Mindfulness

▶︎禅の言葉/方便智
覚りこそが禅の真髄禅とは語られるべきものではなく、じかに経験されるべきもの禅の言葉は、概念によって考えることしかできない人間の習癖を壊すことを目的とし、修行者を真実へと向かわせ経験させるための方法/案内としてのみ役立つ仏陀の説いたことすべては「月をさす指」だと理解しなくてはならない師たるものは仏道に対する深い理解と弟子の状況に対する的確な洞察に基づいて、新しい方法をそのつど創造していかなければばらない偉大な師たちは仏教でいう「方便智」つまり相手の性格やその時々の状況に応じた方法をそのつど駆使することができるそれは言葉による語りかけのときもあれば、身振りだけのときもある

▶︎所知障/知障
概念に基づいた知識のこと何かが絶対の真理であると固執しているなら、新しい考えを受け入れることはできないたとえ真理が戸を叩いても戸を開けて中に入れようとはしない禅を学ぶものは、真理が入って来れるように「所知障」の囚われから自由になれるよう努めなければならない
・真如/真実それ自体(ありのままの姿)
・自性/それ自身で独立して存在する実体
・法身/究極的な真実を身体としているもの(真理)
・涅槃/煩悩の火が吹き消された状態
これらの言葉は生きた真実とは何の関係もない

▶︎公案
目覚めが訪れるまで、修行者は公案を坐禅の主題として使う数学の答えが問いの中にあるのに対し、公案の答えは修行者の生活のうちにある公案とは修行において必ず必要なものではなく、目的に到達するために禅匠が編み出した技法であり方便である公案は概念化の癖を破壊し生きた真実の核心へと連れ戻すそれは弟子にとって適切なものでなくてはならず、且つ弟子は受け取る準備ができていなければならない

▶︎趙州の「無」
「無」を虚無だと理解してはならない「有」に対する概念と理解してもいけない長年蓄積した知識を捨て、自らがゆっくり熟すのに任せるそうすれば外(世界)と内(自分)がひとつであることを見出すだろう生きた真実から離れて概念という幻想の世界に安住するなら、私たちは生きた真実の属性(いのち)を失うだろう

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西洋哲学の文体は「なのだ」とか「である」とかなのだけど、宗教になると「なのです」とか、何となく上から話しかけるかんじになるしかも仏教は最初から概念を否定するわけだから、その内容は論理的な整合性に欠けたり、ときには言い訳にも聞こえる安っぽさや馬鹿馬鹿しさと紙一重というか噓も方便そういうことなのだろうけど、言葉への依存を否定するやりとりはある意味厄介でもある

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