POTENZA

潜勢力

アリストテレスに倣って
◆ 現勢力(現勢態/エネルゲイア)可能性が実現した状態
◆ 潜勢力(潜勢態/デュナミス)まだ実現していない可能性の状態
潜勢力とは何らかの状態/領域であり、それ自身が可能性であり能力と解釈できる

思考や記憶や技能は潜勢力(潜勢態)であり、文字や言葉は現勢力(現勢態)になる潜勢力とは極めて私的な領域であり、形を持たず共有/評価できない領域のことだろう

さらに二つの潜勢力を区別している
◆ できるようになる(習得、成長
◆ できるがしない(拒否、停止)=非の潜勢力=絶対的潜勢力

本来現勢力になるべくして存在していながら、それが潜勢力として存在している理由は、まだ現勢力に移行できない未熟な段階であるか、或いは現勢力に移行できるにも関わらずあえて移行していないかのどちらかだろう(後者には必要ないときの停止状態から必要な時の拒否など様々なケースが考えられる)それらが渾然一体としてある様がイメージされる人は思考や記憶や技能を隠し持つことができるこの可能性の卵のようなものを自分の意思や反応によって現勢力へ移行させる…

他の動物なら赴くままに行動するだけで「~しないことができる」かといえば、単に疲れたり興味を無くしたりしてるに過ぎないのだろうつまり非の潜勢力は人間を特徴付けるものであり、人間だけにある深みと考えることもできる人間以外の動物も進化如何によっては非の潜勢力を持つのだと思うホモ・サピエンスがそうであったわけだから

違う視点で考えることもできる…そもそも可能性というものは見方によって見えてくるものに過ぎないすべては現実にあるものだけで、それ以外にはない種がやがて花を咲かすことと、思考が文字になることは同じこと思考も含めて何ものも自然の領域以外のものではないのだし、記憶や技能は身体に刻まれた蓄積/保存の類だろう「しない能力」とは、例えば種が殻をまとい条件が揃わなければ発芽しない構造になっていることの進化系のように見える人間固有の能力に見えるものは、その複雑さが質を変え自律したかのように見えるものではないのかそこに深みがあると言えば確かにそうかもしれない

人が大きな社会を維持できているなら、それは非の潜勢力のおかげかもしれないブレーキを掛けられないのなら大きな社会は不可能だ

「しないことができる」とは、勿論いい意味で捉えることもできるが、要は「できない」ということでもあるそれは植物や動物が自然の中で常に答えを持って無作為に有機的に周囲と連動できるのに対して、人間にはその部分が欠如しているということを意味しているそれは無能あるいは非有機的な事態ではないだろうかただそのイレギュラー/亀裂/空白は人間に個性、多様性、自律をもたらした

非の潜勢力はセルフコントロールを可能にした
大きな社会を実現するだけではない
言葉を話したりピアノを弾いたり
「できる」は「できない」という契機によって作られる
絶たれた連動は新たな連動を生み出す
人には固有のワンクッションがある

潜勢力は過去ではない
思考は潜勢力
思考はイマ起こっている
タネがイマ在るように
潜勢力は現勢力と同じくイマの在り方だ

思考もイマ見ている
イマ聞いている
しかしそこに形はない
潜勢態だから
形を持たない在り方…
色鮮やかな暗闇を見、鳴り響く沈黙を聞く…
完成している未完成…

普通は非の潜勢力が現勢力に移行することで演奏が行われるしかし中には非の潜勢力そのものを体現/演奏する人もいるらしいそれができるのはグールドひとりだとアガンベンは言う或いは全く何もしようとしないバートルビーのようなケースもあるアガンベンは潜勢力のことを「受け入れることができるということ」「純然たる受動性、或いは受苦に他ならない」としている

ウォーホルの言葉使い
If you want to know all about Andy Warhol, just look at the surface of my paintings and films and me, and there I am. Theres nothing behind it.

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