に現代の肉食を知って信じられないと思う時代が訪れても不思議ではない…
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[…] むしろ食べる理由を問いたい…殺して食べるわけだから…殺すとは、代わりのない個体を終わらせることだろう…https://hitkeas.com/2022/09/24/irreplaceable/ […]
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