SPINOZA

スピノザの哲学は隅々まで仏教なのだと感じる…これほど酷似していれば違いよりも大筋の方に配慮すべきではないだろうか…共通する言葉や理屈を追いかける必要もないし、スピノザとか仏教とかも忘れて…

■ 汎神論/無神論

神とは、すなわち自然のこと…人の形をしてたり、この世を作った存在ではない…すべては一つ…別に神でもいいしそうでなくてもいい…世界、自然、宇宙、真理、実体…全部同じこと…ただ「世界」は「私」と対の言葉として馴染むし、「自然」は森や海を連想してしまう…使い分けるならとりあえず「実際」とか「一切」でもいい…

水は水として生じかつ滅する…
しかし実体としては生ずることも滅することもない…

仏教の言葉ではなくスピノザの言葉だ…
人も同じように実体として生まれることも消えることもない…

■ 心身平行論

結局「私」が「世界」を作っているという話に思える…「私」が思惟で「世界」が延長ではない…逆だ…「私」は身体という延長の中にあり「世界」は思惟の中にある…それは平行している…風船をUFOと錯覚しようがそれが世界というもの…小説を読むとき、目で読み、映像を浮かべ、音を再生し、悲しみ、涙が込み上げ…これは思惟と延長が不可分に密着平行していると考えていいのではないか…思考も自然現象と変わらない…ソラリスの海のようなもの…
https://hitkeas.com/2019/06/01/%d1%81%d0%be%d0%bb%d1%8f%d1%80%d0%b8%d1%81/

原因は人の頭の中にだけある…
自然の世界は結果だけがあるのだろう…
バタイユ風に言えば、自然は「きまぐれ」で、思考は「まやかし」…

■ エチカ/自由意志

人間の本質は欲望らしい…喜びを感じるものを「善」とし、悲しみを感じるものを「悪」とする…自己肯定こそ善…これを理由に欲望に生きることが正しいとか賢いとか言うことはできない…人はもっと見ることができるし聞くことができる…わざわざ鈍感になっているから過剰な刺激が必要になる…過剰な刺激が人を鈍感にしているのかもしれない…過剰な刺激を断つことは禁欲だろうか…本来の鋭敏な欲望の姿に戻ることじゃないだろうか…それは禁欲ではなく欲望の解放なのだと思う…過剰な刺激を求めることの方が言わば禁欲なのではないだろうか…例えば酒を飲むこと、肉を食べること、タバコを吸うこと、それらは本当に欲しているものだろうか…本来の欲望にフタをすることではないだろうか…

精神の自由な決意で話をしたり黙ったり…
その他いろいろなことを為すと信じる者は、目をあけながら夢を見ているに過ぎない…
人は常に外部からの影響下にある…自分の判断と思っているものは外部を要因とする結果…
すべては自然現象のように流れている…
すでに衝動がある…それを肯定する(能動)のか、否定する(受動)のか…それだけ…
能動こそ自由…少しでも自由(能動、肯定)を高めること…

■ 自然状態

能動によってホッブズの描く自然状態を招くことはないのだろうか…
ヒトの持っている本性のひとつには、例えば相互扶助があるのだと信じたい…
それが種としてあるべき姿だろう…
動物はそれができている…
滅びるならそういう動物だということ…

■ 理性

ヒトは本能と引き換えに理性を手にした…
理性は知っているのではない…
理性とは宙吊り状態にある証だ…
穴埋めをするように道具(有用性)がある…

理性は自然現象と縁を切っているわけではない…
神の内にあるのだと思う…
ただ普通じゃない…ほかには無い異質さを持っている…

入門書を読むと、理性が正しい道への鍵のように書かれている…
ふだんは邪魔をするのが理性だろう…
人工的なものが身体(延長)と精神(思惟)に刻まれる…
能動、肯定を忘れてしまう…

理性は知っているわけではない…
心身が喜ぶものに教えてもらうしかない…

**********

参考文献

スピノザの世界(2005)
著 上野 修

はじめてのスピノザ(2020)
著 國分功一郎