宮沢賢治が『ビジテリアン大祭』の中で「自分ばかりさっぱりしていると云ったところで、実際にほかの動物が辛くては、何にもならない…」と言ったように、他者に要求したくなる部分あるいは期待する部分はある…しかし強制はできない…
もし権利を掲げるなら「〜すべき」と強制することもできる…倫理やモラルに訴えて話すことができる…しかし権利とはヒト社会でヒトに与えられるものであって、もし動物に権利があるとするなら、それはヒト社会に巻き込まれない権利なのではないだろうか…もっと感覚的な理由…気持ちが楽だからであり心穏やかでいられるから…Pシンガーではなく、Cダイアモンドに同調できる部分…そこに「同胞」に対する感覚を見出すこともできる…同胞とは「代わりのない個」を意識できる存在のことと考えたい…近い動物にも感じることができる…ただしそれは昆虫や細菌、ウイルスへとヒトから隔たった存在になればなるほど希薄なものになっていく…境界はぼんやりしている…「個(あるいは孤)」を明確に感じるほどその消失を「死」と感じ、消す行為を「殺す」ことと感じる…
同胞への感覚は絶対的なものだろうか…その感覚が人の本来の姿なら強制への糸口にすることもできる…同じ種に対しての同胞の感覚は疑いようがない…殺し合うこともできる人類であってもそれは基本揺るがないものではないだろうか…牛同士であっても豚同士であってもそれは同じなのだと思う…しかしよく観察するとそれぞれの「本性」と思われる部分は環境に応じて別の姿を見せるように見える…例えば狩猟採集時代のヒトは数十人のグループで生活していたかもしれないが、他のグループと協調する関係ではなかったのだと思う…似たものではあれ食べものを奪い合う余所者という認識しかなかったのではないだろうか…同胞としての感覚は文明とともに育った…ハラリの言う虚構のおかげかもしれないし、虚構だけにそれは軽薄なものにも見える…猿と牛が仲良くなったり、猫と犬が仲良くなるのも、特殊な環境下で育つものではないだろうか…条件が揃えば育つもの、開かれるもの…つまり絶対的なものではない…ある特定の姿が本物とは言い難く、複雑で捻れた様相を見せることも少なくない…人はペットを可愛がりながら肉を食べることができる…狩猟や釣りを楽しむこともできる…ミサイルのボタンを押すこともできる…愛情を込めて育てたという牛を食肉加工業者に売ることもできる…
ヒトの本性を複雑な様相へ導く文明…その本質とは何だろうか…それは暴力ではないだろうか…暴力とは恩恵のために犠牲に背を向けること…理性は暴力と相性がいい…理性は切り取ることで何かを隠す…歪み、意味の生成…私たちは総じて暴力の上に生きているし、誰もが常に暴力に手を染めている…畜産業だけを取り上げて論じることには無理がある…誰もが被害者であると同時に加害者でもある…軍備、動物の犠牲、ゴミ、放射性廃棄物、生活習慣病、貧困…決して望んでいるわけではないそれらを吐き出しながら文明は維持される…これから先私たちは今まで通り進むのもありだし、逆にすべて放棄してもいい…地球を捨てるのか、それとも意味を捨てるのか…そんなことができるなら…
正しさや善悪に還元することはできない…
ただ心穏やかな感覚を大事にしたい…
実践であり、提案…
理性信仰を崩す…
暴力依存を緩める…