ピーターシンガーは動物の権利を主張する…
その根拠となる客観的事実は存在するのだろうか…
その権利は権利として機能するだろうか…
自然権…めんどくさい概念…
生きるために殺す必要があれば殺すし食べる必要があれば食べる…
必要なければ何もしない(ここが大事なのだが)…
それだけのこと…
そもそも「権利」とは人間社会におけるものであり、作り物に過ぎない…
生来のものというよりは社会の中で与えられ獲得するものだろう…
そして権利とは不備な人間が纏うものであって、動物まで巻き込むものとは考えにくい…
仮に動物が権利を持つ事態が訪れるとするならそれははるか未来の話だ…
動物には動物の世界がある…基本的には放っておくのがより良い共生のありかただと思う…
権利があるとすれば人間社会に巻き込まれない権利ということではないだろうか…
そういう意味でなら逆に種差別はあっていい…差別されるべきだ…
動物はホモ・サケルではない…がしかしある意味ホモ・サケルであるべき…
動物まで生政治で囲い込む必要はないだろう…
すでに有用性に乏しく供儀にも適さない…
(法的保護対象になるケースはあるけれども…)
差別とは、同じ社会における平等であるべき存在に対して向けられるもの…現在ヒトはサピエンスだけで、他は動物として括られている…もしネアンデルタール人が生きていて、私たちホモ・サピエンスと共存できていたとするなら、おそらく近い知能を持った存在であっただろうし、共存を可能にする感情的要素があったに違いない…そうなればお互いの権利を考える事態を迎えたのかもしれない(現在の先進国民と未開民族の関係もひとつの在り方…)が歴史は違う結果を選択した…ホモ・サピエンスは邪魔なものを壊し(殺し)使えるものは使い(食べ)、それが本性というよりはそうやって生き抜いたのだろう…おそらくいずれにしろネアンデルタール人は邪魔だったし、使える動物は使った…同じホモ・サピエンスでも邪魔になれば殺すし使える人間は奴隷にした…動物の権利どころじゃなかった…そこから女性が社会進出し、黒人が市民権を得て、同性婚が認められ…
差別とはもともと根拠が曖昧だ…しかし種差別は新たに(曖昧な)定義を追加することで半ば強引に動物に権利を与えようとする…そこには人間側の論理的都合が強く感じられ、解放が新たな差別を生むようにさえ感じる…真の解放は逆にしっかり差別してやることではないだろうか…彼らなりの生き方を尊重すること…
動物を食べないのは動物側にある「権利」とか「死への恐怖」とか「痛み」に由来するものではない…こちら側がその奥底で感じるものにただ従っているというそれだけのことであって、そこに動物の主体性とか痛みとかを見てはいるのだけど、それが真実なのかどうかはさほど重要なことではない…根っこは主観的なものだ…にも関わらず食べないだけではなく、他者に食べないでほしいとも思っていて、本意ではないが倫理的脅迫みたいなものも感じさせるかもしれない…それは正しさの強要ではないし、提案であり、ヴィジョンの提示なのであってそれ以上ではない…
多くの人たちが動物への暴力と向き合えていないとは思っている…栄養的に或いは経済的に必要だという認識が厚い壁を作っている…肉食を支える根拠があるとして、そのわずかな根拠と巨大過ぎる産業のバランスはとても釣り合っているとは思えない…向き合うことができれば違うバランスもあり得るはず…
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