Animal Liberation

シンガーは菜食を推奨し、デリダは菜食を批判している
なのにシンガーの考え方に違和感を感じ、逆にデリダの方に頷ける部分がある…
そしてなぜか最後はシンガーと同じ立場になる…

ピーターシンガーは菜食主義の先頭に立つ哲学者だろう
動物への差別を種差別であるとして批判している
動物も痛みを感じるであろうから、倫理的対象として扱うべきだと…
「痛みを感じるから」という点が気になる
人間の基準を強引に人間以外にも適用しようとしてはいないだろうか…
また、生物学の上に築かれる倫理は今後解明されることに左右される可能性があり、程度の問題に還元されて議論が不毛になる危うさも感じる
倫理的な問題は客観的に絶対化して考えるより、逆に主観的でいいのではないだろうか…悲しいからとか耐えられないからとか、そういう理由で十分ではないだろうか…(因みに植物も傷み(痛みではないが)を感じるらしく、ただ植物はそれを嫌がるわけではないらしい…シンガーの主張は「痛みを感じ、なおかつ痛みから逃れようとするから」と読み替えていいかもしれない)
線引きが無意味だとは思わない…人は人を食べたくない…それが最初の線引き…自分はその線を動物まで広げているだけ
どこまで広げるか…
すべてはひとつであって「それ」は人間が恣意的に認めた単位に過ぎない
すべては変化している…すべては過程に過ぎない
個が認められる「それ」には悲しみを伴う死が同居している
しかし個を感じない「それ」には死ではなく変化だけがあるのみ
人や動物には個を感じるから死を感じる
菌類や植物になると個が薄れていく…悲しみを伴う死からは遠くなる
「倫理」というよりは穀物や野菜を食べてる方が「楽」なだけなのかもしれない…
それでいいと思う…他者の痛みではなく自分の痛み…

デリダのシンガー批判も「痛み」という基準の適用が人間中心主義だというもの…その点に関しては共感できる…線引きを廃し理論上人間まで食の対象にしてしまうことにも潔さを感じる
デリダの主張では、菜食主義は肉食あってのものであり根本的に反動的性格を持つものということになる…肉食は何かを否定しているものではないが、菜食は肉食を否定しているのであり、菜食は肉食に付随するものだと…しかし肉食文化が廃れて菜食がメインになれば、菜食と肉食が入れ替わるだけじゃないだろうか…
デリダの思想はいつも偏った主張に警鐘を促すものだ…デリダ自身はそこから進もうとはせずにその位置をキープしようとしている気がする…周りから見たらお茶を濁してそれだけのように映るかもしれない…おそらくそれがデリダのやりかた…
デリダは菜食を批判しているが、動物に対する理解を求めている…あるいは動物に対する人間側の解釈や対応に警鐘を促している

人間は人間中心主義でいいと思うし、それしかできないと思う…客観的な知識や情報を参考にしつつも、最後は内なる声を聞きながら、どれだけ自分に嘘をつかずに内部で調和を保てるか…そこに「責任ある決定」が生まれるのではないだろうか…