ひきこもれ – ひとりの時間をもつということ(2002)
著 吉本隆明
フーコーが歴史の中に見た「狂気」と同じだと思う…社会が「ひきこもり」を生み出す過程は、ひとりでいることへの恐怖や罪悪感と切り離せない…それは病的なものになり、克服すべきことになる…吉本氏はひきこもりをある意味賛美し、少なくとも弁護・後押ししている…
他者への伝達ではなく自分に通じる言葉…
その言葉はひきこもることで生まれる…
価値はそこでしか増殖しない…
コミュニケーション能力が奨励・要求される世の中になり、病院のお世話になるケースでなくとも、ひとりになることに対して恐怖や罪悪感まで感じてしまうようになる…おそらく誰もが抱えているものじゃないだろうか…吉本氏は逆に引きこもることの大切さを説く…
SNS或いはテクノロジーも自分の大切な時間を奪う…便利になればなるほど時間は埋まり、自分の時間はなくなっていく…その中で新しい倫理観が育って意味や価値も変化しているのだろうけど、自分の大切な時間が返ってくるわけではない…
吉本氏でも孤独に耐えられないときがあるようで、そのときの処方箋は「銭湯」と「神社のお祭り」だったらしい…大勢の中にいながらひとりでいられる…自分にとっての処方箋のひとつは大会で走ることかもしれない…
以下吉本氏の言葉…
同質の者が集まる世界は先が閉じている…
上っ面の調和を保とうとする…
自分の中の違和感を大事にしていく方がいい…
一般社会の中にいて、不登校的な生き方を貫くべき…
[…] なぜ走るかといえば、楽しいからだ…身体が喜ぶからだ…もちろん苦しさも伴う…そう言う意味では荒療治なのだろう…何かを取り戻すための治療…そういったコアの要素はどんな走りの中でも生きている…ただそれは状況によって隠れてしまうことがある…たとえばレース…レースは手放そうとしているものに再び近づく一面を持っている…曲作りで考えるなら、曲を作る喜びは世間の評価を必要としない…それがコアな部分だ…それでも曲が世間との繋がりを持つことで何かが受け継がれるのだろう…レースにも交差するものがある…速い人、遅い人…集中してる顔、苦しい顔…何気なく交わされる言葉… https://tashkie.com/2023/10/12/talk/ https://tashkie.com/2021/01/04/ひきこもれ/ […]