There never was a West: or, democracy emerges from the spaces in between
DAVID GRAEBER
アメリカ独立戦争 1775-1783
フランス革命 1789-1799
■ 第3章 「民主主義的理想」の発生について
「合衆国とフランスで近代的選挙制度を創始した人々は、あからさまな反民主主義者だった。…米仏の創始者たちはともに、歴史的共和主義勢力の側にたって、貴族主義勢力および民主主義勢力に反対していた。そして両国の人々が政治的模範としたのはローマ共和国であって、アテネの民主主義は悪い見本として蔑まされていた。」*デュピュイ=デリの言葉(p55-p56)
アテネの民主主義とは、限られた民衆による直接民主制を意味し、武力を背景にもつ多数支配体制だった…革命の時代においても、民主主義は「暴徒」を意味し、人民主権という意味合いは「共和制」の方が担っていたのかもしれない…当時の合衆国の体制設計者たちも、ローマの「混合体制」を模倣しようと努めていた…ローマの共和制とは、最高指導者、貴族階級、庶民の均衡が保たれたものだ…今日に至るまで合衆国の思想家たちは「アメリカは民主主義国ではなく共和国なのだ」と好んで指摘する…
一方で18世紀末に民主主義を自称する者たちは、革命的体制の内部にあっても暴走的な扇動者とみなされていた…事態は次の世紀に入って変わり始める…合衆国では選挙権の拡大に伴い、政治家たちが小農民や都市労働者の票を求めるようになり、次第に「民主主義」という言葉が採用され始めた…同じ時期にアテネの劇的な再評価も行われ、暴力的な群衆心理ではなく、民衆参加という高貴な理想を体現するものとして描き直されるようになる…それは単に「民主主義」という言葉を「共和国」とう言葉の代わりに使いはじめたに過ぎなかったのだが…
ユゴーやホイットマンも、民主主義を美しい理想として推奨するようになる…それはエリート層の言葉選びに付き合ったのではなく、より大きな大衆感情に従ったものだった…「民主主義的理想」は西洋の伝統の中から発生したのではなく、外から課せられたものと言える…「西洋文明」という観念が現れるのも第一次世界大戦の後であり、植民地帝国の解体に都合よく利用できるものだった…