Bataille

供儀、祝祭および聖なる世界の諸原則

供犠の原理は破壊であり、生贄によって破壊したいと願うのはただ「事物」のみである供犠は物=客体を従属関係へと縛り付けている現実的な絆を破壊するつまり生贄を有用性の世界から気まぐれの世界へ引き戻す

人間は現実を基礎付けている諸価値を破壊することと、受け入れることを同時に行うことはできない内在的な内奧性へと回帰することは、当然の帰結として意識が朦朧と曇ることを含んでいる意識とは客体があるところに位置付けられている

内在性において「死」はなにものでもないそこでは死は意味を持たず、生との間に差異もなく、死に対する恐れや抵抗もない逆に事物たちを客観的に位置付けているのは持続である持続によって保存される現実世界において、死はそこに場所を持たないしかし死は現実のまやかしを暴露する

現実秩序は死という内奥の生命の肯定を無効化しようとするが(中和化)、持続の消滅は事物たちの底を露出させる死によって現れるのは一個の事物の喪失ではなく、現実秩序そのものが消え失せることである(消尽)

供犠つまり犠牲として捧げるということは、必ずしも殺すということではなく、放棄であり贈与することである持続の秩序から離れて無条件な消尽の暴力性へと移行すること創り出し保存する世界から外に出ることそして供犠において捧げるものとは、内在性から引き出されたもの、つまり本来精霊としてありえたものに限られる

人間は事物たちの秩序によって建立された建造物の中に入るや否や死を恐れるようになる死が事物たちの秩序を乱すから人間が事物の秩序と両立しない内奥次元を恐れなかったら供儀は存在しなかっただろう内奥性は事物と同じ平面にあるのではなく、その本性において脅かされる状態を通じてこそ聖なるものであり、不安という光景を帯びている

事物たちの秩序は聖なるものを拘束し脈絡づけようとするしかしその束縛こそが聖なるものを奔騰状態へと変えるその発火に適しているのは人間の生であって動物性ではない人間は一個の事物である限りにおいて存在しているが、その限界を超えるには動物的な睡りに回帰することは避けられず、それは祝祭によって制限付きの解決を得る

祝祭のうちに、一方で豊穣の希求、一方で贖罪を願うという持続を目指した共同性が現れるそれは精霊=精神として位置づけられ、操作的な諸形態に残されているしかしそのことは判明に区切られた意識のうちへの定置であり、内在性への回帰という祝祭の本来の意味合いを失っている祝祭の真姿をどうしても認識しえないという宿命的誤認こそ宗教の根本問題だと言える明晰となった意識は見失ったものを探求するしかし失ったものに近づけばまた新たに見失う

宗教のみが自身の実質を破壊するような消尽へと促すことができるそれに対して武器を持った行動は、他の人々やその富や財産を破壊する戦争における虐殺や掠奪は供儀に近い意味合いを持っているが、それは失われた内奥性への回帰では決してない戦争は個人の展開を戦士の個人性に限定するそれは実質個人の否定であり、見え透いた嘘である戦争は暴力性を服従させ同類を奴隷状態へ還元してしまう軍事秩序は奴隷を商品にする戦士の威信は淫売婦の微笑と同じで、その真実は利益追及にある

人身供儀は有用性に対する最も根底的な異議申し立てであるしかし戦争における敵を対象とする暴力性は供儀の本質である内的暴力性とは違う求められる犠牲とは、もはや一民族の有用な富ではなく民族全体を意味するものとなったやがて消尽はその残酷さに耐えきれずひとつの詐術によって代理としての供儀が供えられるようになるそして消尽が一切に優先する体制は、軍事力が優位に立つ体制に抵抗できず後退していった

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”自然”と聞いて連想するのは、どこにも独立したもののないうごめきのようなもの、バランスや調和という言葉でも計りきれない何かで、バタイユは「きまぐれ」な世界とも例えている人はそこに意味や関係や競争や調和を見出そうとするけど、あるのはただ充足或いは「生」といえるもの

構築とは破壊の否定「きまぐれ」の否定
バタイユは構築されるものを「まやかし」の世界とも言っている
世の中は「きまぐれ」と「まやかし」ということになる

「きまぐれ」に法則はあっても理由はない
「まやかし」に意図はあっても答えはない

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