Animal Rights: Current Debates and New Directions
Cora Diamond
Eating Meat and Eating People
バタイユの動物性(或いは内在性)という概念に倣うと、動物同士が食べて食べられることはそこに優劣があるわけではなく死さえ悲しむことではない…動物が殺されたり食べられたりすることが問題になるのは、人間との関係においてのみ…人間だけは食べるものを選択している…
シンガーは動物も人間と同じように苦楽を感じることができるのであり、私たちはその動物に対して平等に配慮しなくてはならないと言う…ダイアモンドはこの主張に本質的な間違いを見ている(どこまでを配慮の対象にするのか、あるいはどうやって検証するのかという問題もあるが…)…ダイアモンドはシンガーの言う動物の「権利」は重要ではないという…人間は人間を食べない…苦しみとは関係なく不意に死が訪れたとしてもその死体を食べることはない…「生きる或いは苦しまない権利」を奪うことと関係なく人を食べない…ダイアモンドはシンガーの主張に揺さぶりをかける…
ところで人類は培養技術によって食用人肉を作るだろうか(…などという発想もおかしいが…)…そして生まれた人肉を食べるだろうか…もはやそこに痛み苦しみはない…ダイアモンドに言われるまでもなく作りたくはないし食べたくもないだろう…ただ身体なき器官のような肉も死者の一部として扱うのだろうか…
それにしても、そもそも人間は本来、動物の死体も食べたくないのではないか…
食べた肉がゴールデンレトリバーの肉だったら…メラニージョイは肉食者が持つある種の催眠状態(イデオロギー)をカーニズムと呼んでいる…もしカーニズムから解放されるなら、人間は動物の死体も食べたがらないのではないだろうか…車に轢かれた猫を食べたいとは思わないように…
「食べない理由」は主観的なもの…
シンガーの議論が動物の生物学的事実、つまり能力に依存しているのに対して、ダイアモンドは「同胞」というキーワードで反論する…同胞という観念は、人間の生とは何かという非生物学的な考えを拡張したものだと言う…この拡張こそ「主観」なのではないだろうか…さらにダイアモンドは同胞という観念の中に「尊重」を見ている…おそらく「尊重」とは分かりえぬ者に対する自然でこの上ない配慮であり、自分の未熟さの受容(肯定)なのだと思う…他者も動物も「分かりえぬ者」…
生きているときの暴力に対しては「かわいそう」で、死んだらさらに「かなしい、こわい、きたない、くさい…」なども感じるだろう…いずれも主観的なものであり、それが自然であり…それだけのことのように思える…本来持つ本能的なものなのか、それとも社会を維持するなかで人の中で育まれた感性なのか…いずれにしろそこに核心があるのだと思う…
客観的社会的属性を根拠とする権利は限りなく法に近いモラルとして影響を持つ…動物の犠牲を減らすには有効なのだろう…しかし動物に対する問題はもっと主観的な部分に依拠するものではないだろうか…だから残念ながら社会的強制力はない…ただ、今とは別の選択もできるはず…