バタイユの「それ自体に価値がある」という言葉が紛らわしい…
「それ」は切ることで姿を現す…
切られることで(切られるから)他との間に関係が現れる…
意味や価値や目的や理由は常に不自然なヴィジョンに過ぎない…
実際は「それ」も「価値」も作り物…
「それ自体に価値がある」とは「切ることさえできない充足」と考えたい…
水の中の水とはそういうものだろう
道具は周囲のものとの関連性に乏しい…
異質なものであり、進化や淘汰などの結果ではない…
人間との従属関係の中で突如出現したものだ…
しかしどんなものであれ、すべては水の中の水に変わりはない…
作った道具はやがて劣化なり変容なりするのだろう…
ゴミも廃墟も自然の形態であり反応に過ぎない…
例え原爆が落ちようとも、それは隕石が落ちるのと変わらない…
人間が何をしようが自然は相変わらずそこに在る…
この世に食べ物は存在しない…
食べる行為が食べ物を作る…
理解はそうあるべきだろう…
おそらく思考とはバタイユが言う「同じ面に定置する」ことから始まっている…
それは道具=有用性の面に対象を構築するということ…
そして対象の出現は、同時に主体の形成を伴っている…
道具を作ること、自分を自分と見做すこと、他者を他者と見做すことは同じこと…
主体は道具を作り、対象を構築する…
道具を作る「労働」と概念を作る「思考」は同じ流れの中にある作業に思える…
物質を加工する行為と客体として切る行為…
水の中の水は水でしかないのだが…
過去の記憶や技能や癖は、物質と同じように残り、やがて消えるかまたは変容する…
ソラリスに似てるといえば大袈裟だろうか…
[…] https://hitkeas.com/2020/02/06/moral/ https://hitkeas.com/2019/06/01/%d1%81%d0%be%d0%bb%d1%8f%d1%80%d0%b8%d1%81/ https://hitkeas.com/2018/03/20/material/ https://hitkeas.com/2017/08/19/something/ […]
[…] 結局「私」が「世界」を作っているという話に思える…「私」が思惟で「世界」が延長ではない…逆だ…「私」は身体という延長の中にあり「世界」は思惟の中にある…それは平行している…風船をUFOと錯覚しようがそれが世界というもの…小説を読むとき、目で読み、映像を浮かべ、音を再生し、悲しみ、涙が込み上げ…これは思惟と延長が不可分に密着平行していると考えていいのではないか…思考も自然現象と変わらない…ソラリスの海のようなもの… https://hitkeas.com/2019/06/01/%d1%81%d0%be%d0%bb%d1%8f%d1%80%d0%b8%d1%81/ […]
[…] https://hitkeas.com/2019/06/01/%d1%81%d0%be%d0%bb%d1%8f%d1%80%d0%b8%d1%81/ […]